【申玄紀】ルート
小敏と玄紀公子は、安承伯爵家の馬車で、伯爵邸に向かった。
「ねえ。本当にボクなんかがいきなり伯爵家にお邪魔していいのかなあ」
小敏はどこか不安そうに玄紀に訊ねるが、当の玄紀は一向に気にする素振りが無い。
「大丈夫ですって。だって、一緒に『勉強』するために来たんですから」
小敏はふと、安承伯爵家では、勉強を盾に取れば何でも許されるのだろうかと思った。
それは逆に、玄紀が身の回りのことを自分でできるようになったり、勉強を楽しんでやることよりも、ひたすら学問を詰め込んで成績を上げることだけを期待しているようで、ちょっと玄紀が可哀想になっていた。
羽将軍家では、小敏が科挙に合格し、文官として仕官することを望まれてはいるが、それは成績の良い三魁を期待されているわけでは無いし、一年でも早く合格することを期待されているわけでもない。乗馬や馬球大会に出て遊ぶことも許されているし、羽将軍の練兵場や羽家の梅園に遊びに行くことも叱られたことは無い。
勉強ばかりでは遊び盛りの小敏が可哀想だと、父将軍も気に掛けて下さるからだ。そんな風に小敏を大切にして下さる父将軍が、小敏も大好きだ。羽家の使用人たちも、六槐はじめ、皆が小敏のことを案じてくれる。
「勉強のし過ぎで体を壊してはいけませんよ」
「今のうちに遊んでおかねば、大人になってからでは出来ないこともありますよ」
「机上の学問だけでは身に付かないこともたくさんありますよ」
羽家の者たちは、誰しもが小敏の伸びやかな性質を活かそうとして、大切に育ててくれている。それを成長するにつけ何となく小敏も分かってくるようになった。
周囲の大人たちに大事にされ、愛されている、と感じて小敏は幸せだった。
けれど、申玄紀は?
「着きましたよ、小敏兄様」
そこは、梁寧侯爵家と並ぶほどの立派な門構えで、小敏は気後れするほどだった。
「朱猫。母上に、玄紀は羽将軍家の小敏公子と私塾の宿題をするので、本日は後ほどご挨拶に伺うと伝えて」
そう言うと、本来の闊達な少年である申玄紀に戻って馬車から飛び降りた。
「さあ、兄様。私の書斎へ参りましょう」
「あ、…うん」
小敏は玄紀に手を引かれ、大きなお屋敷の塵一つない美しい廊下を奥へと向かう。いくつかの建物を通り過ぎ、一番東の建物に着いた。この棟一軒分が玄紀の物だと聞いて小敏は驚く。
最初の広間は客室らしく、椅子が並んでいるが他はガランとしている。
そこを通り過ぎ、次の間は食事などをする居室のようだが、ここも食卓があるだけだ。さらに奥へ行くと勉強部屋らしい部屋に辿り着いた。
まるでそこは書庫のようで、何本もの書棚が並び、中央に立派な文机と肘掛の付いた大きな椅子がある。本を読んだり、書写をするには良さそうな大きな机で、椅子も座り心地が良いように敷物や背当てが置いてある。
読み切れないほどの書物に、長時間勉強しても疲れないような机を小敏は素直に羨ましいと思った。
「これ、全部きみの書物なの?」
無遠慮にキョロキョロと見回しながら小敏は訊ねた。
「ほとんどは父上のお下がりで、その上に毎月父上が新しいものを見たてて買い足して下さるのです」
小敏はこれほどたくさんの書籍が並んでいる部屋を見たことが無かった。四書五経などの学問の基礎的な典籍はもちろん、それらのあらゆる注釈書もある。さらには古典や見聞録、地図、芸術書や解説書など多岐に渡る興味深い書物ばかりで、小敏は目を輝かせる。
「へえ、こんな本があるんだ~。うわ~これ、挿絵がとってもキレイだ」
気が付くと玄紀をそっちのけで、小敏は書物を次から次に手に取って行った。
「ねえ、小敏兄様、そんなに面白いですか、本を読むのが」
なんとなく取り残されて不満そうに玄紀が言った。
「だって、ほら、ごらんよ。異国にはこんなに変わった動物がいるって書いてあるよ。それに、こちらは論語の注釈がコレとコレでは全然違う」
小敏が楽しそうにしていると、玄紀も何となく気になって覗いてしまう。
「あ、見て!馬球の事が書いてある」
「え、どこですか、小敏兄様?」
「ほら、ここ」
さすがに大好きな馬球の事となると玄紀も好奇心を抑えられない。
「本当だ。…え?昔は玉の代わりに動物を使っていたの?」
「え~!打棒で力一杯打ったら、ビックリして逃げてしまったりしなかったのかなあ?」
「ふふふ、陣地に打ち込んだのに、手前で逃げ出したら悔しいでしょうね」
「本当だね。ははは」
2人は書棚の前に座り込み、次々と馬球関係の本を取り出しては目を輝かせた。
「こちらには馬球の試合を見ていた人が書いた詩が載っているって…。…こっちは詩画だ。うわあ、葦毛の馬で試合に出てる人の画だよ」
「葦毛って気性の荒い馬が多いから、馬球には向かないって言うけど…」
科挙試験向けの難しい本が並ぶ棚もあるにはあったが、それ以外の棚はどれも少年たちが好みそうな冒険にかかわる本や、玄紀の好きな馬球に関係がある本が多いことに2人は気付いた。
「…これって…」
「玄紀公子の父上が新しい本を買って下さるんでしょう?きっと、玄紀公子が好みそうなものを選んで買って下さっているんだね」
言われて初めて、玄紀は父の安承伯爵が、自分を気に掛けてくれていたのだと知った。
これまで、私塾の宿題だけはイヤイヤながらも、朱猫に付き添われてやっていたが、宿題にかかわる書物以外、この膨大な書籍に触れたことも無く、関心すらなかった。
「そうなんだ…」
勉強さえしていればいいと言われるだけで、父伯爵も母公主も自分には関心が無いのだと思っていた玄紀だった。
馬球の試合で勝とうが、玄紀が嬉々として報告しても、両親も伯爵家の誰も褒めてはくれなかった。
「馬球と同じほど熱心に勉強すればいいのに」
そんな風に露骨に口に出す家人もあった。
気落ちする申玄紀を励ましてくれたのは、母・平清公主の弟である廷振王子だけだった。
そして今、羽小敏という理解者が現れ、玄紀は本当に嬉しかった
「私は、馬球がやりたくて…。父上や母上からお許しを得るためには、言うとおりに勉強をしなければならなかったのです。馬球のために、大嫌いな勉強を無理にやっていたのです」
ちょっと泣きそうな顔をしながら言う玄紀に、小敏は黙って何度も頷いた。
「皆の言うとおりに勉強してあげてるんだから、馬球くらい好きにやらせてくれてもいいじゃないかって、ずっと思ってた…」
小敏は思わず手を伸ばし、玄紀の頭を撫でていた。
「頑張ったね、玄紀公子。偉かったね」
小敏の優しさに、玄紀公子も、もう我慢できずにポロポロと涙をこぼした。
「でも、父上は私が馬球を好きなことをお許し下さってた…。だから、こんなにたくさんの馬球の本を買って下さったんでしょう?」
「そうだよ。父上は、玄紀公子が馬球を大好きなのを御存じで、馬球と同じくらい学問も好きになって欲しいなって、こんなにたくさんの本を用意して下さったんですよ」
そう言って小敏が励ますと、玄紀は嬉しそうに何度も何度もコクコクと首を振り、葦毛の馬を駆って馬球をする絵が描かれている詩画を、ギュッと抱き締めた。
「ねえ。本当にボクなんかがいきなり伯爵家にお邪魔していいのかなあ」
小敏はどこか不安そうに玄紀に訊ねるが、当の玄紀は一向に気にする素振りが無い。
「大丈夫ですって。だって、一緒に『勉強』するために来たんですから」
小敏はふと、安承伯爵家では、勉強を盾に取れば何でも許されるのだろうかと思った。
それは逆に、玄紀が身の回りのことを自分でできるようになったり、勉強を楽しんでやることよりも、ひたすら学問を詰め込んで成績を上げることだけを期待しているようで、ちょっと玄紀が可哀想になっていた。
羽将軍家では、小敏が科挙に合格し、文官として仕官することを望まれてはいるが、それは成績の良い三魁を期待されているわけでは無いし、一年でも早く合格することを期待されているわけでもない。乗馬や馬球大会に出て遊ぶことも許されているし、羽将軍の練兵場や羽家の梅園に遊びに行くことも叱られたことは無い。
勉強ばかりでは遊び盛りの小敏が可哀想だと、父将軍も気に掛けて下さるからだ。そんな風に小敏を大切にして下さる父将軍が、小敏も大好きだ。羽家の使用人たちも、六槐はじめ、皆が小敏のことを案じてくれる。
「勉強のし過ぎで体を壊してはいけませんよ」
「今のうちに遊んでおかねば、大人になってからでは出来ないこともありますよ」
「机上の学問だけでは身に付かないこともたくさんありますよ」
羽家の者たちは、誰しもが小敏の伸びやかな性質を活かそうとして、大切に育ててくれている。それを成長するにつけ何となく小敏も分かってくるようになった。
周囲の大人たちに大事にされ、愛されている、と感じて小敏は幸せだった。
けれど、申玄紀は?
「着きましたよ、小敏兄様」
そこは、梁寧侯爵家と並ぶほどの立派な門構えで、小敏は気後れするほどだった。
「朱猫。母上に、玄紀は羽将軍家の小敏公子と私塾の宿題をするので、本日は後ほどご挨拶に伺うと伝えて」
そう言うと、本来の闊達な少年である申玄紀に戻って馬車から飛び降りた。
「さあ、兄様。私の書斎へ参りましょう」
「あ、…うん」
小敏は玄紀に手を引かれ、大きなお屋敷の塵一つない美しい廊下を奥へと向かう。いくつかの建物を通り過ぎ、一番東の建物に着いた。この棟一軒分が玄紀の物だと聞いて小敏は驚く。
最初の広間は客室らしく、椅子が並んでいるが他はガランとしている。
そこを通り過ぎ、次の間は食事などをする居室のようだが、ここも食卓があるだけだ。さらに奥へ行くと勉強部屋らしい部屋に辿り着いた。
まるでそこは書庫のようで、何本もの書棚が並び、中央に立派な文机と肘掛の付いた大きな椅子がある。本を読んだり、書写をするには良さそうな大きな机で、椅子も座り心地が良いように敷物や背当てが置いてある。
読み切れないほどの書物に、長時間勉強しても疲れないような机を小敏は素直に羨ましいと思った。
「これ、全部きみの書物なの?」
無遠慮にキョロキョロと見回しながら小敏は訊ねた。
「ほとんどは父上のお下がりで、その上に毎月父上が新しいものを見たてて買い足して下さるのです」
小敏はこれほどたくさんの書籍が並んでいる部屋を見たことが無かった。四書五経などの学問の基礎的な典籍はもちろん、それらのあらゆる注釈書もある。さらには古典や見聞録、地図、芸術書や解説書など多岐に渡る興味深い書物ばかりで、小敏は目を輝かせる。
「へえ、こんな本があるんだ~。うわ~これ、挿絵がとってもキレイだ」
気が付くと玄紀をそっちのけで、小敏は書物を次から次に手に取って行った。
「ねえ、小敏兄様、そんなに面白いですか、本を読むのが」
なんとなく取り残されて不満そうに玄紀が言った。
「だって、ほら、ごらんよ。異国にはこんなに変わった動物がいるって書いてあるよ。それに、こちらは論語の注釈がコレとコレでは全然違う」
小敏が楽しそうにしていると、玄紀も何となく気になって覗いてしまう。
「あ、見て!馬球の事が書いてある」
「え、どこですか、小敏兄様?」
「ほら、ここ」
さすがに大好きな馬球の事となると玄紀も好奇心を抑えられない。
「本当だ。…え?昔は玉の代わりに動物を使っていたの?」
「え~!打棒で力一杯打ったら、ビックリして逃げてしまったりしなかったのかなあ?」
「ふふふ、陣地に打ち込んだのに、手前で逃げ出したら悔しいでしょうね」
「本当だね。ははは」
2人は書棚の前に座り込み、次々と馬球関係の本を取り出しては目を輝かせた。
「こちらには馬球の試合を見ていた人が書いた詩が載っているって…。…こっちは詩画だ。うわあ、葦毛の馬で試合に出てる人の画だよ」
「葦毛って気性の荒い馬が多いから、馬球には向かないって言うけど…」
科挙試験向けの難しい本が並ぶ棚もあるにはあったが、それ以外の棚はどれも少年たちが好みそうな冒険にかかわる本や、玄紀の好きな馬球に関係がある本が多いことに2人は気付いた。
「…これって…」
「玄紀公子の父上が新しい本を買って下さるんでしょう?きっと、玄紀公子が好みそうなものを選んで買って下さっているんだね」
言われて初めて、玄紀は父の安承伯爵が、自分を気に掛けてくれていたのだと知った。
これまで、私塾の宿題だけはイヤイヤながらも、朱猫に付き添われてやっていたが、宿題にかかわる書物以外、この膨大な書籍に触れたことも無く、関心すらなかった。
「そうなんだ…」
勉強さえしていればいいと言われるだけで、父伯爵も母公主も自分には関心が無いのだと思っていた玄紀だった。
馬球の試合で勝とうが、玄紀が嬉々として報告しても、両親も伯爵家の誰も褒めてはくれなかった。
「馬球と同じほど熱心に勉強すればいいのに」
そんな風に露骨に口に出す家人もあった。
気落ちする申玄紀を励ましてくれたのは、母・平清公主の弟である廷振王子だけだった。
そして今、羽小敏という理解者が現れ、玄紀は本当に嬉しかった
「私は、馬球がやりたくて…。父上や母上からお許しを得るためには、言うとおりに勉強をしなければならなかったのです。馬球のために、大嫌いな勉強を無理にやっていたのです」
ちょっと泣きそうな顔をしながら言う玄紀に、小敏は黙って何度も頷いた。
「皆の言うとおりに勉強してあげてるんだから、馬球くらい好きにやらせてくれてもいいじゃないかって、ずっと思ってた…」
小敏は思わず手を伸ばし、玄紀の頭を撫でていた。
「頑張ったね、玄紀公子。偉かったね」
小敏の優しさに、玄紀公子も、もう我慢できずにポロポロと涙をこぼした。
「でも、父上は私が馬球を好きなことをお許し下さってた…。だから、こんなにたくさんの馬球の本を買って下さったんでしょう?」
「そうだよ。父上は、玄紀公子が馬球を大好きなのを御存じで、馬球と同じくらい学問も好きになって欲しいなって、こんなにたくさんの本を用意して下さったんですよ」
そう言って小敏が励ますと、玄紀は嬉しそうに何度も何度もコクコクと首を振り、葦毛の馬を駆って馬球をする絵が描かれている詩画を、ギュッと抱き締めた。
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