紅蘭夫人エンディング
私たちは長年、誰にも邪魔されること無く、ただ睦まじく、穏やかに暮らしていたのだが、老いていく顧参緯と、いつまでも年を取らない私とでは、一生を添い遂げることは出来ない身の上だった。
やがて顧参緯は、年老いて本宅から動けなくなった。どれほど本人が望んでも、この別荘に戻って来ることが出来なくなった。王族の葬儀は、王都で行なうのが、この涼国の決まりであったからだ。それは、顧参緯の命が間もなく尽きるということだった。
私はこの時、ようやく順親王のことを思い出した。
順親王は、私を溺愛し、心配してくれたが、王都の親王府で息を引き取ると、魂はそのまま王都を守護するために留め置かれたのだ。
裕福な顧参緯は、強すぎる権力を持つことを警戒され、戴王の息子でありながら王族として柵封されなかったが、それでも王都を守るため、その魂は王都に封じ込められるのである。
このまま、顧参緯が王都で亡くなれば、私たちはもう会えない。
そのことを自覚した途端、これまで感じたことのない哀しみが私を襲った。
私は、この別荘の西の庭園からは出られない。愛する顧参緯は、遠い王都からは出られない。引き離される哀しみは、本当に身を切られるような苦しさだった。
なんとか最後にもう一度だけ、一目だけでも顧参緯に会えないものかと泣き暮らしていたある日の事だった。
気が付くと、顧参緯の訪れが途絶えて以来、誰も来なかった別荘に、決して身分の卑しからぬ馬車が到着した。高貴な王族の乗り物だった。
私はようやく顧参緯が会いに来てくれたのだと心を躍らせた。
しかし、西の庭園に現れたのは、まだ若い王子だった。この「紅蘭亭」を怖がっているのが見て取れる。
長く顧参緯に会えずにいた私たちは、すっかり陽の気を失い、明るい昼間には姿を現すことが出来ずにいた。仕方なく、いつもそこで休むことにしている、私の姿を描いた掛け軸の絵の中で静かに王子の様子を窺っていた。
その若い王子は、小さく呟いた。
「紅蘭夫人、申し訳ございません」
それだけを言うと、顧参緯が自慢の逸品の牀台に手紙を一通放り投げ、そのまま王子は走って西の庭園を出て行った。
何と無礼な、と使用人たちは言ったが、私は私たちに怯える王子が稚 く、愛らしく思えて無礼とは思わなかった。親戚らしく、どこか顧参緯に似た面差しだったことも、王子を許した原因かもしれない。
遠くで馬車が出立する音が聞こえた。暗くなる前に、この別荘から離れたがっているようだった。
致し方あるまい。
あの王子は陽の気が強く、日の光に愛される、心身共に健やかな少年だ。私たちのような陰の気に触れるべきではないのだ。
日が暮れて、私と侍女たちは牀台に近寄った。王子の残した陽の気を感じ、冷え切った手足が温まるような心地よさを感じた。
「紅蘭夫人!顧参緯さまからのお手紙ですよ!」
侍女の1人が手紙を手に取り、嬉々として叫んだ。
私も急いで手紙を受け取り、一度愛しい相手に思いを馳せるように、その高価な紙を使った便りをギュッと胸に抱いた。
それから、ゆっくりと手紙を開いた。
「紅蘭夫人!」
途中まで読んだ私は、気が遠くなり、そのまま牀台に倒れ込んだ。
それは、顧参緯からの別れの手紙だった。
病床にある顧参緯が、私のために震える字で、命を削るようにしてしたためた手紙だった。彼がどれほど私を愛していたか、寂しい身の上の私を残してこの世を去ることがどれほどつらいか、そんな思いを綿々と綴った、本当に胸が締め付けられるような、切なく、美しい手紙だった。
もう、私が唯一愛した顧参緯という男はこの世を去ってしまうのだと、もう二度と会うことも、触れることも敵わないのだと、私は痛感し、苦しんだ。
あの陽の気に満ちた王子が、これほど残酷な手紙を持って来たことが私には切なかった。
しばらくして何処からともなく、顧参緯が亡くなり、後継ぎがなかったために、この別荘は王室が接収したと聞いた。
きっと、この別荘は取り壊され、私たちの安住の地である西の庭園も「紅蘭亭」も、何もかも失われてしまうのだと私たちは悲嘆した。
だがなぜか下賜されたという王太子は、一度もこの別荘を訪れることはなく、手を加えることも、ましてや取り壊すことも無く、ただ、人々から忘れられていっただけだった。
やがて、王太子が国王となった。
私たちは、いよいよこの別荘の行く末が心配になった。
しかし、ある時から別荘の母屋が賑やかになり、人の出入りが激しくなった。人が増え、陽の気を感じるようになると、侍女たちは時々母屋を訪れるようになった。様子を窺い、私へ報告をしてくれるのだ。
「紅蘭夫人、この別荘は今度の国王の王子に下賜されたそうですよ」
「なんでも、馬球が得意な王子だそうで、この広大な馬場が相応しいだろうと国王が成人のお祝いに送られたのですわ」
「廷振と言う名の、その王子は、母屋をそれは素晴らしく立て替え、馬場や厩舎も整えられました」
「王子は、母屋と馬場以外に、こちらの西の庭園はもちろん、東の庭園さえ大した興味はないようです」
次々と届く侍女たちの言葉に、私はホッとした。
廷振王子は、この西の庭園を取り壊すような人ではないと分かったからだ。少なくとも、この別荘が廷振王子の持ち物である間は、私たちはこの西の庭園で静かに暮らしていける。
私は、廷振王子が何も知らずにいるとしても、私たちの安寧を守ってくれたことを嬉しく思っていた。
やがて顧参緯は、年老いて本宅から動けなくなった。どれほど本人が望んでも、この別荘に戻って来ることが出来なくなった。王族の葬儀は、王都で行なうのが、この涼国の決まりであったからだ。それは、顧参緯の命が間もなく尽きるということだった。
私はこの時、ようやく順親王のことを思い出した。
順親王は、私を溺愛し、心配してくれたが、王都の親王府で息を引き取ると、魂はそのまま王都を守護するために留め置かれたのだ。
裕福な顧参緯は、強すぎる権力を持つことを警戒され、戴王の息子でありながら王族として柵封されなかったが、それでも王都を守るため、その魂は王都に封じ込められるのである。
このまま、顧参緯が王都で亡くなれば、私たちはもう会えない。
そのことを自覚した途端、これまで感じたことのない哀しみが私を襲った。
私は、この別荘の西の庭園からは出られない。愛する顧参緯は、遠い王都からは出られない。引き離される哀しみは、本当に身を切られるような苦しさだった。
なんとか最後にもう一度だけ、一目だけでも顧参緯に会えないものかと泣き暮らしていたある日の事だった。
気が付くと、顧参緯の訪れが途絶えて以来、誰も来なかった別荘に、決して身分の卑しからぬ馬車が到着した。高貴な王族の乗り物だった。
私はようやく顧参緯が会いに来てくれたのだと心を躍らせた。
しかし、西の庭園に現れたのは、まだ若い王子だった。この「紅蘭亭」を怖がっているのが見て取れる。
長く顧参緯に会えずにいた私たちは、すっかり陽の気を失い、明るい昼間には姿を現すことが出来ずにいた。仕方なく、いつもそこで休むことにしている、私の姿を描いた掛け軸の絵の中で静かに王子の様子を窺っていた。
その若い王子は、小さく呟いた。
「紅蘭夫人、申し訳ございません」
それだけを言うと、顧参緯が自慢の逸品の牀台に手紙を一通放り投げ、そのまま王子は走って西の庭園を出て行った。
何と無礼な、と使用人たちは言ったが、私は私たちに怯える王子が
遠くで馬車が出立する音が聞こえた。暗くなる前に、この別荘から離れたがっているようだった。
致し方あるまい。
あの王子は陽の気が強く、日の光に愛される、心身共に健やかな少年だ。私たちのような陰の気に触れるべきではないのだ。
日が暮れて、私と侍女たちは牀台に近寄った。王子の残した陽の気を感じ、冷え切った手足が温まるような心地よさを感じた。
「紅蘭夫人!顧参緯さまからのお手紙ですよ!」
侍女の1人が手紙を手に取り、嬉々として叫んだ。
私も急いで手紙を受け取り、一度愛しい相手に思いを馳せるように、その高価な紙を使った便りをギュッと胸に抱いた。
それから、ゆっくりと手紙を開いた。
「紅蘭夫人!」
途中まで読んだ私は、気が遠くなり、そのまま牀台に倒れ込んだ。
それは、顧参緯からの別れの手紙だった。
病床にある顧参緯が、私のために震える字で、命を削るようにしてしたためた手紙だった。彼がどれほど私を愛していたか、寂しい身の上の私を残してこの世を去ることがどれほどつらいか、そんな思いを綿々と綴った、本当に胸が締め付けられるような、切なく、美しい手紙だった。
もう、私が唯一愛した顧参緯という男はこの世を去ってしまうのだと、もう二度と会うことも、触れることも敵わないのだと、私は痛感し、苦しんだ。
あの陽の気に満ちた王子が、これほど残酷な手紙を持って来たことが私には切なかった。
しばらくして何処からともなく、顧参緯が亡くなり、後継ぎがなかったために、この別荘は王室が接収したと聞いた。
きっと、この別荘は取り壊され、私たちの安住の地である西の庭園も「紅蘭亭」も、何もかも失われてしまうのだと私たちは悲嘆した。
だがなぜか下賜されたという王太子は、一度もこの別荘を訪れることはなく、手を加えることも、ましてや取り壊すことも無く、ただ、人々から忘れられていっただけだった。
やがて、王太子が国王となった。
私たちは、いよいよこの別荘の行く末が心配になった。
しかし、ある時から別荘の母屋が賑やかになり、人の出入りが激しくなった。人が増え、陽の気を感じるようになると、侍女たちは時々母屋を訪れるようになった。様子を窺い、私へ報告をしてくれるのだ。
「紅蘭夫人、この別荘は今度の国王の王子に下賜されたそうですよ」
「なんでも、馬球が得意な王子だそうで、この広大な馬場が相応しいだろうと国王が成人のお祝いに送られたのですわ」
「廷振と言う名の、その王子は、母屋をそれは素晴らしく立て替え、馬場や厩舎も整えられました」
「王子は、母屋と馬場以外に、こちらの西の庭園はもちろん、東の庭園さえ大した興味はないようです」
次々と届く侍女たちの言葉に、私はホッとした。
廷振王子は、この西の庭園を取り壊すような人ではないと分かったからだ。少なくとも、この別荘が廷振王子の持ち物である間は、私たちはこの西の庭園で静かに暮らしていける。
私は、廷振王子が何も知らずにいるとしても、私たちの安寧を守ってくれたことを嬉しく思っていた。