第2章 事件勃発
幕が下りたまま、観客席はほとんど人が居なくなっていた。
流れ出た観客たちは、しばらくロビーで騒いでいたが、今では静かになっている。
「ねえ、いつになったら帰れるのかしら?」
待たされることに飽きてきた恭安楽が、思わずこぼした。
「まあ待ちなさい。主催者側から説明があるはずだ」
泰然自若の包伯言が穏やかに答えると、それを待っていたように、三々五々にサービス係たちがトレイに飲み物が入ったグラスを載せて運んで来た。
「え?いただけるの?先ほどのシャンパンもあるの?」
急に元気になった恭安楽は、シャンパンの入ったグラスを2杯も受け取った。包伯言はオレンジジュースを1杯だけにした。
「よろしけば、お飲み物を…」
テーブル席ではない、一般の観客席にいた文維と煜瑾にもサービス係が声を掛ける。このような状況になったことで、飲み物を提供するサービスが付随していない席に座る文維たちにも、主催者側が用意したのだった。
「ありがとう」
文維は紳士的に礼を述べ、自分と、不安そうな煜瑾のために赤ワインを2杯受け取った。
「ワインで、少し落ち着きますよ。体も温まりますからね」
文維の励ましに、泣きそうな顔をしていた煜瑾も、無理をして微笑んだ。
「飲むものだけなの?ボク、何か食べる物が欲しいな」
注文していたビールとミックスナッツを受け取りながら、相変らず欠食児童のように食べ物を欲しがる羽小敏に、唐煜瓔もさすがに慣れて来たようで、もう驚く様子も無い。
「あのアシスタントの女性に何があったのだ?」
自分はミネラルウォーターを受け取りながら、唐煜瓔がサービス係に訊ねる。係の者はその威厳に逆らえず、公表しないように上から命じられていたにも関わらず、つい漏らしてしまう。
「はい。どうやら…。急な発作で倒れたとか…」
「死んだのか?」
「おそらく…。それで、今は警察が来るのを待っているそうです」
「警察?」
唐煜瓔より先に、小敏が反応した。だが、そこから先は何も言わない。急に真剣な顔になり、またもジッと舞台を見つめる。
「そうか。ならば、警察が来て、主催者からの説明があれば、帰れるということだな」
今後の展開を予想して、納得したのか、唐煜瓔は口の軽いサービス係に相応分以上のチップを渡し、下がらせた。
「あ、まだお寿司が残ってたら持って来てね!」
慌てて追加する羽小敏に、唐煜瓔はもはや破顔するしかなかった。
***
上海警察の顧平は、この道40年の叩き上げのベテランで、頑固で信念のある、多くの警官から尊敬されている警部である。
その顧平警部が、今所属している静安署から近いホテルで「事件」があったと知らされ、駆け付けたのは、夜の9時近く。現場であるホテルの前には、野次馬なのか、行き場を失った客なのか、とにかく人が多かった。
「顧警部!」
すでにホテル側によって現場は立ち入り禁止になっているが、巡査たちはまだウロウロと規制線の準備や人員整理で落ち着かない様子だった。
そんな中で若い女性の声に呼ばれ、何事かと振り返った顧警部の目に入ったのは、まるで仔犬のように無垢で期待に満ちた瞳で自分を見つめる、小柄で色白の女性の巡査だった。まだ警官になって日が浅いのか、制服もパリッと新しく感じる。
「なんや、新入り」
面倒くさそうに警部が堪えると、巡査はまるで神にでも出会ったかのように目を輝かせる。
「え!え!一目で自分が新入りだとお分かりに?さすが、伝説の顧警部の慧眼ですね!」
「伝説て…。人を年寄りみたいに言うな」
地元出身で、コテコテの上海語を隠そうともしない顧警部だが、高い検挙率を誇るキレ者だとして名が知られている。
「有名な顧警部とご一緒できて光栄です!」
世間知らずの若い女性警官から憧れの眼差しで見られて、喜ぶような歳の顧警部ではない。
「アホか。お前みたいなペーペーとなんで『ご一緒』するねん。お前は外回りやろ」
「『お前』ではありません!方萌です!」
相変らず明るく純粋な笑顔でそう言う、若々しい方萌巡査が、煩わしいというよりは、眩しい気がして、顧警部は目を逸らした。
「…ほな、方巡査。持ち場へ戻れ」
そう言い残して現場へ急ごうとした顧平警部に、方巡査が元気よく答えた。
「はいっ!私は顧警部が来られたら、現場へご案内するように命じられ、ここでお待ちしておりました!」
意気揚々とそう言った方巡査に、顧平警部は気の良い近所のオジサンのような笑顔を向け、次の瞬間、大きな声で怒鳴りつけた。
「アホか、お前!そんなら、余計な事言うてんと、さっさと案内せんかい!」
「はいっ!」
ビシっと敬礼を決めると、方萌巡査は嬉々として先導を始めた。
「このお嬢ちゃん、心臓に毛が生えとるな」
打たれ強い方萌を、案外と顧警部は気に入ったようだった。
流れ出た観客たちは、しばらくロビーで騒いでいたが、今では静かになっている。
「ねえ、いつになったら帰れるのかしら?」
待たされることに飽きてきた恭安楽が、思わずこぼした。
「まあ待ちなさい。主催者側から説明があるはずだ」
泰然自若の包伯言が穏やかに答えると、それを待っていたように、三々五々にサービス係たちがトレイに飲み物が入ったグラスを載せて運んで来た。
「え?いただけるの?先ほどのシャンパンもあるの?」
急に元気になった恭安楽は、シャンパンの入ったグラスを2杯も受け取った。包伯言はオレンジジュースを1杯だけにした。
「よろしけば、お飲み物を…」
テーブル席ではない、一般の観客席にいた文維と煜瑾にもサービス係が声を掛ける。このような状況になったことで、飲み物を提供するサービスが付随していない席に座る文維たちにも、主催者側が用意したのだった。
「ありがとう」
文維は紳士的に礼を述べ、自分と、不安そうな煜瑾のために赤ワインを2杯受け取った。
「ワインで、少し落ち着きますよ。体も温まりますからね」
文維の励ましに、泣きそうな顔をしていた煜瑾も、無理をして微笑んだ。
「飲むものだけなの?ボク、何か食べる物が欲しいな」
注文していたビールとミックスナッツを受け取りながら、相変らず欠食児童のように食べ物を欲しがる羽小敏に、唐煜瓔もさすがに慣れて来たようで、もう驚く様子も無い。
「あのアシスタントの女性に何があったのだ?」
自分はミネラルウォーターを受け取りながら、唐煜瓔がサービス係に訊ねる。係の者はその威厳に逆らえず、公表しないように上から命じられていたにも関わらず、つい漏らしてしまう。
「はい。どうやら…。急な発作で倒れたとか…」
「死んだのか?」
「おそらく…。それで、今は警察が来るのを待っているそうです」
「警察?」
唐煜瓔より先に、小敏が反応した。だが、そこから先は何も言わない。急に真剣な顔になり、またもジッと舞台を見つめる。
「そうか。ならば、警察が来て、主催者からの説明があれば、帰れるということだな」
今後の展開を予想して、納得したのか、唐煜瓔は口の軽いサービス係に相応分以上のチップを渡し、下がらせた。
「あ、まだお寿司が残ってたら持って来てね!」
慌てて追加する羽小敏に、唐煜瓔はもはや破顔するしかなかった。
***
上海警察の顧平は、この道40年の叩き上げのベテランで、頑固で信念のある、多くの警官から尊敬されている警部である。
その顧平警部が、今所属している静安署から近いホテルで「事件」があったと知らされ、駆け付けたのは、夜の9時近く。現場であるホテルの前には、野次馬なのか、行き場を失った客なのか、とにかく人が多かった。
「顧警部!」
すでにホテル側によって現場は立ち入り禁止になっているが、巡査たちはまだウロウロと規制線の準備や人員整理で落ち着かない様子だった。
そんな中で若い女性の声に呼ばれ、何事かと振り返った顧警部の目に入ったのは、まるで仔犬のように無垢で期待に満ちた瞳で自分を見つめる、小柄で色白の女性の巡査だった。まだ警官になって日が浅いのか、制服もパリッと新しく感じる。
「なんや、新入り」
面倒くさそうに警部が堪えると、巡査はまるで神にでも出会ったかのように目を輝かせる。
「え!え!一目で自分が新入りだとお分かりに?さすが、伝説の顧警部の慧眼ですね!」
「伝説て…。人を年寄りみたいに言うな」
地元出身で、コテコテの上海語を隠そうともしない顧警部だが、高い検挙率を誇るキレ者だとして名が知られている。
「有名な顧警部とご一緒できて光栄です!」
世間知らずの若い女性警官から憧れの眼差しで見られて、喜ぶような歳の顧警部ではない。
「アホか。お前みたいなペーペーとなんで『ご一緒』するねん。お前は外回りやろ」
「『お前』ではありません!方萌です!」
相変らず明るく純粋な笑顔でそう言う、若々しい方萌巡査が、煩わしいというよりは、眩しい気がして、顧警部は目を逸らした。
「…ほな、方巡査。持ち場へ戻れ」
そう言い残して現場へ急ごうとした顧平警部に、方巡査が元気よく答えた。
「はいっ!私は顧警部が来られたら、現場へご案内するように命じられ、ここでお待ちしておりました!」
意気揚々とそう言った方巡査に、顧平警部は気の良い近所のオジサンのような笑顔を向け、次の瞬間、大きな声で怒鳴りつけた。
「アホか、お前!そんなら、余計な事言うてんと、さっさと案内せんかい!」
「はいっ!」
ビシっと敬礼を決めると、方萌巡査は嬉々として先導を始めた。
「このお嬢ちゃん、心臓に毛が生えとるな」
打たれ強い方萌を、案外と顧警部は気に入ったようだった。
