氷の告白

 文維の診察室に入ってきた范青䒾は、美しく、自信たっぷりで尊大な印象さえ与える。
 優雅に、妖艶に文維を見詰めながらクライアント専用のカウチに腰を下ろし、彼女は口を開いた。

「あなたに…迷惑をかけるわ」

 軽い口調でそう言って、彼女はゾッとするような告白を始めた。

「私、ジフィリスなの…。分かる?分かるわよね、あなたは優秀なお医者様だもの」

 范青䒾の言葉に、カウンセラーとしての穏やかな表情を浮かべていた文維が、すっと真顔になった。
 彼女が放った言葉の意味が理解できないのでは無かった。「それ」を現実として受け止められないのだ。

「ジフィリス…?梅毒?」

 范青䒾は、感染力の強い性病に罹患していると打ち明けたのだった。
 あまりの衝撃に文維は声も出せず、ただ彼女の冷たい目を見詰めた。
 そんな文維を意に介さぬように、范青䒾は気怠げに告白を続けた。

「ある日、全身に覚えのない発疹が出来たの。パリの病院に行って検査してもらったら、いきなり『ジフィリス』だって言われたわ」

 ここで范青䒾は、息を継いだ。そして、意地悪く口元を歪めた。診断を下された当時のことを思い出し、苦い思いが:過(よぎ)ったらしい。

「もちろん、最初は夫を疑ったわ。彼が私を感染させたんだって思った。でも、彼に打ち明け、彼も慌てて血液検査を受けたら…」

 彼女は、改めて文維の精緻な美貌を見つめ、笑った。

「彼は陰性だったのよ」

 その事実に、彼女は絶望した。そこで初めて彼女は、自分の上海での行いが全ての元凶だと思い知らされたのだ。
 楚々とした美しさに、艶麗な魅力、そして誰よりも奔放で大胆な性的な好奇心。誰もが彼女を放っておかなかった。快楽に満ちた一夜を過ごし、翌日は新しい恋を求めて飛び立つ、まさに上海の恋の蝶だった。

 そんな蝶との戯れを楽しんだ経験のある文維だったが、以前ならこれほどの戦慄を覚えることは無かっただろう。冷静に血液検査を受け、すぐに治療を開始すれば、今の時代、梅毒はそれほど恐ろしい病気ではない。
 だが、今は状況が違う。

(煜瑾…)

 もし自分が、純粋無垢で、天使のように罪の無い愛しい人に、穢れた病を感染させてしまっていたら…。
 この仮定は、煜瑾を愛しすぎる文維を恐怖に陥れた。


***

 しばらく待って、范青䒾が診察室に消えるのを見届け、魏香蘭技師と共に文維は近くの空いた相談室に入った。
 向かい合わせに座り、固い笑顔を交わし、魏香蘭は文維に検査結果を手渡した。

「心配しないで…」

 文維は何度も検査結果を見直して、薄っすらその目を潤ませながら感謝を込めて優秀な魏香蘭の手を握った。



             
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