紅蘭夫人エンディング

 夜になってようやく私は落ち着いて、「紅蘭亭」を出て西の庭園を、母屋に一番近いところまで歩いた。
 心配そうに侍女が付き従うが、私はもう取り乱すつもりはなかった。

「ほら、聞こえますよ、紅蘭夫人」

 先に立って歩いていた年若い侍女が嬉しそうに振り返った。
 確かに遠くから微かに、母屋で楽器を奏でる音が聞こえる。

 あの古筝は、か弱そうに見えた唐煜瑾の手とは思えぬほどしっかりした音だ。なるほど、得意だと仲間に聴かせたくなる程度には腕がある。
 笛の音も、しっかりとして正確な音色だが、面白みに欠ける。
 簫に至っては力任せで、情緒というものが全く分かっていない。
 そこへ、琵琶の音が加わった。

「竹蘭…」

 思わず声に出るほど、その音色は似ていた。滑らかで、それでいて力強く、また心の機微を写し取るように繊細でいて、掻き乱すような妖艶さと力強さもある。
 廷振王子の琵琶の音は、まことに竹蘭の奏でる音と似ていた。
 この曲は近頃の流行りなのか、私の知らない曲だったが、とても凝った音階で、特に力強い琵琶の音と巧みな古筝の音の交わりは高尚で、そこに添えられた控えめな笛や簫は見事に調和していた。
 この趣味人にしか分からない小気味の良い合奏に、私の可愛い小敏は参加しないのかしらと、私は心配になる。

「紅蘭夫人!」

 その時、侍女たちばかりでなく私も驚いた。
 優しく、繊細な声で歌い始めたのは小敏だ。しかもその声は、涼国一の歌姫と皆から寵愛された私の声にソックリなのだ。

「ああ、小敏…。私の子、小敏」

 私はその歌声の美しさに涙がこぼれて止まらなかった。

「連れて帰るわ。…あれは、私と顧参緯の愛し児だもの。私が連れて帰らなければ…。そして、顧参緯を迎えて、親子3人で楽しく、幸せに暮らすのよ」

 私はこれ以上、待てなかった。

「そうだわ、竹蘭も迎えましょう。また竹蘭の琵琶で、私が歌うわ。そしてあの子に、歌い方を伝授してやらねば」

 私はそう決めて、公子たちの演奏を、心ゆくまで堪能した。





 一夜明けて、間もなく公子たちが昼食を終えて、馬場に出てくる頃だと、私は楽しみにしていた。

「小敏たちが来たら、この紅蘭亭だけでは手狭かしら。小敏も、廷振も陽の気が強すぎて、一度に2人を連れ帰ることはできないわねえ」

 はしゃぐように言う私を、侍女たちは心配そうに見守っている。急に小敏を迎えることになって、至らぬことがあるのではないかと落ち着かないのであろう。
 私はただ、私の愛し児をこの手に抱くことだけを考えていた。

「まったく、廷振王子ときたら!」

 昼餐の手伝いに母屋へ行っていた侍女が、ブツブツ文句を言いながら紅蘭亭へ戻って来た。

「何事なの?」

 私が問いただすと、侍女は困った顔をして、答えることを一瞬躊躇した。

「廷振は、私の竹蘭なのよ!隠しだてはしないで!」

 私が叫ぶと、侍女の体は弾かれ、壁に叩きつけられた。私に逆らうと、こういうことになるのよ。

「も、申し上げます。申し上げますから、お許し下さい、紅蘭夫人!」

 侍女が床に這うようにして私に許しを求めたので、寛大な私はそれ以上侍女を責めることはしない。

「廷振がどうしたというの?」
「はい。今夜、白洛公爵が、お忍びで廷振王子のもとへお通いになると、知らせが…」
「何ですって!」

 私は腹立たしさから堪らず侍女を打ち付けた。

「同じ邸内に小敏がいると言うのに、男を連れ込んで睦合うというのか。顧廷振は、王族とは言え、なんと浅はかな」

 私は、大事な小敏に悪い影響を与えるものは、それが誰であろうと許せなかった。

「もう我慢ならないわ!あんなところに大切な小敏を置いておけない。今夜にも小敏を私の手元に連れ帰ります」
「紅蘭夫人!」

 驚いた年かさの侍女が私の腕を掴んだ。

「なりません、紅蘭夫人。たとえどんな理由であろうと、強い陽の気を持つ生きた人間を、こちらの世界に引き込もうと言うのは、天の理に逆らうことでございます」
「だから、何?」

 もう、私にはそれが天であろうと恐れるものは無かった。

「母が、息子を取り戻すことの何が間違っているというの?」
「落ち着いてお考え下さい、紅蘭夫人。あの子供は…、羽小敏は夫人のお子様ではございません」

 私はカッとなって、思わず侍女の体を床に叩きつけた。

「私に逆らうとは!たとえ幽鬼であっても、ここにこうして居られるのは誰のおかげだと思っているの」
「……」「……」「……」

 私が少し大きな声を出しただけで、侍女たちは黙り込んだ。

「なりません…紅蘭夫人。天の理に逆らうようなことをなさっては、天帝の御裁きが下ります」

 床に叩きつけてなお、年かさの侍女は私に対して意見をする。

「お黙り!」

 怒りに任せ、私は侍女の体を天井にぶつけ、その勢いで再び床に叩きつけた。

「天帝が、この私に何ができると言うの!私から弟を奪い、夫を奪い、陽の気を奪って、こんな惨めな姿で永らえさせておきながら。今さら私に裁きなど!下せるものなら下すがいい!私はただ、小敏を、可愛い息子をこの腕に抱きたいだけ」

 私の怒りが紅蘭亭にも伝わったのか、建物は震え、軋んだ。

「誰にも邪魔はさせない。私はここへ、私の小敏を連れてきます!」
「紅蘭夫人…」

 侍女だけでなく、この紅蘭亭に潜むあらゆる幽鬼たちの不安が、ますます陰の気を高め、それがこれまでにないほど私の力を高めていた。

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好的♡