第2章 事件勃発

 熱くなった煜瑾の体を抱きかかえ、文維は寝室に運んだ。
 力の無い煜瑾を肌触りの良いシルクのパジャマに着替えさせ、ベッドで寝かせると、改めて体温計で熱を測った。

「ああ、38℃以上ありますね。咳などは出ていないし、喉は痛くないですか?」

 文維の問診に、煜瑾は素直に痛くないと答える。

「ウィルス性の風邪ではなく、ストレスからくる発熱でしょう。解熱剤を飲む前に、体が温まるよう、ホットミルクを飲みませんか?それとも、冷たいジュースの方がいい?」

 煜瑾専属の優秀な医師として、文維は煜瑾をかいがいしく世話する。それだけで、煜瑾は安心して、今夜の恐ろしい記憶も薄れて行く気がした。

「文維…私は、明日は在宅ワークの予定だったので、大丈夫です。文維は明日もクリニックのお仕事があるのだから、私のことなど気にせず、ゲストルームでゆっくり寝て下さい。文維も、今夜は疲れたでしょう?」

 天使の心しかない煜瑾が、そう言って文維に労わりの言葉を掛ける。しかし、文維の方は笑っているばかりだ。
 ホットミルクと解熱剤用の白湯を用意して煜瑾に飲ませ、煜瑾が落ち着くと、自分はサッとシャワーを済まして、自分と煜瑾の今日のお出掛け着を手慣れた様子で片付けた。

 もう煜瑾は眠ったかと文維が覗き込むと、煜瑾が熱で潤んだ瞳で見返してきた。

「眠れない?」

 穏やかに声を掛け、文維も煜瑾と同じベッドに入った。そして、当然のように熱っぽい煜瑾の体を抱き寄せる。

「文維…。私は1人でも大丈夫ですから、文維もゲストルームで1人ゆっくり…」

 言いかけた煜瑾の唇に文維が指を乗せた。それ以上何も言わせず、もう一度文維は温柔に微笑みかけた。

「これ以上熱が上がったり、夜中に寂しくなったりしたらどうするんです?こんな煜瑾を1人にしては、私も安心して寝られませんよ」
「…文維…」

 これ以上押し問答をしていても仕方が無いと思った煜瑾は、素直に文維に身を任せるようにしてリラックスした体勢になった。文維の胸の上に頭を乗せると、愛する人の鼓動が聞こえる。煜瑾は、この文維の力強い心臓の音が好きだった。
 愛されていることが実感できる。幸せだとしみじみ嬉しくなる。煜瑾はあまりに満ち足りていて、泣き出しそうになった。

「どうしました?気分が悪い?」
「いいえ。…ゴメンなさい。こんな風に熱を出して、文維に迷惑をかけてしまって…」

 申し訳なさそうに言う煜瑾を、文維は笑って励ますように額に口付けた。

「それだけ煜瑾が繊細で、本当に天使のように心が清らかな証拠ですよ」

 からかわれたような気がして、煜瑾はちょっと困ったような表情になる。

「でも…。小敏も…、おかあさまでさえ、あんな恐ろしいことを目の当たりにしても、心を落ち着けていらっしゃったのに…」

 煜瑾は、親友の小敏や、母と慕う恭安楽が気丈であったことを羨ましそうに言った。それを文維は笑って否定する。

「小敏はあれでも軍人の1人息子。私たちの知らないところで豪胆な所があるのです。お母さまに至っては、彼女の若い頃は革命の時代でしたからね。父と出会ったきっかけも北京の動乱の頃だと聞いています。世代的に、少々の荒事には動じないのかもしれません」

 純真な煜瑾は、今夜のできごとが衝撃的過ぎて怯え切っているのだが、そんな自分を少し恥じてもいた。

「やっぱり…、私は弱虫なのです。文維に迷惑ばかり掛けてしまう…」

 唐家の至宝と呼ばれ、大切に、大切に育てられた煜瑾は、逆に現実世界の醜さ、厳しさに免疫が無い。そんな世間知らずで、何も出来ない自分が、煜瑾には悲しかった。
 そんなナイーブな煜瑾を気遣い、文維はさらに強く煜瑾を抱き締めた。

「私は、こうやって煜瑾の看病が出来ることを幸せだと思っているし、迷惑だなんて思ったことも無い。こんなに優しい煜瑾を『弱虫』というのなら、私は『弱虫』が大好きですよ」
「……」

 文維を愛して、これほどに想われ、煜瑾は幸福に満ちて、言葉も無かった。

「さあ、何も心配せずに、コレを飲んで休みましょう」

 文維はそう言って、軽い睡眠導入剤を1錠、煜瑾に与えた。

「先ほどの解熱剤と一緒に飲んでも問題の無い薬です。安心して飲んで下さい」

 疑うことを知らない煜瑾は、文維からピンク色の錠剤と白湯の入ったグラスを受け取り、コクリと飲んだ。

「おやすみなさい、文維」

 そう言って煜瑾は瞼を閉じた、黒々とした長い睫毛が少し涙で濡れていた。それでも今は落ち着いて、煜瑾は静かに眠りに落ちていった。

「おやすみ、煜瑾。愛しているよ…」

 文維も、愛する天使を胸に抱いて、満たされた気持ちで寝入ったのだった。


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