おかあさまといっしょ

「煜瑾!」

 煜瑾の夢の世界に引きずり込まれた包文維だったが、気付くと、そこは煜瑾の実家である、上海宝山地区にある唐家の邸宅の広々とした広い庭だった。
 現実の世界では、この広い庭園の一隅にゲストハウスがあり、新進気鋭のインテリアデザイナーである唐煜瑾が、愛する人が心地よく過ごせるように改装し、今では文維のための別邸となっていた。
 だが、包文維は、ここが同じ庭であるのは分かるのだが、何かが違うような気がした。

「煜瑾が…子供の頃の庭なのか?」

 この夢の世界では、3歳児の煜瑾が「主役」だということを、文維は何度かの経験で理解している。
 文維はゆっくりと周囲を見渡すが、人の気配がない。
 自分を招き入れたはずの煜瑾が、その場にいないことに、文維は急に不安になる。

「煜瑾…」

 たとえ今、姿が幼い子供に変わっていたとしても、唐煜瑾は包文維に取って一生を共にする大切な人だ。その最愛の人が、今どこでどうなっているのか分からないとなれば、不安でいたたまれなくなる。

「無事でいてくれ…、煜瑾」

***

「おか~しゃま~」

 泣きじゃくる煜瑾を持て余したように、男は溜息をついた。

「おうちに帰りたいでしゅ~」

 自分の方を見ようともしない煜瑾に、男は諦めたように周囲を見渡した。
 その途端に、ぼやけていた周囲の風景が、カメラが焦点を合わせるように、ゆっくりと像を結ぶ。

「?」

 そこは、煜瑾が見知った場所だった。

***

 文維は、自分が知る改装後のゲストハウスとは違う景色に戸惑いながらも、足を進め、ようやく以前の姿のゲストハウスに辿り着いた。

「ここが…」

 文維は煜瑾が改装した、明るく、居心地の良さを追求した南欧風の建物しか知らない。だが、煜瑾が幼い頃からあったというゲストハウスは、今の英国でもよく見られるエドワード様式の建築で、華美な装飾を多用しない、落ち着いた建物だった。玄関前のアーチは緩やかなカーブを描いている。
 その下に立ち、文維はドアノブに手を伸ばすべきかどうかを逡巡した、その時だった。

「♪は~にゅ~う~の~、やど~も、わが~や~ど~」

 それは、あまりに清純で、愛らしい、美しい歌声だった。
 耳にした途端、文維はそれが最愛の恋人の稚い声だと気付いた。

「煜瑾!」

 声が目の前の扉の向こうから聞こえると思った文維は、ドアを開けようとしたが、ドアには頑丈な鍵がかかっていた。

「煜瑾!どこにいるんだ!」

 必死になって文維は声を上げるが、煜瑾の耳には届かないのか、反応が無い。

「♪のど~か~なり~や、は~る~の、そら~」

 平和な「HOME」を恋しがっているのか、この美しい歌声はどこか物悲しい。
 歌を歌って慰めを得ようとしている煜瑾がいじらしく、文維は居ても立っても居られない。

「煜瑾!煜瑾、返事をしてくれ!」
「…文維おにいちゃま!」

 文維が建物に沿うようにして回り込むと、北側の2階の窓に小さな人影が見えた。





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