紅蘭夫人エンディング

 馬球場での練習が一段落ついたのか、廷振王子と公子たちは、仮設された休憩用の天幕に集まった。
 西の庭園の北端まで行けば、何とか天幕の声が聞こえるかもしれない。
 私は無我夢中で庭園を駆け抜け、陽射しに苦痛を感じながらも小敏のいる天幕に近付こうとした。

「これは、安承伯爵家から届いたお菓子ですよ」

 公子たちの世話係である李豊がそう言って、手箱を開け、珍しい焼き菓子を取り出した。

「父上から?」

 安承伯爵家の申玄紀という子供が目を丸くしていた。侍女たちが言うように、本当にこの子は仔犬のように可愛らしい。

「おそらくは、平清公主からではございませんか?」
「母上?ああ…廷振王子がお気に入りだものね」

 そう言うと、申玄紀は萎れたように俯いて、取りかけた菓子も手箱に戻してしまった。
 
 まあ、この子もまた「母がおらぬ」のだ、と私にはすぐに分かった。

「煜瑾侯弟、少し顔が赤いようですよ。日に当たりすぎたのではないですか?」

 梁寧侯爵家の従者が心配そうに、少女のようにか弱そうな唐煜瑾という侯弟の世話を焼いている。

「もう、文維兄上ってば、ボクにばっかり言わずに、自分ももっとお菓子を召し上がれ」
「はいはい。けれどお前は遊ぶことに夢中で休むことをしないから…」
「だって、楽しいから…。もっと馬で駆けたいな」

 無邪気なことを言う小敏が心配だったが、まるで兄弟のようにして育ったという包文維が、しっかり面倒を見てくれている。包文維の言うことなら、小敏は良く聞くのだろう。

「ならばこの後、私と競馬をしよう。馬場を早く回って戻って来たものが勝ち。私に勝ったものには褒美をやるぞ」

 子供のような廷振王子がそんなことを言い出し、嬉しそうにしたのは私の小敏と申玄紀だけだ。この2人はとても気が合うようだ。私の手元で育てるのならば、2人一緒がいいだろう。

「煜瑾侯弟と私は、ここで菓子をいただきます。せっかくの珍しい菓子なのに、味わうこともしないで競馬だなんて」

 柔らかく非難するように言いながら、唐煜瑾を庇おうとする包文維はなんと小賢しいのだろう。私の小敏に余計な事を吹きこまれては困るわね。

「ねえ、煜瑾侯弟、疲れの出ないようにしてね。今夜、食事の後で古筝を聴かせてくれるのでしょう?」

 小敏が身を乗り出して言うと、唐煜瑾は恥ずかしそうに微笑んだものの、照れ隠しなのかプイと横を向く。

「そ、そんなの、ただの遊びだ。そんなに期待されては迷惑だ」

 私の小敏が親切に声を掛けているというのに、なんと高慢なこと。侯爵家の子供であることを鼻にかけているのね。とても私の小敏の友達として相応しくないわ。

「ただの遊びなら、私の下手な横笛でよろしければお相伴いたします」

 包文維がそう言うと、高慢な唐煜瑾は驚いたような顔をして、それから安心したように頬を染める。本当に女の子のように可愛らしいけれど、やはり男の子らしい可愛らしさは私の小敏が一番だわ。

「煜瑾は古筝、文維は横笛をやるのか。玄紀には胡琴や柳琴など教えたが、どれも今一つで、なんとかまともに聴けるのはたてぶえくらいだな。小敏は何かできるか?」

 廷振王子は、馬術や武芸も得意だが、歌舞音曲や書画などにも造詣が深い。その廷振王子の前で、小敏は何を披露すると言うだろう。

「う~ん。ボクも文維兄上や、うちの六槐に言われて色んな楽器に触ったけれど…、まともに音が出たのは太鼓くらいかな」

 そう言って小敏は明るく笑い飛ばした。
 今は将軍家の公子として育てられているのだもの。戦場で必要な太鼓が得意なのは間違ってはいない。

「それも面白いな。この別荘には大した楽器は揃っていないが、それでも煜瑾の演奏に花を添えるくらいのことはできる。私は、琵琶でも弾こうか」

 私は廷振王子の言葉に息を呑んだ。

 やはり、廷振は私の竹蘭の生まれ変わりに違いない。竹蘭は琵琶の名手で、この国一番と言われたこともあったのだ。

 私の愛する弟、私の愛する男との子供、ああ、これで私の家族が揃うのだ。あとは、顧参緯さえいてくれたのなら…。

「紅蘭夫人、紅蘭夫人、こんなに陽の光の近くに長くいては、お体に触りますよ」

 侍女たちが私の袖を引くけれど、私はここから離れがたかった。すぐそこに私の家族がいるのだ。

「ああ、小敏!こちらを向いて!私を見てちょうだい」

 これほど近くにいるというのに、陽の気が強すぎて私の声は小敏に届かない。それが情けなく、口惜しく、私は苛立ちが抑えきれなかった。

「誰か!小敏を私のところへ連れて参れ!今すぐに!」
「キャーっ!」「わーっ!」

 私の怒りが届いたのか、天幕で悲鳴のような声が上がった。水の入った壺が、中から弾けるように粉々に砕け散ったのだ。

「紅蘭夫人!ご冷静に!」
「早く、『紅蘭亭』へ戻りましょう」

 侍女たちが私を抑えるようにして、その場から引き離そうとする。

「いや!イヤよ!小敏は私の子なの!私と一緒に帰るのよ!」

 いつしか、いつもは昼間は深い眠りについている楽師や下働きの子供の幽鬼までが私に絡みつくように現れ、私は引きずられるようにして、泣く泣く『紅蘭亭』へ戻ったのだった。

「お怪我は有りませんか、公子がた?」

 離れながら、小敏たちを気遣う李豊の声が聞こえた。なんと無礼な。私が可愛い小敏を傷つけるとでも思っているのだろうか。

「ビックリしたねえ」

 屈託ない小敏の声が聞こえる。

「一体、どうしたことだろう?」

 それに同調するような、他の公子たちの声や、明るい笑い声が遠くなる。

 あれは…、あの明るい笑い声は、私のものなのに…。





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