プロローグ

 それは、清明節せいめいせつの連休2日目の午後だった。
 中華圏における清明節は、先祖に感謝する、日本で言うお彼岸のようなものだ。
 清明節当日にあたる昨日は、ほう家ととう家のお墓参りを終えた包文維ほう・ぶんい唐煜瑾とう・いくきんだったが、今日は包家でのランチに招待されていた。清明節は、先祖への供養だけではなく、家族の絆を深めるものでもあるからだ。

 特にこの日は、家族で集まる理由があった。

「こんにちは~!」

 見目麗しく、心清らかで、天使のような唐煜瑾が、美しいピンクのバラの花束を抱えて現れると、自宅の玄関で出迎えた恭安楽きょう・あんらくは、少女のように頬を染めて微笑んだ。

「まあ、キレイ」

 嬉しそうにバラを受け取る、若々しく、可憐で、美しい「おかあさま」に、煜瑾も満足そうだ。

「煜瑾が選んだ花なのですよ。ピンクのバラは『幸福』という花言葉だそうです」

 そう言いながら、煜瑾と一緒に包家の玄関に立ったのは、恭安楽の実子で、煜瑾の恋人である包文維だ。

「他に、『上品』とか『しとやか』とか、『可愛い人』という意味もあって、おかあさまにピッタリだと思ったのです」
「ありがとう!とっても嬉しいわ、煜瑾ちゃん」

 ちょっとはにかみながら言う煜瑾から花束を受け取り、安楽はその手を取ってリビングへ移動する。

「一昨日、北京から戻ったばかりで、お疲れなのでは?」

 1人息子として母を心配する文維に、包夫人は、あっけらかんと明るく笑い飛ばした。

「煜瑾ちゃんのキレイなお顔を見れば、元気になるわよ。ね、小敏しょうびん

 先にリビングで寛いでいた、文維の従弟であり、煜瑾の親友である羽小敏は、すでに何かをモグモグと口にしながら、大きく頷いた。

「さあ、今日は私の手作りお菓子の他にも、北京のお土産もあるのよ」

 そう言って包夫人は、リビングの大きなソファーセットに小敏と並んで煜瑾を座らせると、お茶の用意をするために、一度キッチンに戻った。
何も言わずに文維はその後を追い、母の手伝いを始める。
 一旦ソファーに腰を下ろしたものの、ハッと気づいてさらにその後を追おうとした煜瑾を、小敏が腕を掴んで引き留めた。

「煜瑾は、ここに居ればいいんだよ。たまには親子水入らずでキッチンに立つのも悪くない」

 そう言ってニッコリした、親友の高校時代から変わらない愛想の良い笑顔に、煜瑾は素直に従うことにした。

「これ、美味しいよ」

 そう言って小敏は煜瑾の手に、月餅げっぺいのような丸くて平べったいお菓子を乗せた。

「これ、叔母さまが北京で買って来た老舗の銘菓だよ。『京八件ジンパーチェン』って言って、昔ながらの代表的な宮廷菓子を8種類詰めたもので、昔の北京の様子が描かれた巻物まで付いてるんだ。まさに『The 北京土産ペキンみやげ』って感じだよね」
「へえ~」

 相変わらず滑らかに口が回る小敏に、いつも聞き役の煜瑾だが、それが高校時代以来の2人の関係なので安定の穏やかさだ。

「あ、これ、梨餡ですね~。フルーティーで、とっても美味しい!」
「でしょ。8種類のうちで、一番煜瑾が好きそうだと思ってた」
「うふふ。小敏は何でも知っているんですね」

 楽しそうにお菓子を頬張る仲良し2人組は、まるで知り合った頃の高校生のように初々しく見えた。

「どう、煜瑾ちゃん?北京のお菓子はお口に合って?」

 清明節当日は包家で過ごしたいと思った恭安楽は、その前に北京の実家に戻り、お土産をどっさり持って2日前に上海に帰ってきたところだった。
 香りの良い北京の茉莉花茶ジャスミンティーを運んで来た恭安楽が、お気に入りの可愛い2人に、そう言って微笑みかけた。

「とっても美味しいです、おかあさま」

 単に顔立ちが整っているだけではなく、純真無垢で、気品のある煜瑾の笑顔は、本当に天使のようで見る者を癒してしまう。
 何とも言えない穏やかで、優しい気持ちで、包夫人は煜瑾の隣に腰を下ろした。
 文維が手際よくティーカップをそれぞれの前に並べる。
 それをまた煜瑾が、無邪気な様子で嬉しそうに受け取るのが、なんとも微笑ましく、その場にいた全員が幸せな気持ちになった。

「こっちのお菓子も美味しいよ」

 小敏が恭安楽お手製のフロランタンを手にすると、可愛いいたずらっ子のように笑って口に入れた。

「北京の伝統菓子も、珍しくて美味しいですよ」

 せっかくの包夫人の北京土産にケチが付かないよう、煜瑾が慌てて言い添えるが、それを笑い飛ばすように、恭安楽は言った。

「いいのよ。珍しいだけで、大して美味しい物じゃないし。でもね、私の若い頃にはこんなものしかなかったの…」

 そう言いながら、恭安楽は当時に思いを耽るような遠い目をした。

「あの頃の私は、父の外交のお仕事に付いて海外に行くことがあったから…。外国のお菓子がとっても美味しく感じたものよ。でも北京にはまだ美味しい洋菓子なんて無くて…。仕方ないから自分で作るようになったの」
「だから叔母さまのお菓子は、外国仕込みで美味しいんだね」

 可愛く媚びるように言って、小敏がフロランタンをペロリと頬張り、すぐにブラウニーにも手を伸ばした。

「おかあさまのお菓子は、本当にプロのお菓子屋さんよりも美味しいですよね」

 嬉しそうにそう言いながら、煜瑾も手作りのフロランタンに手を伸ばそうとして、何かに気付いた。

「!」

 その表情の変化に、文維がすぐに察した。絹糸のように細い飴の束に、実は煜瑾は目が無いのだ。

「その『龍髭糖りゅうひとう』は、煜瑾が好きなお菓子なんですよ」

 文維の言葉に、煜瑾は少しはにかんで顔を赤らめて俯き、小敏と恭安楽は意外な言葉に目を丸くした。そんな遠慮がちな煜瑾に、文維が龍髭糖を取り分けて煜瑾へと手渡した。細い糸が粉まみれになったようなお菓子は、非常に食べにくいにも関わらず、なぜか煜瑾はこの上なくキレイに、品よく食べることができた。

「昔はともかく、今は『龍髭糖』は北京だけでなく、どこにでもありますからね。上海でも食べられるんです。以前に唐家のお兄様にいただいて、煜瑾が喜んでいたのを覚えています」

 自分の細かい嗜好このみまでも、ちゃんと覚えていてくれる文維の愛情に、煜瑾は嬉しくなって、ますます天使の美貌を輝かせた。

「北京のお菓子なら、まだこっちに『茯苓夾餅フーリンジャービン』っていうのがあるよ。薄いパリパリのおせんべいにジャムを挟んだみたいなやつで、美味しいよ」

 小敏の言葉に、煜瑾は澄んだ眼差しで小敏から茯苓夾餅を受け取った。小敏が手渡した茯苓夾餅の中身は、伝統的な桂花餡だったが、小敏のものは現代的にアレンジされたらしいチョコレート風味だった。

「どれも美味しくて、食べきれないほどありますね」

 満ち足りた様子で煜瑾が述べると、その素直な感想に、一同はまた明るい笑いに包まれ、包家のリビングは幸福な空気だけに包まれたのだった。



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