【申玄紀】ルート
「あ、玄紀公子!道具を忘れているよ」
申玄紀の文机の上には、筆や硯、紙や書物がそのままに置かれている。それを見た小敏の指摘に、一度は立ち止るも、玄紀公子はすぐに笑い飛ばした。
「いいんですよ、朱猫が持って来るから。さあ、兄様行きましょう」
屈託なくそう言って、玄紀公子は小敏の手を引っ張る。だが、小敏はそれを引き留めた。
「よくないよ、玄紀公子。自分が使う道具なんだから、自分で片づけないと」
「え?」
一瞬、玄紀公子は小敏の言う意味が分からないというように、きょとんとして子犬のような透明感のある大きな黒い瞳を小敏に向ける。
「自分で使う物は自分で大切に使わないと、いつまでも学問だって好きになれないよ?」
「…小敏兄様…?」
決して申玄紀を責めるようではなく、むしろ心配しているように小敏は言った。
こんな風に言われたことは、玄紀公子は初めてだった。両親や伯爵家の者たちは、申玄紀公子は勉強さえしていれば、それ以外何もしなくていいと言うばかりだ。
父上のようになりなさい、ただひたすら学問をしなさいと毎日のように言われている。
それなのに、小敏は「学問を好きに」なると言った?
「小敏兄様…私は学問なんて好きにならないです」
あまりに驚いて、玄紀公子はぼんやりと答えた。学ぶことが苦痛で、考えただけでも気が沈み、俯いてしまった。
そんな申玄紀が可哀想で、小敏は放っておけなくなる。
「どうしてですか、玄紀公子?」
「学問なんて繰り返し覚えることばかりで、楽しい事なんてありません」
悲しそうに玄紀公子は言って、俯いてしまい、少年らしいふっくらした唇を噛んだ。
それが本当に幼子のようで、小敏は哀れに思うほどだ。
「そうですか?でも、玄紀公子は、馬球は好きでしょう?」
思いがけない小敏の言葉に、日頃からよほど学問がつらいのか、目を潤ませていた申玄紀はゆっくりと顔を上げる。
「馬球と学問は違います。馬球は楽しいし、学問は苦しいです」
小敏に訴えかける申玄紀は、すっかり持ち前の明るさを失っていて、小敏も同情していた。それでも、同じ私塾で学ぶ者として、申玄紀にも小敏と同じように学問を楽しいと思って欲しかった。
「う~ん、でも、馬球の練習でも何度も繰り返すことはあるでしょう?うまく球が打てなくて、何度も繰り返すのはどうしてですか?」
「それは…成功した時が嬉しいからです」
申玄紀は素直にそう言った。それを聞いた小敏はそれ見たことかと嬉しそうに笑う。
「なら、学問も同じですよ。知らなかったことを繰り返し読んだり書いたりして覚えることは、球を打って成功したのと同じこと。知らなかったことを知って、楽しかったと思うことが本当の学問なんですよ」
実はこれは従兄の包文維の受け売りなのだが、小敏自身がこれを実感していたので玄紀公子にも分かって欲しかったのだ。
「でも…。私はバカなのです、小敏兄様」
とうとう申玄紀は大きな目から涙を一つこぼしてしまった。思い詰めた様子の玄紀公子に小敏はドキリとした。
「まさか!誰がそんなことを?」
「伯爵家の者たちはみんなそう言います。秀才の父上に似ず、勉強のできない愚かな後継ぎだと」
これ以上泣くまいと、伯爵家の玄紀公子は健気にギュッと唇を噛んで我慢する。それが小敏には哀れで切なかった。
「そんなことはありません。愚か者が、馬球の試合であれほど巧みに勝てはしませんよ」
小敏は真剣な目つきで、心から思う言葉を口にした。誰が何と言ったか知らないが、小敏が知る申玄紀の馬球の試合運びは巧みで明晰なものだった。
「本当に、そう思われますか、小敏兄様」
「ボクは何度も玄紀公子の試合を見ています。玄紀公子は相手の先の先を読んで攻撃するのがお上手だ。それは賢いということでしょう?」
羽小敏のウソの無い実直な言葉に、申玄紀の気持ちにほんの少し光が差した。
「小敏兄様…」
「ね、勉強が楽しくなれば、玄紀公子は賢いのだからどんどん成績は上がりますよ。そのためにボクがお役に立てるなら、玄紀公子のために協力しますよ」
羽小敏の、その誠実な態度と言葉に、これまで学問が苦手であるせいで、陰では家人にも蔑まれていた玄紀公子はどれほど慰められ、励まされたかしれない。
「羽小敏…」
我慢できずに溢れてきた涙を、玄紀公子は最上の絹で作った衣装の袖で拭いた。
これまで「あの安承伯爵の出来の悪い息子」と陰口を言われて来た申玄紀の苦しみに、初めて寄り添ってくれる人が現れたのだ。
「だから、学問で使う道具も大事にしましょうね」
「はい!小敏兄上」
玄紀公子は、羽小敏と従者の朱猫の手を借りながらも、散らかした道具を片付け、小敏の手を引いて伯爵邸へ戻って行った。
申玄紀の文机の上には、筆や硯、紙や書物がそのままに置かれている。それを見た小敏の指摘に、一度は立ち止るも、玄紀公子はすぐに笑い飛ばした。
「いいんですよ、朱猫が持って来るから。さあ、兄様行きましょう」
屈託なくそう言って、玄紀公子は小敏の手を引っ張る。だが、小敏はそれを引き留めた。
「よくないよ、玄紀公子。自分が使う道具なんだから、自分で片づけないと」
「え?」
一瞬、玄紀公子は小敏の言う意味が分からないというように、きょとんとして子犬のような透明感のある大きな黒い瞳を小敏に向ける。
「自分で使う物は自分で大切に使わないと、いつまでも学問だって好きになれないよ?」
「…小敏兄様…?」
決して申玄紀を責めるようではなく、むしろ心配しているように小敏は言った。
こんな風に言われたことは、玄紀公子は初めてだった。両親や伯爵家の者たちは、申玄紀公子は勉強さえしていれば、それ以外何もしなくていいと言うばかりだ。
父上のようになりなさい、ただひたすら学問をしなさいと毎日のように言われている。
それなのに、小敏は「学問を好きに」なると言った?
「小敏兄様…私は学問なんて好きにならないです」
あまりに驚いて、玄紀公子はぼんやりと答えた。学ぶことが苦痛で、考えただけでも気が沈み、俯いてしまった。
そんな申玄紀が可哀想で、小敏は放っておけなくなる。
「どうしてですか、玄紀公子?」
「学問なんて繰り返し覚えることばかりで、楽しい事なんてありません」
悲しそうに玄紀公子は言って、俯いてしまい、少年らしいふっくらした唇を噛んだ。
それが本当に幼子のようで、小敏は哀れに思うほどだ。
「そうですか?でも、玄紀公子は、馬球は好きでしょう?」
思いがけない小敏の言葉に、日頃からよほど学問がつらいのか、目を潤ませていた申玄紀はゆっくりと顔を上げる。
「馬球と学問は違います。馬球は楽しいし、学問は苦しいです」
小敏に訴えかける申玄紀は、すっかり持ち前の明るさを失っていて、小敏も同情していた。それでも、同じ私塾で学ぶ者として、申玄紀にも小敏と同じように学問を楽しいと思って欲しかった。
「う~ん、でも、馬球の練習でも何度も繰り返すことはあるでしょう?うまく球が打てなくて、何度も繰り返すのはどうしてですか?」
「それは…成功した時が嬉しいからです」
申玄紀は素直にそう言った。それを聞いた小敏はそれ見たことかと嬉しそうに笑う。
「なら、学問も同じですよ。知らなかったことを繰り返し読んだり書いたりして覚えることは、球を打って成功したのと同じこと。知らなかったことを知って、楽しかったと思うことが本当の学問なんですよ」
実はこれは従兄の包文維の受け売りなのだが、小敏自身がこれを実感していたので玄紀公子にも分かって欲しかったのだ。
「でも…。私はバカなのです、小敏兄様」
とうとう申玄紀は大きな目から涙を一つこぼしてしまった。思い詰めた様子の玄紀公子に小敏はドキリとした。
「まさか!誰がそんなことを?」
「伯爵家の者たちはみんなそう言います。秀才の父上に似ず、勉強のできない愚かな後継ぎだと」
これ以上泣くまいと、伯爵家の玄紀公子は健気にギュッと唇を噛んで我慢する。それが小敏には哀れで切なかった。
「そんなことはありません。愚か者が、馬球の試合であれほど巧みに勝てはしませんよ」
小敏は真剣な目つきで、心から思う言葉を口にした。誰が何と言ったか知らないが、小敏が知る申玄紀の馬球の試合運びは巧みで明晰なものだった。
「本当に、そう思われますか、小敏兄様」
「ボクは何度も玄紀公子の試合を見ています。玄紀公子は相手の先の先を読んで攻撃するのがお上手だ。それは賢いということでしょう?」
羽小敏のウソの無い実直な言葉に、申玄紀の気持ちにほんの少し光が差した。
「小敏兄様…」
「ね、勉強が楽しくなれば、玄紀公子は賢いのだからどんどん成績は上がりますよ。そのためにボクがお役に立てるなら、玄紀公子のために協力しますよ」
羽小敏の、その誠実な態度と言葉に、これまで学問が苦手であるせいで、陰では家人にも蔑まれていた玄紀公子はどれほど慰められ、励まされたかしれない。
「羽小敏…」
我慢できずに溢れてきた涙を、玄紀公子は最上の絹で作った衣装の袖で拭いた。
これまで「あの安承伯爵の出来の悪い息子」と陰口を言われて来た申玄紀の苦しみに、初めて寄り添ってくれる人が現れたのだ。
「だから、学問で使う道具も大事にしましょうね」
「はい!小敏兄上」
玄紀公子は、羽小敏と従者の朱猫の手を借りながらも、散らかした道具を片付け、小敏の手を引いて伯爵邸へ戻って行った。