紅蘭夫人エンディング
「紅蘭亭」にやって来た男は、廷振王子と同じような陽の気を持ち、同時に深い闇を持つ不思議な男だった。
高貴な血筋と高い教養を有しているのは、私たちのような者にはすぐに分かった。男らしく、強く、賢く、そして少し陰のある男…。
敏捷で、引き締まった筋肉を持つが小柄な廷振王子とは違い、その男はスラリと背が高く、肩幅もあり、趣味の良い伊達男と言った感じだ。
私の周囲では、恋を夢見る少女たちは廷振王子にときめき、大人の侍女たちは伊達男に心惹かれていた。
当の私はと言えば、廷振王子に弟の竹蘭を重ねていた。
そのせいか、伊達男のほうには、かつて愛した顧参緯の姿を重ねようとしたのだが…、私の顧参緯には、この男のような心の闇は無かった。
それでも、充分に魅力的な伊達男が、この「紅蘭亭」に何をしに来たのか、興味はあった。
男は、明かりを灯し、燭台を寝室に置いた。持参の酒壺と酒肴の入った手箱を並べ、ニヤリとすると肌触りの良い真絲の布団を剥いで、そこに腰を下ろした。
手酌でまずひと口湿らせ、フッと男は息を吐いた。その物憂げな色気に、侍女たちはざわついた。
遊び慣れた色男の、人生に疲れたような態度が、気怠い色気を漂わせ、女たちを魅了するのだ。
そこへ、廷振王子が馬ではなく徒歩で西の庭園へ入って来た。その足音が、いつもより少し軽い気がしたのは、私の思い違いだったろうか。
「来たのか、范臨川」
寝室の手前で足を止めた廷振王子が、室内を怪訝そうに眺めながら、ボソリと言った。
「私は、お前にここへ招待されたのでは無かったか?」
面白半分な言い方で、范臨川と呼ばれた男は、とぼけて、さらに酒杯を重ねた。
「本当に来るとは、思わなかった…」
拗ねたように言う廷振王子に、私は、おや、と思った。
文句を言っているようだが、そこに甘えのような感情が乗っているのだ。それほどの気心の知れた親しい仲なのか、この范臨川と言う男は…。
范臨川とは何者なのか、私は急に気になり始めた。
「いいから、ここへ来て一緒に酒を飲め」
范臨川は人の良い笑顔を浮かべて、廷振王子に手招きをした。
すると、先ほどまでの不機嫌を忘れたように、廷振王子はニッと無邪気な笑顔を浮かべ、身軽な動作で嬉々として范臨川の隣に座った。
何の許しも得ずに、廷振王子は范臨川が持ち込んだ、酒肴の入った手箱を開け、遠慮なく中を覗き込む。
「私の好きな鶏肉が無い…」
そして、とても大人の態度とは思えないような絶望的な口ぶりで、廷振王子は呟いた。それに同情したように、范臨川は廷振王子の頭に手を置いた。そしてまるで、子供を宥めるように、頭を撫でながら、范臨川は言った。
「今日はパサついた鶏しか無かったのだ。ほら、この豚肉の煮込みが絶品だ」
そう言うと、范臨川は箸で肉をほぐすと、タレのたっぷりかかった美味しそうな一片を廷振王子の口へと運んだ。そのまま何の躊躇もなく、大きく口を開けて廷振はパクリと豚肉を頬張った。
「うん…んん。まあ、…そうだな、悪くない」
モグモグとしながら廷振王子は、嬉しそうな感情を押し殺しながら、澄まして言った。子どもじみた態度だが、そんなところが可愛らしい。
この2人のやり取りに、私は妙な感じがした。
「紅蘭夫人、范臨川というのは、今の白洛公爵だそうですよ」
「強い軍用馬を育てることで知られる白洛の公爵だとかで、大変なお金持ちだそうです」
噂好きの侍女たちは思わぬことを知っている。
「白洛公爵?」
確かにその身分であれば、王子とあれほど親しくあっても不思議では無いのだろう。
「旨いか?」
楽しそうに訊く白洛公爵に、廷振王子は嬉しそうに頷いた。その屈託ない、すっかり心を許した様子が、私には気にかかる。
そう、まるで…。
「お前は食べないのか、范臨川?」
廷振王子がニコニコしながらそう言うと、白洛公爵は、侍女がハァ~と声を上げるほど色気のある苦み走った笑みを口元に浮かべ、思わぬことを言った。
「私は、お前をいただくとしよう」
そう言うと白洛公爵は隣に座る廷振王子をその胸に抱き寄せ、油に濡れて光る廷振王子の唇を奪った。
しかし驚いたのは私たちだけで、廷振王子自身はそれを当然のように受け止め、なおかつ自分から腕を伸ばして白洛公爵を引き寄せた。
やはり、そうだったのだ。
2人の親密な空気は「友情」ではなかった。
廷振王子の心を許した甘やかな態度は、友情よりもさらに深い情を交わす仲ゆえだったのだ。
侍女たちががっかりするのが分かった。
私は、竹蘭を思った。その竹蘭の生まれ変わりとも感じる廷振王子が、自分を深く愛する頼もしい男を慕わしく思うのは不思議では無い。
また幼稚なところもあるが、純粋で、誠実で、そして内には熱い情熱を秘めた、美しい廷振王子に白洛公爵が夢中になるのも当然だと言える。
生まれ変わっても、竹蘭は人を愛し、人からは深く愛されるという幸運を得ていたのだと思うと、私は自分が成し得なかった分、嬉しく思った。
白洛公爵が廷振王子の体を、絹の布団の上に静かに倒した。帯に手を掛け、着物を脱がせ始めた。
素直に身を任せていた廷振王子も、引き締まった大腿を大胆にも白洛公爵の腰に絡めて誘った。
動揺する侍女たちに、私はそっと「紅蘭亭」から出るように言った。夜ならば、私たちも西の庭園の中だけに限るが「紅蘭亭」の外に出られるのだ。
深く思いを交わす2人の邪魔をしたくは無かった。
「ただのお戯れでございましょう?」
侍女の1人が呆れたように言うと、口惜しそうにする者もいる。
陰の気で存在する幽鬼にとって、強い陽の気を持つ殿方に召され、深く繋がることで、生きた人間に近くなれる。
日の光にも耐え得る体を持つことで、自由にどこへでも行け、新しい着物で着飾ったり、化粧を楽しんだり、美味しい食事をしたり、と生きていた頃と同じ暮らしができるかもしれないのだ。
廷振王子や白洛公爵からの情けを賜ることを期待していた侍女たちは、明らかに失望していた。
私はそれを笑い飛ばし、恋人たちの邪魔にならぬよう、薄い月に照らされた西の庭園を心ゆくまで散歩をするのだった。
高貴な血筋と高い教養を有しているのは、私たちのような者にはすぐに分かった。男らしく、強く、賢く、そして少し陰のある男…。
敏捷で、引き締まった筋肉を持つが小柄な廷振王子とは違い、その男はスラリと背が高く、肩幅もあり、趣味の良い伊達男と言った感じだ。
私の周囲では、恋を夢見る少女たちは廷振王子にときめき、大人の侍女たちは伊達男に心惹かれていた。
当の私はと言えば、廷振王子に弟の竹蘭を重ねていた。
そのせいか、伊達男のほうには、かつて愛した顧参緯の姿を重ねようとしたのだが…、私の顧参緯には、この男のような心の闇は無かった。
それでも、充分に魅力的な伊達男が、この「紅蘭亭」に何をしに来たのか、興味はあった。
男は、明かりを灯し、燭台を寝室に置いた。持参の酒壺と酒肴の入った手箱を並べ、ニヤリとすると肌触りの良い真絲の布団を剥いで、そこに腰を下ろした。
手酌でまずひと口湿らせ、フッと男は息を吐いた。その物憂げな色気に、侍女たちはざわついた。
遊び慣れた色男の、人生に疲れたような態度が、気怠い色気を漂わせ、女たちを魅了するのだ。
そこへ、廷振王子が馬ではなく徒歩で西の庭園へ入って来た。その足音が、いつもより少し軽い気がしたのは、私の思い違いだったろうか。
「来たのか、范臨川」
寝室の手前で足を止めた廷振王子が、室内を怪訝そうに眺めながら、ボソリと言った。
「私は、お前にここへ招待されたのでは無かったか?」
面白半分な言い方で、范臨川と呼ばれた男は、とぼけて、さらに酒杯を重ねた。
「本当に来るとは、思わなかった…」
拗ねたように言う廷振王子に、私は、おや、と思った。
文句を言っているようだが、そこに甘えのような感情が乗っているのだ。それほどの気心の知れた親しい仲なのか、この范臨川と言う男は…。
范臨川とは何者なのか、私は急に気になり始めた。
「いいから、ここへ来て一緒に酒を飲め」
范臨川は人の良い笑顔を浮かべて、廷振王子に手招きをした。
すると、先ほどまでの不機嫌を忘れたように、廷振王子はニッと無邪気な笑顔を浮かべ、身軽な動作で嬉々として范臨川の隣に座った。
何の許しも得ずに、廷振王子は范臨川が持ち込んだ、酒肴の入った手箱を開け、遠慮なく中を覗き込む。
「私の好きな鶏肉が無い…」
そして、とても大人の態度とは思えないような絶望的な口ぶりで、廷振王子は呟いた。それに同情したように、范臨川は廷振王子の頭に手を置いた。そしてまるで、子供を宥めるように、頭を撫でながら、范臨川は言った。
「今日はパサついた鶏しか無かったのだ。ほら、この豚肉の煮込みが絶品だ」
そう言うと、范臨川は箸で肉をほぐすと、タレのたっぷりかかった美味しそうな一片を廷振王子の口へと運んだ。そのまま何の躊躇もなく、大きく口を開けて廷振はパクリと豚肉を頬張った。
「うん…んん。まあ、…そうだな、悪くない」
モグモグとしながら廷振王子は、嬉しそうな感情を押し殺しながら、澄まして言った。子どもじみた態度だが、そんなところが可愛らしい。
この2人のやり取りに、私は妙な感じがした。
「紅蘭夫人、范臨川というのは、今の白洛公爵だそうですよ」
「強い軍用馬を育てることで知られる白洛の公爵だとかで、大変なお金持ちだそうです」
噂好きの侍女たちは思わぬことを知っている。
「白洛公爵?」
確かにその身分であれば、王子とあれほど親しくあっても不思議では無いのだろう。
「旨いか?」
楽しそうに訊く白洛公爵に、廷振王子は嬉しそうに頷いた。その屈託ない、すっかり心を許した様子が、私には気にかかる。
そう、まるで…。
「お前は食べないのか、范臨川?」
廷振王子がニコニコしながらそう言うと、白洛公爵は、侍女がハァ~と声を上げるほど色気のある苦み走った笑みを口元に浮かべ、思わぬことを言った。
「私は、お前をいただくとしよう」
そう言うと白洛公爵は隣に座る廷振王子をその胸に抱き寄せ、油に濡れて光る廷振王子の唇を奪った。
しかし驚いたのは私たちだけで、廷振王子自身はそれを当然のように受け止め、なおかつ自分から腕を伸ばして白洛公爵を引き寄せた。
やはり、そうだったのだ。
2人の親密な空気は「友情」ではなかった。
廷振王子の心を許した甘やかな態度は、友情よりもさらに深い情を交わす仲ゆえだったのだ。
侍女たちががっかりするのが分かった。
私は、竹蘭を思った。その竹蘭の生まれ変わりとも感じる廷振王子が、自分を深く愛する頼もしい男を慕わしく思うのは不思議では無い。
また幼稚なところもあるが、純粋で、誠実で、そして内には熱い情熱を秘めた、美しい廷振王子に白洛公爵が夢中になるのも当然だと言える。
生まれ変わっても、竹蘭は人を愛し、人からは深く愛されるという幸運を得ていたのだと思うと、私は自分が成し得なかった分、嬉しく思った。
白洛公爵が廷振王子の体を、絹の布団の上に静かに倒した。帯に手を掛け、着物を脱がせ始めた。
素直に身を任せていた廷振王子も、引き締まった大腿を大胆にも白洛公爵の腰に絡めて誘った。
動揺する侍女たちに、私はそっと「紅蘭亭」から出るように言った。夜ならば、私たちも西の庭園の中だけに限るが「紅蘭亭」の外に出られるのだ。
深く思いを交わす2人の邪魔をしたくは無かった。
「ただのお戯れでございましょう?」
侍女の1人が呆れたように言うと、口惜しそうにする者もいる。
陰の気で存在する幽鬼にとって、強い陽の気を持つ殿方に召され、深く繋がることで、生きた人間に近くなれる。
日の光にも耐え得る体を持つことで、自由にどこへでも行け、新しい着物で着飾ったり、化粧を楽しんだり、美味しい食事をしたり、と生きていた頃と同じ暮らしができるかもしれないのだ。
廷振王子や白洛公爵からの情けを賜ることを期待していた侍女たちは、明らかに失望していた。
私はそれを笑い飛ばし、恋人たちの邪魔にならぬよう、薄い月に照らされた西の庭園を心ゆくまで散歩をするのだった。