紅蘭夫人エンディング

 小敏たちが東の庭園を抜けて、北側の厩舎へ向かっていた。

「今日も馬球場での練習かしら。馬場での走りなら近くで見えるのに、馬球場では遠すぎるわ」

 私は、西の庭園を北に向かって歩いていた。
 すると生きた人間の気配が、南の方から西の庭園に入って来るのが分かった。気配からして、さほど身分の高くもない小物である。私が相手にする必要はない。

 私が馬球場に一番近いところまで来た頃に、人間が「紅蘭亭」に足を踏み入れるのが分かった。
私はふと気付いた。
 廷振王子が、今宵また白洛公爵と「紅蘭亭」で逢引をするという。おそらくはその仕度を命じられた誰かがやって来たのだろう。

 思わず私の眉が寄ってしまう。
 今夜こそ、私の小敏を「紅蘭亭」へ迎えようと思っているのに、そこへ愛人を引き込もうなどと言う廷振王子の振る舞いは許せるものではない。

 ただ…。
 廷振王子は、私のたった一人の家族である竹蘭の生まれ変わりなのだ。

 子供たちは、昨日と同じように元気よく馬球場を駆けまわったり、天幕で休憩を取ったりしている、明るく、楽しげな笑い声も聞こえた。

「今日も小敏は元気そうで何よりだわ」

 私は満足して、遠くから小敏たちを見守っていた。

 あの子は私の送った念に気付いているかしら。無意識化に私の声が聞こえているはず。今宵、私の許へ来るように、何度も何度も私はあの子の清純な魂に語り掛けていた。

 あの子は今夜、きっと「紅蘭亭」に来るはず。
 私の許へ。母である、私の許へとやってくるはずなのだ。
 可愛い小敏は、もうすぐ母である私の腕の中に戻るのだ。

 今日の練習を終え、小敏たちはまた東の庭園を通って母屋へ向かっている。友人たちとの最後の夕食ですもの。楽しんでくるといいわ。
 明日からは、私と一緒なのだから。





 私は気配で気付いた。
 今、小敏が寝台で目を覚ましたはずだ。

「小敏…」

 同じ頃、廷振王子が母屋を抜け出した。馬場を駆け抜け、「紅蘭亭」に向かっているのが分かった。
 すると西の庭園の北の方から、白洛公爵がやって来た。西の庭園を抜けて別荘の北側には、軍用馬の訓練場があり、そこへ馬を献上するのが良馬の産地で知られる白洛を所領に持つ白洛公爵なのだ。
 2人は申し合わせて「紅蘭亭」で密会するつもりなのだ。

 困ったこと。
 間もなく小敏が来ると言うのに…。

 ほらほら、子供たちが起き出したわ。
 私の小敏と安承伯爵家の公子が、恭王の孫と梁寧侯爵の弟がそれぞれ手を繋いで、子供たちが私の許へと駆けてくる。

 可愛らしい子供たちは、西の庭園に続く木立まで来たものの、その暗さに先に進むのをためらっていた。雑木林のような木立の奥は真っ暗で、月の光さえ届かない先へ進むのは、子供たちなら躊躇するだろう。

 それほど白洛公爵に会うのが待ち切れないのか、廷振王子は白い夜着をひらめかせて駆けてくる。
 それを何かと間違えた小敏たちが追いかけてくる。
 まるで子供たちが追いかけ遊びをしているようで、私には微笑ましく思えた。

「さあ、こちらへいらっしゃいな、小敏」

 私は「紅蘭亭」から、ずっと小敏に呼びかけていた。

「こちらですよ。早くいらっしゃい、私の小敏」

 私の呼びかけに、小敏たちが西の庭園に踏み込んだ。白い影に見えた廷振王子を追って、子供たちがゆっくりと西の庭園の奥へ、奥へとやって来た。

「あ!」

 小さな声を上げて小敏の足が止まった。
 暗闇の奥で見つけた「紅蘭亭」の美しさに感激しているらしい。

 そうでしょう、小敏?
 「紅蘭亭」はとても美しく、素晴らしい建物でしょう?
 この素敵な「紅蘭亭」が、今宵からあなたの住まいとなるのですよ、小敏。

「…っ…、うっ…」

 「紅蘭亭」から、声が漏れ聞こえた。

 廷振王子と白洛公爵の戯れの声が漏れる。
 子供たちの前でなんと恥知らずな。

 聡明で知られる恭王の孫は、何かに気付いたらしく、難しい顔をして私の「紅蘭亭」をジッと見詰めている。
 他の子たちよりも少し大人びた恭王の孫は、あの声の正体を察しているようだった。
 だが、それが何か知らない子供たちには、奇怪な声が聞こえるのが不思議でならないのだろう。どうしても気になる様子の無邪気な小敏は、「紅蘭亭」に向かって一歩足を踏み出したが、それを引き留めたのは恭王の孫だった。

「ダメだ、小敏。行ってはならない」

 恭王の孫に引き留められ、私の小敏は不満な顔をして振り返った。
 余計なことを!
 あとわずかで、小敏が私の許へ来てくれるところだったのに。私は次第に高まる苛立ちを抑えられなくなってくるのが、自分でもわかった。

「早く、早く私の許へいらっしゃいな、小敏」

 私は堪え切れずに。紅蘭亭の飾り窓から、子供たちを迎えるように手を差し伸ばしていた。

「あれって…」

 閉まっているはずの飾り窓から、私の白く、細い腕が伸びていることに子供たちが気付いた。

 だが小賢しい恭王の孫が、梁寧侯弟の手を引いて腕に抱えるように抱き寄せ、空いた手で、安承伯爵家の公子と手を繋いだ小敏の腕を掴んだ。

「戻りましょう、小敏」
「でも、文維兄上…」

 邪魔をしようとする恭王の孫に腹を立てた私だったが、恐い物見たさなのか、小敏が私の腕を振り返ったのを見て、急いで手招きをした。

「見て、腕が手招きしてる。こっちへおいでって言ってるみたいだ」

 小敏は私の誘いに魅入られたかのように、ジッと腕から目を離さない。
 そうですよ。こちらを見て、こちらへ来るのですよ、小敏。

 その時だった。

「そこにいるのは、誰だ~!」

 子供たちに気付いた白洛公爵が、恐がらせようと大きな声で叫んだ。

「わ~っ」「ぎゃ~っ!」

 悲鳴を上げ、怯える子供たちを、こっそりと白洛公爵は「紅蘭亭」の中から覗いている。乱れた着物が、先ほどまでの廷振王子との営みを物語っていた。ニヤリと面白そうに笑う白洛公爵の腕の中に、しどけない姿の廷振王子がいた。

 震えていた子供たちだったが、急に我に返ったように恭王の孫が他の3人に叱咤した。

「すぐに逃げろ!今来た道を戻るんだ!」

 そう言って恭王の孫が、私の小敏の背中を押した。押された勢いで小敏は安承伯爵家の公子の手を引いて駆け出した。
 そうはさせない。
 せっかく小敏が「紅蘭亭」まで来たのだもの。
 帰しはしない。もう、手放しはしない。私の、可愛い愛し児…。

 子供たちは、振り向くことなく、私の西の庭園を駆け抜けていった。
 けれど、行けども行けども月光の射さない暗い道を走り続け、子供たちは動揺し始めた。
 あの子たちは気付かないが、私の侍女や楽師や下働きの子達までが4人の公子たちに纏わりついている。手の者たちは私の思う通りに、公子たちの行先を遮っている。

「小敏!」

 恭王の孫が叫んだ時には、子供たちを2人ずつに分けることが成功した。





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