【唐煜瑾】ルート
翌日、蘇老師に与えられた課題を文机に並べ、いつも通りに教室に一番乗りをした唐煜瑾は、難しい顔をして座っていた。
そこへ昨日同様、包文維を先頭に、羽小敏と申玄紀が纏わりつくようにして、楽しそうに教室へ入って来た。
「お早うございます、唐煜瑾侯弟」
「おはよう」
さすがに年長の包文維は礼儀正しく挨拶をする。
「煜瑾侯弟、お早うございます」
「おはよう」
続いて、隣の席の申玄紀が声を掛ける。
それに応えた唐煜瑾は、意を決して、斜め後ろの席に着いたはずの羽小敏を振り返った。
「唐煜瑾侯弟、おはようございます」
「!お、おはよう…」
だが、羽小敏は真後ろの席である包文維に、ちょうど何かの用で寄り添うようにしていて、思いがけず近くに居たので唐煜瑾は驚いた。
「昨日、恭王殿下から馬球大会の招待状が来たんですよ。侯爵家にも届きましたか?」
そのまま屈託なく話しかける羽小敏に、煜瑾はどぎまぎしてしまう。
「あ、ああ。そのことだが…」
「そうだ!ねえ、煜瑾侯弟、昨日言っていた、兄上の御手蹟だけど…」
ハッと思い出したように、小敏はにこやかに話し始めた。
「え?」
「今、持ってない?」
まるで小動物がおねだりするような目をして、羽小敏は上目遣いで唐煜瑾に訴えかける。
「え、あ、そ、その…。今は無い」
「そうか…。ごめんなさい、勝手なことを言って」
見るからにガッカリと肩を落とした羽小敏に、隣の包文維が慣れた様子で慰める。
「お前が昔から綺麗な文字が好きなのは分かっているから。侯爵さまほど御高名な方の書かれた物なら、あちこちに下賜されておられるよ。今日、帰ったら父上にもお伺いしてみよう」
「…うん。でも…」
兄のような包文維に説得されて、仕方なさそうに頷くが、羽小敏は心残りがあるような目を唐煜瑾に向ける。
その眼差しに、友達と思っていた李鶴胤や楚昇貞とは違う純粋なものを感じて、煜瑾はドキリとした。
「もし…」
気が付くと、煜瑾は珍しく自分から声を掛けていた。
「もし、今日、このあと時間があるのであれば、私の部屋に来ればいい。兄上が書いて下さった古典のお手本がたくさんあるから…」
「見せてくれるの!」
先ほどまでの萎れたような小敏の顔がパッと明るくなった。
「煜瑾侯弟!小敏が我儘を申しまして、申し訳ございません。そのようなご迷惑をお掛けするのは恐縮でございます」
しかし、驚いた包文維が、小敏の袖を引きながら慌てて煜瑾に丁寧に辞退を申し出る。
いくら同じ私塾で机を並べる身とは言え、梁寧侯爵家と言えば、爵位でこそ公爵家より劣るものの、その荘園地である梁寧が豊かであるがゆえに、涼国一番の裕福な大貴族だ。王室との関わりも深く近い。
対して羽小敏は、国一番の尊敬を集める常勝将軍・羽厳の一人息子とは言え、古くからの国の規範によれば、武官は文官より地位が低い。
宰相の次と言われる礼部尚書の包文維の父は、知己の友である羽厳将軍を敬愛しているが、身分で言うと包伯言のほうがより高いため、朝議など公の場では将軍に頭を下げることは無いのだ。
そんな武官の子息は、侯弟に誘われたからと言って、侯爵の許し無しに邸内をうろつくわけにはいかない身分だ。
そのため包文維は急いで、小敏が不敬を窘められる前に辞退するように合図を送ったのだが、世間知らずの小敏にはその意味が分からないらしい。
「文維兄上…」
不思議そうに包文維の顔を見て、次に困ったような顔をしている煜瑾を見て、羽小敏は戸惑っていた。
「ええっと、ボクどうしたら…。あ!」
キョトキョトしていた小敏は、ちょうど教室に入って来る蘇三涛老師の姿を目にして、慌てて席に戻った。
「おはようございます、蘇老師!」
4人の若者たちが尊敬する老師に朝の挨拶をする。それを満足そうに眺め、蘇三涛老師も言葉を返す。
「おはよう。みんな元気そうです…ね?」
そう言いながら教室を見渡した蘇老師は、ふと羽小敏の様子がおかしい事に気付いた。
「どうしました、羽小敏?宿題が出来なかったのですか?」
冗談めかして言った蘇老師だったが、小敏は何も言わずに首を横に振った。
「何かありましたか?」
小敏自身、何がいけないのかよく分からずにいるため、何も言えずに黙って俯いていた。
「包文維、これは?」
包文維と小敏の仲を知る蘇老師は、兄代わりの文維に何があったのか、教師として質問した。
「実は…、唐煜瑾侯弟に授業のあと、お部屋にお誘いいただいたのですが…私が代わってご辞退申し上げたので…」
神童と呼ばれ、蘇老師も一目置く包文維が、しどろもどろになっている。侯弟のお声がけを断ったとなれば、それはそれで非礼にあたるので、言い方が難しいのだ。
それを聞いて、これまで柔和だった蘇老師の顔が、急に険しくなった。
「唐煜瑾…」
沈静した声で蘇老師が名を呼んだ。
「はい」
煜瑾も緊張した面持ちで立ち上がった。
「君が、羽小敏を自室へ誘ったのですか?」
「はい」
何を問い質されるのかと、煜瑾は緊張しているが、それでも疚しい事はないと正直に答える。
「自分よりも身分の低い羽小敏が、困ると分かっていてのことですか」
ここで煜瑾は、蘇老師の声が冷ややかである意味を理解した。
「違います!私は、羽小敏に兄上が書かれた物を見せたいと思ったので、自室へ呼んだだけです。同じ教室で机を並べる者同士、私の部屋へ来るのに何の身分が必要でしょうか」
毅然として唐煜瑾は言った。その言葉に、パッと羽小敏の顔が晴れ、同時にようやく自分の立場も理解したようだ。
「申し訳ございません、蘇老師」
小敏は立ち上がり、蘇老師の前まで来ると跪いた。
「私が、煜瑾侯弟のお立場や、包文維の配慮に気付くことなく我儘を申しました」
しっかりと老師の目を見てそれだけを言うと、小敏は叱責を受ける覚悟で頭を下げた。
「違います。同じ蘇老師から学問を学ぶ身として、私が羽小敏を招いたのです。身分など関係ありません。身分で言うのであれば、羽小敏は将軍家の子息としてではなく、私の学友という身分で私の自室へ来るのです。誰に文句を言われることではありません」
驚いたことに、煜瑾もまた小敏の隣に駆け寄り、同じく膝を着いた。
それこそ身分が高いだけでなく、気位が高く、負けず嫌いの唐煜瑾が自ら跪くことなどこれまで一度も無かった。
それを良く知る安承伯爵家の申玄紀は息を呑んで声も出ず、ただ目を見張るばかりで2人の様子を窺っていた。
「よく言いました、唐煜瑾。素晴らしい心掛けです」
蘇老師はそう言って目の前の2人の教え子の手を取って立たせた。
「政治の秩序のためには身分も必要です。ですが、それを越えたものがあると知らずに科挙に挑むことは、人意を知らぬこと。人意を知らずして民衆のために働くことなどできません」
老師は2人の手を重ね合わせ、自分の大きく温かな手も載せて、先ほどまでとは違う優しい笑顔を浮かべていた。
「『仁』や『信』と言った人の心を、君たちは『友情』という形で知ったのです。その気持ちを大切にしなさい」
蘇老師に言われて、煜瑾と小敏はお互いの顔を見詰め、嬉しそうに微笑み合った。
そこへ昨日同様、包文維を先頭に、羽小敏と申玄紀が纏わりつくようにして、楽しそうに教室へ入って来た。
「お早うございます、唐煜瑾侯弟」
「おはよう」
さすがに年長の包文維は礼儀正しく挨拶をする。
「煜瑾侯弟、お早うございます」
「おはよう」
続いて、隣の席の申玄紀が声を掛ける。
それに応えた唐煜瑾は、意を決して、斜め後ろの席に着いたはずの羽小敏を振り返った。
「唐煜瑾侯弟、おはようございます」
「!お、おはよう…」
だが、羽小敏は真後ろの席である包文維に、ちょうど何かの用で寄り添うようにしていて、思いがけず近くに居たので唐煜瑾は驚いた。
「昨日、恭王殿下から馬球大会の招待状が来たんですよ。侯爵家にも届きましたか?」
そのまま屈託なく話しかける羽小敏に、煜瑾はどぎまぎしてしまう。
「あ、ああ。そのことだが…」
「そうだ!ねえ、煜瑾侯弟、昨日言っていた、兄上の御手蹟だけど…」
ハッと思い出したように、小敏はにこやかに話し始めた。
「え?」
「今、持ってない?」
まるで小動物がおねだりするような目をして、羽小敏は上目遣いで唐煜瑾に訴えかける。
「え、あ、そ、その…。今は無い」
「そうか…。ごめんなさい、勝手なことを言って」
見るからにガッカリと肩を落とした羽小敏に、隣の包文維が慣れた様子で慰める。
「お前が昔から綺麗な文字が好きなのは分かっているから。侯爵さまほど御高名な方の書かれた物なら、あちこちに下賜されておられるよ。今日、帰ったら父上にもお伺いしてみよう」
「…うん。でも…」
兄のような包文維に説得されて、仕方なさそうに頷くが、羽小敏は心残りがあるような目を唐煜瑾に向ける。
その眼差しに、友達と思っていた李鶴胤や楚昇貞とは違う純粋なものを感じて、煜瑾はドキリとした。
「もし…」
気が付くと、煜瑾は珍しく自分から声を掛けていた。
「もし、今日、このあと時間があるのであれば、私の部屋に来ればいい。兄上が書いて下さった古典のお手本がたくさんあるから…」
「見せてくれるの!」
先ほどまでの萎れたような小敏の顔がパッと明るくなった。
「煜瑾侯弟!小敏が我儘を申しまして、申し訳ございません。そのようなご迷惑をお掛けするのは恐縮でございます」
しかし、驚いた包文維が、小敏の袖を引きながら慌てて煜瑾に丁寧に辞退を申し出る。
いくら同じ私塾で机を並べる身とは言え、梁寧侯爵家と言えば、爵位でこそ公爵家より劣るものの、その荘園地である梁寧が豊かであるがゆえに、涼国一番の裕福な大貴族だ。王室との関わりも深く近い。
対して羽小敏は、国一番の尊敬を集める常勝将軍・羽厳の一人息子とは言え、古くからの国の規範によれば、武官は文官より地位が低い。
宰相の次と言われる礼部尚書の包文維の父は、知己の友である羽厳将軍を敬愛しているが、身分で言うと包伯言のほうがより高いため、朝議など公の場では将軍に頭を下げることは無いのだ。
そんな武官の子息は、侯弟に誘われたからと言って、侯爵の許し無しに邸内をうろつくわけにはいかない身分だ。
そのため包文維は急いで、小敏が不敬を窘められる前に辞退するように合図を送ったのだが、世間知らずの小敏にはその意味が分からないらしい。
「文維兄上…」
不思議そうに包文維の顔を見て、次に困ったような顔をしている煜瑾を見て、羽小敏は戸惑っていた。
「ええっと、ボクどうしたら…。あ!」
キョトキョトしていた小敏は、ちょうど教室に入って来る蘇三涛老師の姿を目にして、慌てて席に戻った。
「おはようございます、蘇老師!」
4人の若者たちが尊敬する老師に朝の挨拶をする。それを満足そうに眺め、蘇三涛老師も言葉を返す。
「おはよう。みんな元気そうです…ね?」
そう言いながら教室を見渡した蘇老師は、ふと羽小敏の様子がおかしい事に気付いた。
「どうしました、羽小敏?宿題が出来なかったのですか?」
冗談めかして言った蘇老師だったが、小敏は何も言わずに首を横に振った。
「何かありましたか?」
小敏自身、何がいけないのかよく分からずにいるため、何も言えずに黙って俯いていた。
「包文維、これは?」
包文維と小敏の仲を知る蘇老師は、兄代わりの文維に何があったのか、教師として質問した。
「実は…、唐煜瑾侯弟に授業のあと、お部屋にお誘いいただいたのですが…私が代わってご辞退申し上げたので…」
神童と呼ばれ、蘇老師も一目置く包文維が、しどろもどろになっている。侯弟のお声がけを断ったとなれば、それはそれで非礼にあたるので、言い方が難しいのだ。
それを聞いて、これまで柔和だった蘇老師の顔が、急に険しくなった。
「唐煜瑾…」
沈静した声で蘇老師が名を呼んだ。
「はい」
煜瑾も緊張した面持ちで立ち上がった。
「君が、羽小敏を自室へ誘ったのですか?」
「はい」
何を問い質されるのかと、煜瑾は緊張しているが、それでも疚しい事はないと正直に答える。
「自分よりも身分の低い羽小敏が、困ると分かっていてのことですか」
ここで煜瑾は、蘇老師の声が冷ややかである意味を理解した。
「違います!私は、羽小敏に兄上が書かれた物を見せたいと思ったので、自室へ呼んだだけです。同じ教室で机を並べる者同士、私の部屋へ来るのに何の身分が必要でしょうか」
毅然として唐煜瑾は言った。その言葉に、パッと羽小敏の顔が晴れ、同時にようやく自分の立場も理解したようだ。
「申し訳ございません、蘇老師」
小敏は立ち上がり、蘇老師の前まで来ると跪いた。
「私が、煜瑾侯弟のお立場や、包文維の配慮に気付くことなく我儘を申しました」
しっかりと老師の目を見てそれだけを言うと、小敏は叱責を受ける覚悟で頭を下げた。
「違います。同じ蘇老師から学問を学ぶ身として、私が羽小敏を招いたのです。身分など関係ありません。身分で言うのであれば、羽小敏は将軍家の子息としてではなく、私の学友という身分で私の自室へ来るのです。誰に文句を言われることではありません」
驚いたことに、煜瑾もまた小敏の隣に駆け寄り、同じく膝を着いた。
それこそ身分が高いだけでなく、気位が高く、負けず嫌いの唐煜瑾が自ら跪くことなどこれまで一度も無かった。
それを良く知る安承伯爵家の申玄紀は息を呑んで声も出ず、ただ目を見張るばかりで2人の様子を窺っていた。
「よく言いました、唐煜瑾。素晴らしい心掛けです」
蘇老師はそう言って目の前の2人の教え子の手を取って立たせた。
「政治の秩序のためには身分も必要です。ですが、それを越えたものがあると知らずに科挙に挑むことは、人意を知らぬこと。人意を知らずして民衆のために働くことなどできません」
老師は2人の手を重ね合わせ、自分の大きく温かな手も載せて、先ほどまでとは違う優しい笑顔を浮かべていた。
「『仁』や『信』と言った人の心を、君たちは『友情』という形で知ったのです。その気持ちを大切にしなさい」
蘇老師に言われて、煜瑾と小敏はお互いの顔を見詰め、嬉しそうに微笑み合った。