紅蘭夫人エンディング
その夏は、いつもと違った。
廷振王子は早くから人を遣わし、馬場や馬球場、厩舎などを整備し、母屋に付随していた別棟の建物にも手を加えていた。
誰か、大事な客が来るのだろうと、すっかり当たり前のように母屋に出入りするようになった侍女が言った。
この別荘に廷振王子が来るたび、侍女たちは、同行する妙齢な殿方に見染められようと期待していた。
だが、あの廷振王子と近しい貴公子たちが、王子の美貌に劣る田舎者の侍女など相手にするとは、私にはとても考えられなかった。
それでも、廷振王子の友人となれば、身分も高く、陽の気も強い若者ばかりで、彼らの気で、この別荘が満たされるのは、誰も来ない西の庭園にあっても心地よいものだった。
「今年は子供たちが来るそうですわ」
また母屋の下働きに潜り込んでいた侍女の1人が、落胆したようにそう言った。
「子供?」
不思議に思って私が聞くと、それを待っていたように侍女は見聞きしてきたことを、自慢げに話し始めた。
「そうですの。なんでも名門の幼い公子たちに、廷振王子が馬球をお教えするようですわ」
「幼い公子?そんなに可愛い方たちなの?」
期待している貴公子ではなくとも、小さな子供が好きなのは侍女だけでなく私もそうだ。
あのまとわりつくような、柔らかく、弱々しい、愛らしいもの。そして子供というものはすべからく強い陽の気を持っている。
「子供のような廷振王子に、本物の子供の世話など出来るのかしら」
私はふと不安に思った。
子供と言うのは、無邪気で愛らしい反面、自分のことしか考えられないものだ。
駄々をこねたり、愚図ったり、それがまた可愛らしいものだが、廷振王子のような者が、そんな子供たちに囲まれ、うまく機嫌を取ったり、宥めたり、と出来るとは思えなかった。
「廷振王子が困っていたら、私たちに出来ることでお助けしましょう」
私の気持ちを汲んだように、年長の侍女がそう言った。
「あれが、廷振王子に馬球を教わると言う子供たちなの?」
広い馬場を馬に慣れるためか、並足でクルクルと何周もしている少年たちを、私たちは西の庭園の深い木立の中からソッと見守っていた。
「そうですね。聞いていたよりも大きな子供でしたね」
確かに、「幼い公子」と聞いて私が考えていたのは、10歳になるかならずの小さな子供だった。だが目の前で騎乗し、伸び伸びと笑い、語り、楽しそうにしているのは、15、6の子供と言うよりも、もう青年と言っても良いような伸びやかな貴公子たちだった。
「あの背の高い、涼し気で大人びた公子は、恭王殿下のお孫さまだそうですよ」
侍女が次々と聞き入れてきた噂話を、訊ねもしないのに披露してくれる。
恭王といえば…。
私の胸に忘れていた苦い思い出がよみがえる。
私が愛した顧参緯が、死を前に書いてくれた、これ以上は無いほどの想いの籠った手紙…。それを届けてくれたのが、恭王に柵封される前の顧賛洋だった。
不思議なことに、顧賛洋の孫だと言う青年は、深遠な知性を有したまさに大器という気概を感じさせ、それが、どこか顧参緯を思い出させる。
「あちらの小柄で色白の公子は、まるで女の子のようで可愛らしいですわね」
「あれは梁寧侯爵の弟ぎみだそうよ。今の梁寧侯爵といえば、若くて賢く、美しい貴公子で有名なかたですもの。弟ぎみも才色兼備で当然だわ」
おそらくは、今の梁寧侯爵の父上か、そのまた父上あたりが、かつて顧参緯が開催した馬球大会に来ていたような気がする。白面郎の美青年で、観戦に来ていたご令嬢たちを夢中にさせたものだった。その子か孫であれば、あれほどの美少年であるのも分かる。
「あの日焼けした元気そうな公子は安承伯爵家の一粒種だそうよ」
「あまり賢そうではないけれど、まるで仔犬みたいに可愛らしい子ね」
「今の安承伯爵は科挙にも合格された秀才で、諫言太夫の重責を負われているとか。見目も麗しく、その上、公主である奥方一筋の誠実な方だそうよ」
「じゃあ、正室だけで、側室をお持ちでは無いの?それでは、お寂しいでしょうに」
クスクスと、下心を抱いた下女たちが笑った。
賢く、美しく、その上高貴な公主を妻とする伯爵が、陰の気を纏う田舎者の下女など相手にするはずなどないのに、と私は笑いが浮かぶのを禁じ得ない。
「ねえ、あのもう1人の明るくて、可愛らしい子はどこの公子なの?」
私は4人の公子のうち、1番陽の気が強く、温かく、キラキラと明るく輝くような少年が気になった。
「さあ、貴族のお坊ちゃまではないようですが…」
私だけでなく、侍女たちも眩しそうにその少年を目で追った。
「小敏兄様~!廷振兄上が、少しだけ馬球をしてもいいって!」
安承伯爵家の公子が、そう言いながら馬で駆けてきた。
「小敏?」
その名に、侍女たちはコソコソと互いの情報を交換し始める。
その間も、私は「小敏」と呼ばれた少年から目を離せなかった。明るく、温かく、無邪気でまるで太陽のような公子だった。
私はこの公子が愛おしいと思った。これは男女の情愛のようなものでは無かったが、この子だけに惹かれるのを止められなかった。
「玄紀公子~待ってよ~!」
伸びやかな小敏公子の声が耳に心地よい。なんと愛らしい子であろう。私の心が揺さぶられる。
(穢れの無い、清らかな愛し児…)
私はふと気付く。
私と顧参緯に、もしも子供があったら、こんな子に育っていたのではないだろうか。
そんな風に思うと、もう止められなかった。
あの小敏と言う名の少年は、私と顧参緯の生まれて来ることが出来なかった子供。
そう思い込んだ私は小敏という少年からは、もう目が離せなかった。
廷振王子は早くから人を遣わし、馬場や馬球場、厩舎などを整備し、母屋に付随していた別棟の建物にも手を加えていた。
誰か、大事な客が来るのだろうと、すっかり当たり前のように母屋に出入りするようになった侍女が言った。
この別荘に廷振王子が来るたび、侍女たちは、同行する妙齢な殿方に見染められようと期待していた。
だが、あの廷振王子と近しい貴公子たちが、王子の美貌に劣る田舎者の侍女など相手にするとは、私にはとても考えられなかった。
それでも、廷振王子の友人となれば、身分も高く、陽の気も強い若者ばかりで、彼らの気で、この別荘が満たされるのは、誰も来ない西の庭園にあっても心地よいものだった。
「今年は子供たちが来るそうですわ」
また母屋の下働きに潜り込んでいた侍女の1人が、落胆したようにそう言った。
「子供?」
不思議に思って私が聞くと、それを待っていたように侍女は見聞きしてきたことを、自慢げに話し始めた。
「そうですの。なんでも名門の幼い公子たちに、廷振王子が馬球をお教えするようですわ」
「幼い公子?そんなに可愛い方たちなの?」
期待している貴公子ではなくとも、小さな子供が好きなのは侍女だけでなく私もそうだ。
あのまとわりつくような、柔らかく、弱々しい、愛らしいもの。そして子供というものはすべからく強い陽の気を持っている。
「子供のような廷振王子に、本物の子供の世話など出来るのかしら」
私はふと不安に思った。
子供と言うのは、無邪気で愛らしい反面、自分のことしか考えられないものだ。
駄々をこねたり、愚図ったり、それがまた可愛らしいものだが、廷振王子のような者が、そんな子供たちに囲まれ、うまく機嫌を取ったり、宥めたり、と出来るとは思えなかった。
「廷振王子が困っていたら、私たちに出来ることでお助けしましょう」
私の気持ちを汲んだように、年長の侍女がそう言った。
「あれが、廷振王子に馬球を教わると言う子供たちなの?」
広い馬場を馬に慣れるためか、並足でクルクルと何周もしている少年たちを、私たちは西の庭園の深い木立の中からソッと見守っていた。
「そうですね。聞いていたよりも大きな子供でしたね」
確かに、「幼い公子」と聞いて私が考えていたのは、10歳になるかならずの小さな子供だった。だが目の前で騎乗し、伸び伸びと笑い、語り、楽しそうにしているのは、15、6の子供と言うよりも、もう青年と言っても良いような伸びやかな貴公子たちだった。
「あの背の高い、涼し気で大人びた公子は、恭王殿下のお孫さまだそうですよ」
侍女が次々と聞き入れてきた噂話を、訊ねもしないのに披露してくれる。
恭王といえば…。
私の胸に忘れていた苦い思い出がよみがえる。
私が愛した顧参緯が、死を前に書いてくれた、これ以上は無いほどの想いの籠った手紙…。それを届けてくれたのが、恭王に柵封される前の顧賛洋だった。
不思議なことに、顧賛洋の孫だと言う青年は、深遠な知性を有したまさに大器という気概を感じさせ、それが、どこか顧参緯を思い出させる。
「あちらの小柄で色白の公子は、まるで女の子のようで可愛らしいですわね」
「あれは梁寧侯爵の弟ぎみだそうよ。今の梁寧侯爵といえば、若くて賢く、美しい貴公子で有名なかたですもの。弟ぎみも才色兼備で当然だわ」
おそらくは、今の梁寧侯爵の父上か、そのまた父上あたりが、かつて顧参緯が開催した馬球大会に来ていたような気がする。白面郎の美青年で、観戦に来ていたご令嬢たちを夢中にさせたものだった。その子か孫であれば、あれほどの美少年であるのも分かる。
「あの日焼けした元気そうな公子は安承伯爵家の一粒種だそうよ」
「あまり賢そうではないけれど、まるで仔犬みたいに可愛らしい子ね」
「今の安承伯爵は科挙にも合格された秀才で、諫言太夫の重責を負われているとか。見目も麗しく、その上、公主である奥方一筋の誠実な方だそうよ」
「じゃあ、正室だけで、側室をお持ちでは無いの?それでは、お寂しいでしょうに」
クスクスと、下心を抱いた下女たちが笑った。
賢く、美しく、その上高貴な公主を妻とする伯爵が、陰の気を纏う田舎者の下女など相手にするはずなどないのに、と私は笑いが浮かぶのを禁じ得ない。
「ねえ、あのもう1人の明るくて、可愛らしい子はどこの公子なの?」
私は4人の公子のうち、1番陽の気が強く、温かく、キラキラと明るく輝くような少年が気になった。
「さあ、貴族のお坊ちゃまではないようですが…」
私だけでなく、侍女たちも眩しそうにその少年を目で追った。
「小敏兄様~!廷振兄上が、少しだけ馬球をしてもいいって!」
安承伯爵家の公子が、そう言いながら馬で駆けてきた。
「小敏?」
その名に、侍女たちはコソコソと互いの情報を交換し始める。
その間も、私は「小敏」と呼ばれた少年から目を離せなかった。明るく、温かく、無邪気でまるで太陽のような公子だった。
私はこの公子が愛おしいと思った。これは男女の情愛のようなものでは無かったが、この子だけに惹かれるのを止められなかった。
「玄紀公子~待ってよ~!」
伸びやかな小敏公子の声が耳に心地よい。なんと愛らしい子であろう。私の心が揺さぶられる。
(穢れの無い、清らかな愛し児…)
私はふと気付く。
私と顧参緯に、もしも子供があったら、こんな子に育っていたのではないだろうか。
そんな風に思うと、もう止められなかった。
あの小敏と言う名の少年は、私と顧参緯の生まれて来ることが出来なかった子供。
そう思い込んだ私は小敏という少年からは、もう目が離せなかった。