紅蘭夫人エンディング

「母上!」

 頭上から、青衿君の声が聞こえた。
 私がハッとして振り仰ぐと、そこには剣を振り上げた青衿君が迫っていた。
 確かに、この女は青衿君と同じく青い着物を着ている。
 なるほど、青衿君の手助けをするために、母親までが出しゃばってきたか。

「そなたも母なら分かるはず。愛しい我が子を手元に置きたいと言う気持ちを…」

 私が猫なで声でそう言うと、青衿君の母だと言う女はゆっくりと振り返った。同じ母として同情してくれたのかとホッとしたが、それは私の思い違いだった。

 青い衣の女は、恐ろしい形相で私を睨みつけてきた。

「ふざけたことを申すな!これは羽小敏。私が腹を痛め、命を懸けてこの世に送り出した大事な我が子。お前のような化け物に、大事な息子を渡してなるものか!」
「ぎゃーっ!」

 何の力も無さそうな女だったが、小敏の生母は絶大な陽の気を発し、陰の気の幽鬼である私を退けた。

「白秋!」

 気付いた時には、すぐそこに青衿君がいた。
 私は逃げ遅れた。
 あっと言う間に白蛇が私に絡みつき、動きを封じられる。

「いや!この地を離れるのは絶対にイヤ!」

 私は絶叫した。

「小敏!」

 青衣仙女は、小敏と安承公子に覆いかぶさり、その袖の中に包み込んで庇護した。

 私の怒りや悲しみやあらゆる湧き上がる感情が、何かの力となって周囲の空気を変えた。陰の気が私の西の庭園に広がった。

「させぬ!」

 青衿君が必死の念力で白秋と呼ぶ白蛇を操り、私を西の庭園から引きずり出そうとしていた。

 禍々しい気を増幅した濃厚な陰の気が充満する。この気に侵されれば、どれほど強い陽の気を持つ者でも、こちらの世界に染まってしまう。
 私は最後の力を振り絞ってでも、小敏を手に入れようとしていた。

 青衿君の白蛇と私の力が拮抗する。

「小敏!小敏!私の愛し児よ!」

 私は手を伸ばしたが、あの子は青衣仙女に守られ、髪の先ほども陰の気に穢れることは無かった。

「イヤよ!私はこの『紅蘭亭』から離れない!どこへも行かないわ!」

 叫ぶ私を、白蛇はますます締め付ける。
 私の体を引きちぎらんとする強さが、私を苦しめる。もう、これ以上白蛇に締め付けられては、私の体は引きちぎられ、塵となって消えてしまう。

「お願い…。小敏は諦めるわ…。だから、私からこの場所を…『紅蘭亭』を奪わないで!」

 私は泣き叫び、全霊力を解放した。
 辺りは白く輝き、私は幽鬼として形を成していた力が徐々に消えて行くのを感じた。

「紅蘭夫人…」

 息も絶え絶えになった私に呼びかける者がある。
 ゆるゆるとそちらを見ると、そこには袁参将軍が白虎を伴い、私と小敏たちとの間に立っていた。

「お願い…許して…。あの子が、小敏が私の子では無いのは分かったわ。もう子供を欲しがったりもしない。だから、お願い…、私を、この『紅蘭亭』と引き離さないで」

 私の名を冠した「紅蘭亭」は、私の命そのものだった。この私が唯一愛した顧参緯との幸せな思い出しかない、夢のような場所だ。
 ここを奪われて、私の魂が塵と消え、私と顧参緯の幸福だった日々の全てが忘れ去られ、朽ちてしまうのが耐えられなかった。

「羽小敏を諦めてくれると言うのなら、私も交渉に応じよう」

 先ほどまでの軽妙な態度とは裏腹な、真剣な表情の袁参将軍が私を見据えた。

「交渉?」

 私は、じっと袁参将軍を見詰めた。
 この男は、男らしく強く、美しいが、手にした戟の一振りで私を塵に変え、魂を地獄に堕とすことができるのだ。

「羽小敏を諦め、全ての子供たちや母親たちを守ると約束するなら、この『紅蘭亭』を残してやる」

 袁参将軍は、クイと口を歪めて笑った。

「将軍!」

 部下でありながら、嗜めるように青衿君が叫んだ。

「紅蘭夫人、お前は今日から私の配下だ」
「それは…」

 廟を構える神である袁参将軍の配下となって働くということは…。

「紅蘭、お前を神仙に召し上げる」
「なりません、将軍!こんな、長年幽鬼として陰の気を溜め込んだ者など危険です」

 袁参将軍の隣に降り立った青衿君が憎々し気に言った。

「袁参将軍!私をこの『紅蘭亭』に置いて下さるのなら、もう二度と生きた子供たちに手出しはいたしません。将軍の言いつけを聞いて、なんでもいたします」

 嘆き悲しむ私に、青衿君も黙り込んだ。

 私は本気だった。
 神仙に召されれば、もう陽の光を恐れることも無く、自由に出歩くことができる。
 陰の気に包まれた暗く湿った世界から抜け出せるのだ。

「よかろう。お前が本気かどうか、今から確かめるぞ」

 袁参将軍の目が厳しく光った。

「一体…!」

 何をするのかと訊ねようとした瞬間だった。

「!…っう…!」

 袁参将軍が手にしていた芸術的な戟が、私の身を貫いた。
 冷ややかな袁参将軍の目とは違い、美しい青衿君の眼差しは私を心配そうに見詰めていた。
 私はその顔が、小敏に似ていることにようやく気付いた。

 そうだ、あの青衣仙女が羽小敏の生母だと言うのなら、その青衣仙女を母と呼んだ青衿君は、小敏の兄弟?

「母上!」

 私が土の上に倒れ込み、意識が遠くなる中、青衿君がぐったりした青衣仙女に駆け寄るのが見えた。

「母上、大事はございませんか?」
「ええ。ごらんなさい、2人ともぐっすり寝込んで何も知らない」

 先ほどまで青衣仙女がその全身を以て守っていた羽小敏と安承公子は、あどけない顔で眠っていた。

「ごらんなさい、羽牧。こんなに大きくなって…」

 青衣仙女が愛し気に小敏の顔に触れた。乱れた髪を直し、頭を撫で、肩や背中にも触れた。それは紛れもなく、母の慈愛に満ちた仕草で、これが本当の母性というものなのだと私は知った。

「本当に、大きくなって…。とてもイイ子だ。父上のことも大好きだし、よく仕えてくれている」

 羽牧と呼ばれた青衿君は、母である青衣仙女の隣に寄り添い、まだ子供らしさの残る小敏の白い頬を優しく撫でた。

「父上は、まだ私や母上を喪ったことを痛みに思われている。お前の明るさだけが、父上の支えだ。私たちに出来ない分、これまで通りに父上によくお仕えしておくれね」

 優しい青衿君の声を聴きながら、私は気を失った。


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