ふたたび、文維くんのこいびと
ハッと気が付くと、文維は見覚えのある大邸宅の玄関ポーチに1人で立っていた。
「…唐家?」
上海の北にある宝山区で、昨今のリゾート開発が進む以前に、すでに広大な敷地に大邸宅を構えていたのが、上海有数の名家・唐家だった。
そのクラシックな洋館を模した大きな屋敷の、広い車回しのある玄関ポーチに立って、文維は物思いに耽る。
まだ互いの想いを確かめることが出来なかった頃、ここまで何度も煜瑾を車で送ってきた。別れを惜しみながらも、何も言えず、何も出来ず、どれほど切ない思いをしたことだろう。
やがて、思いを遂げ、一緒に暮らすようになり、この屋敷を訪れる時は煜瑾と2人、肩を並べて、この玄関を通ることが増えた。
初めのうちは、「唐家の至宝」を盗み出した罪人であるかのような目で見られ、居心地の悪い思いをした文維だが、恋人に寄り添う煜瑾の幸せそうな笑顔が、唐家の人々を納得させ、今では気持ち良く歓迎されるようになった。
文維は、煜瑾さえ傍にいて愛を語ってくれるのなら、他人がどう評価しようが気にせず生きていけると思っている。けれど、こうして煜瑾をよく知る唐家の人々に文維と煜瑾の関係を認めてもらえたということは、煜瑾にとっても幸せなことで、煜瑾が幸せなら、文維も満足だった。
そんなことを考えていた時、大きな両開きの玄関ドアが内側から開いた。
「お待ちしておりました、包文維先生」
ドアの中で待っていたのは、やはり唐家の有能で知られた執事だった。
「茅執事…」
深々と頭を下げて文維を迎えた茅執事は、いつもの貼りついたような、いかにもお仕着せの笑顔ではなく、深刻な表情で眉間に縦皺まで寄せていた。
そのただならぬ様子に、文維は胸騒ぎがした。
「煜瑾に、何かあったのですか!」
まるで掴みかかるようにして文維は執事に迫った。
茅執事は抵抗することなく、ただ感情を出すまいとグッと目を閉じ、堪えながら、振り絞るように文維の問いに答えた。
「煜瑾ぼっちゃまが、お目覚めになりません」
***
文維が煜瑾の寝室に案内されると、そこには青ざめた唐煜瓔が寄り添っていた。
ベッドに上がり、幼い煜瑾をその胸に抱き、震える唇でその名を呼び、ひたすら目覚めるのを待っている。
「煜瑾…、私の可愛い、大事な煜瑾…」
虚ろな様子の唐煜瓔は、まるで彼自身が病人であるかのようで、文維は息を呑んだ。
これほど弱々しい唐煜瓔を誰が想像するだろう。
上海の人々が知る「唐家の主人」は、若く、美しいだけでなく、才が長け、聡明で、気品高く、威風堂々としており、誰もが敬意をもって接する「貴人」と呼ぶにふさわしい人物だ。
それが、小さな弟を前にこれほど悲嘆に暮れている。
「煜瓔お兄さま」
文維は少し離れた所から声を掛けた。
唐煜瓔はゆっくりと顔を上げ、文維を認めると、小さく頷いた。
「失礼します」
そう言って文維は煜瑾の大きな寝台に近付き、唐煜瓔の腕から、小さな煜瑾を受け取った。 しっかりと抱きしめると今度は文維がベッドの端に腰を下ろす。
腕の中でスヤスヤと眠る、稚く、愛くるしい存在に、文維の頬がフッと緩んだ。
(なんて邪気の無い、清らかで、美しい子供だろう)
煜瑾の余りの清純さに、文維は目を奪われてしまうが、すぐに現状を思い出し、心配する兄・唐煜瓔のためにも、優しく煜瑾に声を掛けた。
「煜瑾、起きて下さい。煜瑾の大好きなイチゴの用意が出来ていますよ」
文維の囁きに、煜瑾の瞼が震えた。
「煜瓔お兄さまもお待ちですよ」
子供にしては少し艶めかしいほどの濃く長い睫毛が揺れる。間もなく、煜瑾は目覚めるだろう。
「煜瑾、私、包文維のために起きて下さい。私は、煜瑾無しには、生きていけないのです」
次の瞬間、煜瑾の目がパッチリと開き、大きく黒い宝石のような瞳が現れた。
「…唐家?」
上海の北にある宝山区で、昨今のリゾート開発が進む以前に、すでに広大な敷地に大邸宅を構えていたのが、上海有数の名家・唐家だった。
そのクラシックな洋館を模した大きな屋敷の、広い車回しのある玄関ポーチに立って、文維は物思いに耽る。
まだ互いの想いを確かめることが出来なかった頃、ここまで何度も煜瑾を車で送ってきた。別れを惜しみながらも、何も言えず、何も出来ず、どれほど切ない思いをしたことだろう。
やがて、思いを遂げ、一緒に暮らすようになり、この屋敷を訪れる時は煜瑾と2人、肩を並べて、この玄関を通ることが増えた。
初めのうちは、「唐家の至宝」を盗み出した罪人であるかのような目で見られ、居心地の悪い思いをした文維だが、恋人に寄り添う煜瑾の幸せそうな笑顔が、唐家の人々を納得させ、今では気持ち良く歓迎されるようになった。
文維は、煜瑾さえ傍にいて愛を語ってくれるのなら、他人がどう評価しようが気にせず生きていけると思っている。けれど、こうして煜瑾をよく知る唐家の人々に文維と煜瑾の関係を認めてもらえたということは、煜瑾にとっても幸せなことで、煜瑾が幸せなら、文維も満足だった。
そんなことを考えていた時、大きな両開きの玄関ドアが内側から開いた。
「お待ちしておりました、包文維先生」
ドアの中で待っていたのは、やはり唐家の有能で知られた執事だった。
「茅執事…」
深々と頭を下げて文維を迎えた茅執事は、いつもの貼りついたような、いかにもお仕着せの笑顔ではなく、深刻な表情で眉間に縦皺まで寄せていた。
そのただならぬ様子に、文維は胸騒ぎがした。
「煜瑾に、何かあったのですか!」
まるで掴みかかるようにして文維は執事に迫った。
茅執事は抵抗することなく、ただ感情を出すまいとグッと目を閉じ、堪えながら、振り絞るように文維の問いに答えた。
「煜瑾ぼっちゃまが、お目覚めになりません」
***
文維が煜瑾の寝室に案内されると、そこには青ざめた唐煜瓔が寄り添っていた。
ベッドに上がり、幼い煜瑾をその胸に抱き、震える唇でその名を呼び、ひたすら目覚めるのを待っている。
「煜瑾…、私の可愛い、大事な煜瑾…」
虚ろな様子の唐煜瓔は、まるで彼自身が病人であるかのようで、文維は息を呑んだ。
これほど弱々しい唐煜瓔を誰が想像するだろう。
上海の人々が知る「唐家の主人」は、若く、美しいだけでなく、才が長け、聡明で、気品高く、威風堂々としており、誰もが敬意をもって接する「貴人」と呼ぶにふさわしい人物だ。
それが、小さな弟を前にこれほど悲嘆に暮れている。
「煜瓔お兄さま」
文維は少し離れた所から声を掛けた。
唐煜瓔はゆっくりと顔を上げ、文維を認めると、小さく頷いた。
「失礼します」
そう言って文維は煜瑾の大きな寝台に近付き、唐煜瓔の腕から、小さな煜瑾を受け取った。 しっかりと抱きしめると今度は文維がベッドの端に腰を下ろす。
腕の中でスヤスヤと眠る、稚く、愛くるしい存在に、文維の頬がフッと緩んだ。
(なんて邪気の無い、清らかで、美しい子供だろう)
煜瑾の余りの清純さに、文維は目を奪われてしまうが、すぐに現状を思い出し、心配する兄・唐煜瓔のためにも、優しく煜瑾に声を掛けた。
「煜瑾、起きて下さい。煜瑾の大好きなイチゴの用意が出来ていますよ」
文維の囁きに、煜瑾の瞼が震えた。
「煜瓔お兄さまもお待ちですよ」
子供にしては少し艶めかしいほどの濃く長い睫毛が揺れる。間もなく、煜瑾は目覚めるだろう。
「煜瑾、私、包文維のために起きて下さい。私は、煜瑾無しには、生きていけないのです」
次の瞬間、煜瑾の目がパッチリと開き、大きく黒い宝石のような瞳が現れた。