文維くんのこいびと

 唐煜瑾とう・いくきんは、夢を見ていた。

***

「お兄ちゃま~、行かないで~」

 唐家の広々とした玄関ホールで、幼い煜瑾は兄・煜瓔いくえいの背中を追って泣いていた。

「煜瓔お兄ちゃま~、煜瑾を置いて行かないで~」

 グズグズと泣く煜瑾を、いつもならすぐに駆け付けてくれるはずの優しい兄が、振り返ることすらしない。

「あ~ん、あ~ん。お兄ちゃま~」

 とうとうしゃがみ込んで泣き出した煜瑾の耳に、優しい、温かい、懐かしい声が聞こえた。

「いけませんよ、煜瑾。煜瓔お兄さまは外国へお勉強に行かれるのです。泣いて困らせてはいけません」
「お母しゃま…」

 煜瑾はハッとして顔を上げ、母の姿を探した。

「お母しゃま、どこ?お兄ちゃま、どこ?」

 立ち上がった煜瑾は広大な屋敷中を駆け回って母と兄を探すが、2人はどこにもいない。

「行かないで~、お兄ちゃま~!お母しゃま~、どこにいらっしゃるの~」

 唐家の屋敷内を隅から隅まで探す煜瑾だが、いつもならあちこちにいるはずの使用人たちの姿も無い。

「誰かいませんか~?お兄ちゃま~?お母しゃま~」

 煜瑾は最後に、重い書斎のドアを開けた。
 そこには、重厚で大きなアンティークのライティングデスクがある。そのデスクの向こうに、誰かがこちらに背を向けて座っていた。

「?」

 おそるおそる書斎に足を踏み入れた煜瑾は、その人陰に見覚えがあった。

「お父しゃま?」

 煜瑾が声を掛けると、椅子に座った人影がこちらを振り返った。

「どうしました、煜瑾?」

 その瞬間、煜瑾は「今」の自分に戻った。

文維ぶんい!」

 そして、煜瑾は目を覚ました。





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