第2章 事件勃発

 「金煌麗都劇場ゴールデン・シアター」の2階桟敷席は、舞台を囲むように半円形で並んでいる。ヨーロッパのオペラ座の建築デザインをモデルにしているからだ。だが、それらは中国風の内装で、京劇を鑑賞するための桟敷席に似せた個室になっている。そこでは食事も自由で、1人からでも利用できるが、定員は4名だ。
 また、中国風の内装に合わせ、それぞれの個室には中国らしい名前が付けられていた。
 舞台正面にある。一番格式の高い席が、百花の王と呼ばれる「牡丹室」。そこから左、右と格式に合わせて振り分けられている。正面の「牡丹室」と、その左右の「芙蓉室」、「蓮花室」は政府と軍の関係者が入っていた。これもまた、王淑芬の采配だ。中国では、何よりも面子を重んじる。政府高官や軍人には最も敬意を払う必要があるのだ。
 そのため、一番の投資元である唐煜瓔でさえ、格式で言えば4番目となる「梅香室」に招待されていた。舞台正面から見て、左寄りの席だが、マジックショーを見るには正面よりも少しずれた方が面白い、と唐煜瓔はこの席を気に入っていた。

「失礼します」

 その名の通り、梅の花を基調にした品のある個室の、透かし模様の入った扉の向こうから、王淑芬の声がした。

「入りたまえ」

 悠然と、まさに威風堂々とした態度の唐煜瓔が入室を許すと、そこにはエリートビジネスマンに見えなくもない40代くらいの男性が、王淑芬と一緒に入って来た。
 頼んでおいたお寿司が届いたのだと思い、飛び切り愛想の良い笑顔で迎えた小敏は期待が裏切られ、露骨にガッカリした顔になった。

「唐煜瓔さま、本日はこのようなことで、ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」

 開口一番に王淑芬はそう言って深々と頭を下げた。

「いや、何も君のせいでは無かろう。実際のところ、何が起きたか説明はしてもらえるのかね?」

 容姿端麗、その上家柄も良く、上海でも有数の大富豪である唐家の現当主を目の前にして、呉警部は完全に仕事を忘れていた。その王気さえ感じさせる威厳に圧倒されるが、なぜか反発は感じない。むしろひれ伏したいと思うほどの、手の届かない気品を感じるのだ。
 ただの富裕者や美男というだけではない、高い風格が唐煜瓔にはあった。

「はい。それで、唐様、こちらは上海警察の呉警部です。詳しくは、警部から…」

 そう言って王淑芬が場を譲ると、呉警部は慌てて前に出て、唐煜瓔に手を差し出した。

「初めまして。私は上海警察静安署から参りました、呉志浩警部と申します。よろしくお願いします」

 すでに、より格式の高い3つの個室を訪問し、政治家や軍人と面会をした呉警部だったが、どれもこれも「たかが警官」という態度を崩さず、ろくに相手にもされず、事情聴取どころではなかった。
 だが、いくら金持ちだといっても、所詮は一市民だと踏んでいた呉警部は、唐煜瓔の厳然とした姿にすっかり呑まれていた。

「警部?ということは、やはり事件が?」

 しかし、唐煜瓔もまた、呉警部の顔色を窺うような小物では無かった。握手を求めた手のやり場に困っている呉警部を無視するように、ステージの上で起きた真相について迫ろうとした。
 そんなやり取りを、小敏は面白そうに見ていたが、ふと気が付いて階下を見ると、煜瑾がこちらを見上げていた。
 小敏と目が合うと、煜瑾は疲れた様子でありながらも、嬉しそうに笑って手を振った。

「もう帰るの?」

 会場内に人がいないのをいいことに、小敏は大きな声で親友に問いかけた。
 煜瑾の方は、そんな無作法はせず、ただ大きく頷いた。そして、電源を切ったスマホを取り出し、小敏に見えるようにして振った。それは、後で電話かチャットをして来るという意味だと、すぐに察した小敏も、煜瑾に負けぬほど大きく頷いて、文維と煜瑾の2人を見送ってブンブンと手を振った。

「お兄さま、煜瑾はもう、文維と一緒に帰るそうです」
「それは良かった。こんな騒ぎで疲れただろうからね」

 いつまでも繊細な弟を心配する唐煜瓔だ。

「それで…」

 愛想笑いを浮かべ、言いにくそうに呉警部が声を掛けた。

「ああ、失礼。それで、まず何があったのか、聞かせてもらおうか」

 決して冷酷な声色では無いのだが、なぜか唐煜瓔の言葉には有無を言わせぬ力があった。

「え~、ステージで倒れたのは、マジシャンのアシスタントです」
「それは分かっている。ずっと舞台を見ていたのだから」

 ほんの少し侮蔑的な視線になって、唐煜瓔は言った。

「あ、そうでした。実は…」

 もったいぶった様子で、呉警部は声を潜めて核心を告げた。

「彼女は毒を盛られたようでして…」






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