【包文維】ルート
「小敏、帰ろうか」
包文維の声に、羽小敏は振り返った。
「はい、文維兄上」
持ち物を片付け、小敏は教室である講堂を後にする。
「煜瑾侯弟、玄紀公子、また明日!」
教室を出た唐煜瑾の背中と、教室内で宿題の多さに立ち直れずにいる申玄紀に明るく声を掛け、羽小敏は包文維の後を追った。
「今日は、帰りにうちに寄るといい。母上がお前の顔を見たがっていたし、きっと梅汁の礼をおっしゃりたいだろうから」
「そんなの、いいのに…」
今朝の梁寧侯爵といい、誰しもが羽家の梅汁を有り難がってくれるのが小敏は嬉しかった。羽家の梅汁と言えば王室献上の逸品だ。それが羽家の自慢であり誇りでもある。
「母上が、お前の好きな菓子を用意しているかもしれぬのに?」
「え?」
まるで実母のように育ててくれた文維の母、安楽県主は小敏の好みなどは誰よりも知っていて、特に菓子などはわざわざ県主自らの手で作ったものを用意してくれる。
「それに、そろそろお爺様から馬球大会の招待状が届いているかもな」
思わせぶりに文維がそう言うと、小敏はハッとしたように従兄の顔を覗き込んだ。
「あ!行く、絶対に包家に寄ってく!」
そんな小敏の素直な反応に、文維はクスクスと笑って、文人らしい白く、細く長い指で従弟の額をツンと突いた。
「分かりやすい子供だね、お前は」
「もう、子ども扱いしないで、ってば」
いつものように包文維にからかわれながら、2人は仲良く侯爵家の門を出て包家の馬車に乗り込んだ。
生まれると同時に実母を失った小敏は、武骨な武人である父・羽厳将軍1人によって育てられることになったが、将軍は遠い戦地に赴く身、乳母と使用人だけでは心もとないと、包家に預けられることが多かった。
1歳違いの包文維がいる包家も子育てで大変なことであったろうに、叔母でもある安楽県主は本当の母のように大切に育ててくれた。
安楽県主は、小敏が蓮の実の砂糖漬けを好むからと、いつも手作りの菓子を作る時は蓮の実の砂糖漬けを餡にしたり、飾りに使ったり、と小敏を喜ばせた。
やがて物心がつくようになると、面倒見の良い、母である安楽県主を真似たように、文維も実の兄のように羽小敏を可愛がるようになった。
文維が幼い頃のことを思い出す時、いつも小敏と並んで母の手作りの蓮の実の菓子を食べていた光景を浮かべる。
甘い菓子を口いっぱいに頬張る小敏の幸せそうな笑顔が忘れられない。
「ほら、小敏。頬に蓮の餡がついているぞ」
「取って。兄上、取って」
幼子らしい福々しい頬を文維に押し付けるようにして、小敏は甘えた。
苦笑して、そのつやつやとした柔らかい頬から甘い餡を摘まみ、文維はそれを何の気なしに自分の口に含んだ。
「あ~ん。文維兄上がボクの餡を取った~」
「え!」
次の瞬間、小敏が大きな声で泣き出した。頬についた餡の欠片までも惜しむほど、この菓子が気に入っていたようだ。
今さら口から出すことも出来ず、困った文維は、仕方なく自分の残りの菓子を小敏に与えることで泣き止ませた。
「ありがとう、兄上。文維兄上大好き!」
子供の頃から小敏はこの言葉を繰り返す。親戚が少ない羽厳将軍家にあって、小敏が「兄」と呼ぶのは今では従兄の文維だけだ。
好かれている以上、なんとしてもこの弟を大事にしようと文維もまた何度も心の中で誓ってきた。
「文維兄上、どうかした?」
馬車の中で黙り込んだ従兄に、小敏が不思議そうにその眼を覗き込む。
「いや、母上の蓮の実の菓子は、いつも半分はお前に取られてしまうなあと思って」
「もう子供じゃないんだから、そんなことはしませんよ!」
せっかく今日から私塾の学生になったというのに、1日中子供扱いされ、小敏はすっかり気を悪くして口を尖らせた。
そんな子供っぽい態度に、文維はまた笑い出した。小敏はいつまでも可愛い子供で、弟なのだと、どこか喜ばしい文維だった。
小敏が包家の門をくぐると、すでに県主の侍女が待ち構えており、すぐに県主の許へ2人揃ってご挨拶に上がるようにお召しがあった。
やはり、というように文維が微笑むと、嬉しそうに2人揃って県主の部屋へと急いだ。
「安楽県主!」
嬉しさを隠さず、少年らしい明るさで拝礼すると、すぐに県主が奥から現れた。
「久しぶりですね、小敏。また少し大きくなりましたか?」
さながら実子を見るような優しい眼差しで羽小敏を見つめ、県主は文維に手を取られて奥へと戻る。その途中も、親し気に小敏に声を掛けることを忘れない県主は、文維の母というよりも姉のような若々しさと美しさだ。
「今朝、羽家から梅汁が届きましたよ。早速にわたくし一人で味見をしてしまったわ」
クスクス笑いながら言う県主は、おきゃんな町娘のようで、とても王家の姫であり、礼部尚書という高級官僚の妻であり、文維のような聡明な息子の母であるとは見えない。
「今年の梅は豊作で、しかも、とても大きな実がなったのです。ボクも梅園に見に行ったのですよ」
「まあ素敵。わたくしも行ってみたかった」
残念そうというよりも、はっきりと唇を突き出して不満を言う県主は小敏から見ても可愛らしいと思った。
「母上、小敏を困らせるようなことを申されますな」
笑いながら大人びた文維がたしなめると、ちらりと小敏の方を見て県主はコッソリ舌を出した。それがおかしくて、小敏も笑ってしまう。
「今日は、あなたたちが帰って来るのを待っていたのよ」
元気そうな小敏の様子に安心したのか、県主は話を切り替えた。
「何かございましたか?」
思い当たることの無い文維は、むしろ心配そうに母に問うた。
「うふふ。これから、お爺さまがお越しになるのよ」
包文維の祖父であり、安楽県主の父である恭王は王弟と言えど官位を持たず、今日は西の劇場の芝居が評判がいい、今日は東で新しい芝居が始まる、と、気軽に足を運ぶ歌舞音曲を好む風流人だ。
王家の一人娘と科挙受験生との恋物語が、時代や名前を換えたとしても舞台化されると聞いて、皇弟の身分であれば憤慨して力づくで中止させることも出来ただろうに、恭王は、まず脚本を見て、これならば、と許したというのだから、根っからの芝居好きである。
その恭王は、王都各地の劇場に行くついでに、県主の顔を見るために包家に寄ることが往々にしてあるのだ。
「お爺さまが?」
パッと顔と明るくして、文維は小敏の顔を見た。先ほど文維が言ったとおりであれば、恭王は、その主催する馬球大会の招待状を持って来るはずだ。
それを期待して、小敏も目を輝かせる。
「羽小敏がいて、梅汁があって、馬球大会の話ができるとなれば、恭王殿下もさぞお喜びよ」
安楽県主がそういうと、小敏も嬉しそうに微笑んだ。
包文維の声に、羽小敏は振り返った。
「はい、文維兄上」
持ち物を片付け、小敏は教室である講堂を後にする。
「煜瑾侯弟、玄紀公子、また明日!」
教室を出た唐煜瑾の背中と、教室内で宿題の多さに立ち直れずにいる申玄紀に明るく声を掛け、羽小敏は包文維の後を追った。
「今日は、帰りにうちに寄るといい。母上がお前の顔を見たがっていたし、きっと梅汁の礼をおっしゃりたいだろうから」
「そんなの、いいのに…」
今朝の梁寧侯爵といい、誰しもが羽家の梅汁を有り難がってくれるのが小敏は嬉しかった。羽家の梅汁と言えば王室献上の逸品だ。それが羽家の自慢であり誇りでもある。
「母上が、お前の好きな菓子を用意しているかもしれぬのに?」
「え?」
まるで実母のように育ててくれた文維の母、安楽県主は小敏の好みなどは誰よりも知っていて、特に菓子などはわざわざ県主自らの手で作ったものを用意してくれる。
「それに、そろそろお爺様から馬球大会の招待状が届いているかもな」
思わせぶりに文維がそう言うと、小敏はハッとしたように従兄の顔を覗き込んだ。
「あ!行く、絶対に包家に寄ってく!」
そんな小敏の素直な反応に、文維はクスクスと笑って、文人らしい白く、細く長い指で従弟の額をツンと突いた。
「分かりやすい子供だね、お前は」
「もう、子ども扱いしないで、ってば」
いつものように包文維にからかわれながら、2人は仲良く侯爵家の門を出て包家の馬車に乗り込んだ。
生まれると同時に実母を失った小敏は、武骨な武人である父・羽厳将軍1人によって育てられることになったが、将軍は遠い戦地に赴く身、乳母と使用人だけでは心もとないと、包家に預けられることが多かった。
1歳違いの包文維がいる包家も子育てで大変なことであったろうに、叔母でもある安楽県主は本当の母のように大切に育ててくれた。
安楽県主は、小敏が蓮の実の砂糖漬けを好むからと、いつも手作りの菓子を作る時は蓮の実の砂糖漬けを餡にしたり、飾りに使ったり、と小敏を喜ばせた。
やがて物心がつくようになると、面倒見の良い、母である安楽県主を真似たように、文維も実の兄のように羽小敏を可愛がるようになった。
文維が幼い頃のことを思い出す時、いつも小敏と並んで母の手作りの蓮の実の菓子を食べていた光景を浮かべる。
甘い菓子を口いっぱいに頬張る小敏の幸せそうな笑顔が忘れられない。
「ほら、小敏。頬に蓮の餡がついているぞ」
「取って。兄上、取って」
幼子らしい福々しい頬を文維に押し付けるようにして、小敏は甘えた。
苦笑して、そのつやつやとした柔らかい頬から甘い餡を摘まみ、文維はそれを何の気なしに自分の口に含んだ。
「あ~ん。文維兄上がボクの餡を取った~」
「え!」
次の瞬間、小敏が大きな声で泣き出した。頬についた餡の欠片までも惜しむほど、この菓子が気に入っていたようだ。
今さら口から出すことも出来ず、困った文維は、仕方なく自分の残りの菓子を小敏に与えることで泣き止ませた。
「ありがとう、兄上。文維兄上大好き!」
子供の頃から小敏はこの言葉を繰り返す。親戚が少ない羽厳将軍家にあって、小敏が「兄」と呼ぶのは今では従兄の文維だけだ。
好かれている以上、なんとしてもこの弟を大事にしようと文維もまた何度も心の中で誓ってきた。
「文維兄上、どうかした?」
馬車の中で黙り込んだ従兄に、小敏が不思議そうにその眼を覗き込む。
「いや、母上の蓮の実の菓子は、いつも半分はお前に取られてしまうなあと思って」
「もう子供じゃないんだから、そんなことはしませんよ!」
せっかく今日から私塾の学生になったというのに、1日中子供扱いされ、小敏はすっかり気を悪くして口を尖らせた。
そんな子供っぽい態度に、文維はまた笑い出した。小敏はいつまでも可愛い子供で、弟なのだと、どこか喜ばしい文維だった。
小敏が包家の門をくぐると、すでに県主の侍女が待ち構えており、すぐに県主の許へ2人揃ってご挨拶に上がるようにお召しがあった。
やはり、というように文維が微笑むと、嬉しそうに2人揃って県主の部屋へと急いだ。
「安楽県主!」
嬉しさを隠さず、少年らしい明るさで拝礼すると、すぐに県主が奥から現れた。
「久しぶりですね、小敏。また少し大きくなりましたか?」
さながら実子を見るような優しい眼差しで羽小敏を見つめ、県主は文維に手を取られて奥へと戻る。その途中も、親し気に小敏に声を掛けることを忘れない県主は、文維の母というよりも姉のような若々しさと美しさだ。
「今朝、羽家から梅汁が届きましたよ。早速にわたくし一人で味見をしてしまったわ」
クスクス笑いながら言う県主は、おきゃんな町娘のようで、とても王家の姫であり、礼部尚書という高級官僚の妻であり、文維のような聡明な息子の母であるとは見えない。
「今年の梅は豊作で、しかも、とても大きな実がなったのです。ボクも梅園に見に行ったのですよ」
「まあ素敵。わたくしも行ってみたかった」
残念そうというよりも、はっきりと唇を突き出して不満を言う県主は小敏から見ても可愛らしいと思った。
「母上、小敏を困らせるようなことを申されますな」
笑いながら大人びた文維がたしなめると、ちらりと小敏の方を見て県主はコッソリ舌を出した。それがおかしくて、小敏も笑ってしまう。
「今日は、あなたたちが帰って来るのを待っていたのよ」
元気そうな小敏の様子に安心したのか、県主は話を切り替えた。
「何かございましたか?」
思い当たることの無い文維は、むしろ心配そうに母に問うた。
「うふふ。これから、お爺さまがお越しになるのよ」
包文維の祖父であり、安楽県主の父である恭王は王弟と言えど官位を持たず、今日は西の劇場の芝居が評判がいい、今日は東で新しい芝居が始まる、と、気軽に足を運ぶ歌舞音曲を好む風流人だ。
王家の一人娘と科挙受験生との恋物語が、時代や名前を換えたとしても舞台化されると聞いて、皇弟の身分であれば憤慨して力づくで中止させることも出来ただろうに、恭王は、まず脚本を見て、これならば、と許したというのだから、根っからの芝居好きである。
その恭王は、王都各地の劇場に行くついでに、県主の顔を見るために包家に寄ることが往々にしてあるのだ。
「お爺さまが?」
パッと顔と明るくして、文維は小敏の顔を見た。先ほど文維が言ったとおりであれば、恭王は、その主催する馬球大会の招待状を持って来るはずだ。
それを期待して、小敏も目を輝かせる。
「羽小敏がいて、梅汁があって、馬球大会の話ができるとなれば、恭王殿下もさぞお喜びよ」
安楽県主がそういうと、小敏も嬉しそうに微笑んだ。
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