上海夜曲01


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 冗談めかしているが、いつでも志津真は威軍を大切にしてくれる。

 そんな志津真を、思いやりの深い、優しい恋人だ、と冷たいはずの郎威軍の胸が熱くなる。

「うそ…です」

 流されそうになるのが怖くて、わざと否定した。

「何が嘘やねん。俺が、お前がおらんと生きていけへんってことか? それとも、お前が俺を必要としているってことか?」
「志津真…」

 優しく包み込むような笑顔の恋人に、郎威軍が何か言おうとした時、2人がいるレストランの個室のドアがノックされた。

「お!やっと来たか」

 小柄で可愛い少女が給仕をしてくれる。よく冷えた{青島|チンタオ}ビールの金ラベル瓶が2本とグラス、前菜の盛り合わせ、ローストダックを包むための白いクレープのような{餅|ピン}と、中に包む薬味のネギとキュウリ、それと加瀬志津真の好物の甘辛い{甜麺醤|テンメンジャン}がテーブルに並べられた。

「絶対、コレ足りひんから、追加頼んで」

 志津真の頼みに、郎威軍が通訳する。

 給仕の少女は、明るい笑顔で頷き、焼きたてのローストダックを運ぶために、一旦個室を出た。

 ここは{南京東路|ナンジン・イーストロード}のビルにあるローストダックの有名店で、2人は昼食のためにわざわざ個室を取っていた。

 知る人ぞ知る老舗の名店で、観光地のど真ん中にあるにしては地元の客ばかりだ。それだけ上海っ子に愛されている証拠だと言える。

 給仕の少女が、熱々のダックが乗った皿と、甜麺醤の追加分を捧げて戻ってきた。

 香ばしい香りが食欲をそそる。

 ローストダックはいわゆる「北京ダック」のことだが、この店では、飴色に焼き上げだアヒルの皮をメインに食べる北京ダックと違い、そのジューシーな身も美味しく食べられる。

 白い{餅|ピン}に甘辛い甜面醤をぬり、ダックの切り身をのせて、ネギとキュウリをのせて、手巻きすると、そのままパクパクと口に入れる。

「はい!」

 手慣れた様子で器用にダックを包むと、志津真は郎威軍の目の前に差し出した。

「自分で、します」

 恥ずかしさを押し殺して、郎威軍は拒んだ。

 このままだと、志津真は自分が手づから包んだローストダックを、郎威軍の口の中に入れてしまう。それが例え恋人であっても、人の手で食べさせられるのが恥ずかしくて、郎威軍は俯いた。

「ちぇ、他人行儀な」

 わざとらしく拗ねた様子で、志津真は差し出したダックを自分の口に運んだ。

「うわ~やっぱり美味いな~」
「あなたのは、甜麺醤が多過ぎて甘いんですよ」

 言いながら郎威軍も手早くダックを包み始める。白い{餅|ピン}に、まずダックをのせ、キュウリとネギをのせた上に、甜麺醤を少なめに掛ける。

「俺の、何が甘いって?」

 低く響く声で、明らかに性的なニュアンスを感じさせながら志津真が囁いた。

「やめて下さい。給仕が戻りますよ」

 ほんのりと頬を染めて、目をそらしたまま郎威軍が制した。

「何が?」

 テーブルを挟んで対座する2人の距離では、志津真に何が出来るわけでもない。それでも郎威軍は緊張していた。恋人に求められていることを、ひしひしと感じていたからだ。

「隣のホテルに、部屋を取ったって言ったら、怒るか?」

 どこまで真剣なのか戸惑うような澄ました顔で、志津真はさらりと言った。

「食事に集中しましょう」

 給仕の気配に、郎威軍は志津真の言葉を無視した。

 これもまた、志津真の好物である百合根とエビの炒め物と、ブロッコリーの塩炒め、{棗|なつめ}の{糯米|もちごめ}詰めがテーブルを埋める。

 給仕の少女はビールの追加を尋ねるが、郎威軍より先に志津真が断って、少女を個室から追い出した。

 郎威軍の緊張感がさらに高まってしまう。せっかくの休日にビールの追加もしないとは、ホテルの部屋を取ったのは本当かもしれない。

 郎威軍に注意されたせいか、加瀬志津真は楽しそうに黙々と食事を続けていた。

 元官僚であった加瀬は、食事のマナーも優雅で、口も肥えている。大事な人と美味しい食事を楽しむことは、加瀬にとっては最上の趣味だ。幸せに満ち足りることができる時間だった。

「お前、北京出身のくせに、『{餅|もち}入り{棗|なつめ}』が好きやな。甘いモン、そんなに好きやないやろ?」

 上海の名物料理である「心太軟(棗の糯米詰め)」は、干したナツメの実を割って、{糯米|もちごめ}の蒸した物か、潰して{餅|もち}にしたものを詰めて、甘く煮た1品である。

 あっさりして日本人の口にもよく合う上海料理にあって、「心太軟」はデザートではなく、口直し的な料理だ。

 店によって味付けは違うが、人によっては紹興酒に合うと言う人もいる。あまり上等ではない紹興酒に、日本でも氷砂糖などを添えるが、それと同じく甘い「心太軟」も合うのかもしれない。

 しかし、志津真が好きな青島ビールには合わないらしく、志津真だけの時には「心太軟」を注文することは無い。だが普段、職場で出されるおやつなどにもあまり手を出さない郎威軍だが、この甘い「心太軟」は気に入っているらしい。

 郎威軍が好きな料理だから、加瀬志津真は忘れずに注文するのだ。

「厳密には北京じゃなく、河北省です。北京市より外ですから」
「そんなん言うてんちゃうわ」

 真面目に対応する郎威軍をからかうように、志津真はナツメを1つ摘まんだ。

「お前の、食ってまうぞ」

 先ほどと同じ性的なニュアンスを滲ませて、志津真は意地悪く言った。

「こんなに、好きやのに」

 聞き逃してしまうほどさらりと言い放って、ハッとした郎威軍が顔を上げた時には、すでに志津真は何事も無かったように食事を続けていた。

2人だけの、それは穏やかな午後だった。
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