紅蘭夫人エンディング

 本宅で、私の非業の死を知った順親王は、そのまま病に倒れてしまわれた。

 その後の事を、私の仕業という者がいるようだが、私は何も知らない。何もしていない。

 人の心には悪鬼が住む。それと同時に、また良心もある。
 怒りで我を忘れて、悪魔のような所業もするが、そんなことをしてしまった自分に後悔して、無意識のうちに自責の念に駆られることもある。

 内なる魂の戦いの中で、ある者は、急に原因の分からない病を発症することもあるだろう。
 ある者は、幻影を見たり、幻聴を聞いたりすることで、足を滑らせ、池に転落して溺死したり、高楼から転落死することもあるかもしれない。
 そして、良心の呵責に耐え切れず、首を括ったという者がいても不思議とは思わない。

 長く順親王にお仕えしながら王子を成すこともできず、病に伏した順親王の看病をすることも無く、奥方たちの無念はいかほどであったか。
 けれど、それは私のせいではない。私は何もしてはいない。すべて、彼女たちの心の中の闇の仕業なのだ。

 そして、次々と王府から葬儀を出し、ご自身も弱り切ってしまわれた順親王は、広すぎる王府で、後継ぎはもちろん、家族と呼べるものがほとんどないまま、古くから仕える使用人に看取られ、お隠れになった。
 けれど、順親王の魂は王都から出ることは無く、この別荘を訪れることは無かった。

 私はそれも決して悲しくはなかった。
 親王のせいで恨みを買い、命を奪われたとは言え、魂となっても会いに来てくれない薄情さを嘆くことも無かった。最初から順親王へのそれほどの愛着は無かったのだ。





 私はただ、苦しみ、怨み、嘆く使用人たちと共に、別荘の西の庭園で静かに暮らしていければ良かった。
 あの日までは…。

 あの夜、月の美しさに誘われて、私たちは「紅蘭亭」でささやかな宴を開いた。
 下働きの子供たちが酒や料理を並べ、楽師が侍り、私が歌うと、舞いが得意な侍女が踊る。
 それが私たちのたまの慰めだった。

 こんな時に、竹蘭の琵琶があれば、と幾度となく思ったが、素直で貞淑な竹蘭は極楽へ渡り、愛する将軍と幸せに暮らしていることだろう。いや、もはや新しい命を得て、来世で将軍と結ばれているかもしれない。
 幸せな竹蘭に届けとばかりに、私は永遠の愛を約束する俗曲を歌い上げた。

 そして、気が付くとそこに強い「陽の気」を感じた。
 それが生きた人間だと気付き、私たちは怯えた。陰の気を持つ私たち幽鬼は人に害をなさない。
 いつでも相手を傷つけ、踏みにじり、乱暴するのは陽の気を放つ生きた人間だ。陽の気を持つ何者かが、この西の庭園で静かに暮らす私たちを、また苦しめにきたのかと思った。

 だがそれは、月に誘われるように散歩に出たという、王室の一族である顧参緯という青年だった。

 私は一目、顧参緯を見るなり、生れて初めての感情が沸き上がった。
 月明かりの下で、うっとりと私を見詰める男の眼差しに、胸が高鳴り、全身が震えるような気がした。逃げ出したいと思う一方で、彼の顔から眼が離せない。そして、また彼も私と同様に動けずにいるのだと分かった。

 顧参緯は、私たちの警戒を解くように、なるだけ誠実に、王族の品位を持って話し掛けてきた。散歩の途中、気が付くとこの西の庭園に迷い込んでいたのだと言った。決して私たちの宴の邪魔をしたいのではなく、ただ、聴いたことも無いような美しい音楽と歌声に、まるで導かれるようにして、ここに来てしまったのだと彼は言った。

 私と顧参緯は、一目で互いに夢中になった。運命のようなものを感じた。
 おそらくは、愛に殉じた竹蘭が将軍と出会った時も同じ衝撃を覚えたに違いないと私は確信した。これは、私にとって生れて初めての激しい恋情だった。
 私たちは、どちらからと言うことも無く、手を取り合い、ごく自然な流れでそのまま「紅蘭亭」で一夜を明かした。
 私は顧参緯の腕の中で、これまで一度も知らなかった肉の悦びを知った。愛され、求められ、与えられる快感が、これほど私を満たすのだとは思いもよらなかった。心から愛する人の手によれば、「カラダ」というものが変わるものだと、私は初めて知ることができたのだ。
 今まで、このように全身全霊で歓喜することは無かった。
 この顧参緯に愛されるためだけに、私は存在するのだと痛いほど分かった。この男は私のものであり、私はこの男のものなのだと何の躊躇もなく受け入れられた。
 ようやく私にも、竹蘭と同じく心から愛する相手が現れたのだ。

 それからは、私はただ顧参緯を信じ、顧参緯を待つだけの毎日となった。
 裕福な顧参緯は、荒れ放題となっていたこの別荘を、私のために買い入れ、以前と同じかそれ以上の見事な別荘に立て直した。
 あの残酷な事件があった順親王の別荘であったとは忘れるほどの、瀟洒で上品な別荘だった。

 社交的で魅力的な顧参緯を慕うものは多く、彼が主催する競馬や馬球大会や芝居の上演などで、この辺鄙で寂しい別荘だった場所に、多くの若者たちが集まった。華やかで賑やかな、楽しい社交場となり、この世のものでない私たちでさえも心が浮きたつのだった。
 顧参緯の強い陽の気のおかげで、陰の気で出来ている私たちも、西の庭園の中であれば昼間に彼に会うことができるほどになった。彼は私のために西の庭園の中心にある「紅蘭亭」も、私たちが暮らしやすいように心を尽くして立て替えてくれた。
 そして、豪華で瀟洒な別荘の母屋があるというのに、顧参緯は私のために、いつも西の庭園の奥にひっそりと建つ「紅蘭亭」で過ごした。
 そこは、何者にも邪魔をされない私たちだけの世界だった。

 私は、無邪気にもこの幸せがいつまでも続くものだと思っていた。ちょうど、竹蘭が将軍と手に手を取って幸せに暮らしていたと同じように…。
 
 けれど、やがて何かが少しずつ変わっていった。
 それは、生きた人間である顧参緯と、この世のものではない幽鬼である私との逃れられない運命だった。
 顧参緯は年々年を取り、私はいつまでも姿を変えることはなかったのだから。





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