「文維…」

　その疲労感を目の当たりにした煜瑾は、少しでも愛する人に役に立ちたいと、大きな黒い瞳で文維を見つめ、白く長い指先を理知的な顔立ちの恋人の頬に伸ばした。

「先に…お風呂に入りますか？…私…、私が、文維にマッサージしましょう…、か？」

　純粋な煜瑾は、愛しい恋人のためにと申し出るものの、濃艶な男を前にして、:初心(うぶ)で:晩熟(おくて)な「唐家の王子さま」はその扇情的な行為を思い浮かべては恥じらい、耳まで真っ赤になっている。
　それが可愛らしくて、文維は柔らかな眼差しで愛しい恋人をじっと見つめてしまう。

「ありがとう。煜瑾の優しい気持ちだけで癒されます」

　そう言った文維だったが、次の瞬間、氷のような目をした范青䒾の告白がフラッシュバックする。

「！…っ、ご、ごめん、煜瑾。まず…、まずは、夕食を先にしましょう」

　あの告白の恐ろしさに、文維はぞっとして動揺し、煜瑾の高潔さに後ろめたさを覚えた。

「え？あ…、そうですか…」

　文維のどこか落ち着かない様子に、煜瑾も胸が痛むが、何もできずに素直に従うことにした。

「では、すぐにカレーとナンを温めますね。冷蔵庫にサラダもあるし、ロゼのスパークリングワインも冷やしてあるのですよ」

　そう言う煜瑾の笑顔が眩しく思えて、文維は目を細めた。その胸中は複雑で、苦しく、恐怖さえ感じていた。

　煜瑾と文維は、整然とした清潔なキッチンで、並んで夕食の支度をした。カレーを温め、ナンを焼き直し、マンゴーを入れたヨーグルトドリンクをラッシーの代わりにした。冷蔵庫にあったグリーンリーフの上にスモークサーモンとカッテージチーズを乗せたサラダと、文維がリラックスできるように煜瑾が用意したスパークリングワインを取り出した。

「素晴らしいディナーですね」

　ダイニングテーブルに全てを並べ、文維は煜瑾のために椅子を引いた。天使の笑みで優しい恋人に感謝をして、煜瑾は腰を下ろした。

「ワインをどうぞ」

　煜瑾がボトルを手にすると、文維もグラスを差し出した。一度グラスを置いてボトルを受け取り、今度は文維が煜瑾のグラスに淡いピンクの飲み物を注いだ。

「お疲れ様」「ありがとう」

　グラスを合わせると、チンと澄んだ音がする。煜瑾が自分で納得いくまで探したボヘミアングラスだった。

「ふふふ、シュワっとして美味しいですね」

　普段はあまりアルコール類を:嗜(たしな)まない煜瑾だが、真夏の夜に飲むスパークリングワインは心地よかった。

「ええ。とっても美味しいです」

　文維はグラスを少し持ち上げ、イヤな物を流し込むようにロゼワインを飲み干した。