【包文維】ルート
包家から羽家に戻り、小敏はすぐに蘇老師から与えられた課題に取り組んだ。
不思議なことに、蘇老師の手蹟は老師の心地よい声に変わって小敏の中に入り込み、たった2度ほど書写しただけで、涼国建国史5000字はすっかり覚えてしまった。
八股文の書写はさらに簡単で、覚えるのではなく書き写すだけなので、とても見やすい蘇老師の手蹟のおかげで、小敏は書き直すことなく一度で済んだ。
この構造が八股文なのかと見返した後、小敏は包文維の父であり、自分の叔父でもある包伯言の状元答案を改めて読んだ。
基礎の四書五経はもちろんのこと、もっと難しい古典からの引用もうるさ過ぎず、それでいて自身の考えも無理なく自然に入れ込み、流れも良く、それでいて課題の八股文の形態に添い、流麗な文体は華やかさもあって読みやすい。
これこそが「状元」の才なのだな、と初めて見る小敏は感心しきりだ。
自分にはここまでの才能は無いとすぐに分かってしまうが、それでも少しでも近づきたいと、向上心のある羽小敏は思った。
(明日の私塾も楽しみだな)
と、ワクワクしていた小敏に廊下から声が掛かった。
「小敏さま?お勉強はお済みですか?」
声の主は、羽家の執事・六槐だ。てっきり父・羽厳将軍が戻り、夕餉の時間かと小敏は喜んで廊下に飛び出した。
「父上、お帰りなさい!」
だが廊下に出た小敏は、跪く六槐の後ろに立つ、大きく澄んだ目をした機敏そうな青年に驚いて固まってしまった。
「やあ、羽小敏。元気いっぱいなようだな」
背はそれほど高くないが、それでも細身でありながら筋肉質で、しなやかな剣士のような印象だ。目鼻立ちは整っていて、ツンと尖ったアヒルのような口元が子供のように無邪気に見える。
「廷振王子?」
涼国王の末の息子である顧廷振王子は、とうに二十歳を越えたオトナだと思っていた小敏だが、近くで見ると自分とそれほど変わらないように見える。
以前、恭王殿下の馬球大会で見かけたことのある廷振王子は馬上で、小敏からは遠く、その姿をしっかりと見ることは叶わなかった。
その後もその後も遠くから、あれが廷振王子だと教えられることはあっても、身分が違い過ぎて近寄ることも出来ず、これほど近くではっきり顔を見たのは初めてだった。
「廷振王子が、どうしてここに?」
きょとんとして、見つめるだけの羽小敏に、廷振王子は明るく笑い飛ばした。やはりあの恭王の血筋で、なおかつお気に入りの王族だけある。大らかで、快活な人柄のようだ。小敏は一目で好感を持った。
「君が私と馬球大会で組んでくれるのだと聞いたのだが?」
大きな瞳をクリクリさせて、屈託のない笑顔で廷振王子は笑った。
「はあ、は、はいそうです!」
言われて急に小敏は緊張した。この安瑶の街で一番の馬球の選手が目の前にいるのだ。選手でもあり、愛好家でもある小敏は嬉しくて頭に血が上ってしまった。
「うわ~、廷振王子だ~」
恥じらいも無く、小敏は廷振王子を上から下まで、前から後ろから珍しそうにジロジロと眺めた。
「小敏さま、王子に対し失礼ですよ」
そう六槐に言われるまで、小敏は自分の無遠慮な態度にも気づかないほどだった。
「あ、ごめんなさい。申し訳ございません、廷振王子」
慌てて小敏は廊下に跪こうとしたが、廷振王子が手を取り立ち上がらせた。
「先ほどから王子、王子と言うな。甥の申玄紀とは梁寧侯爵家の私塾で一緒だと聞いている。申玄紀の学友であれば、私の事も申玄紀と同じく『兄上』と呼べばいい」
そう言われて、小敏は目を丸くした。
「申玄紀公子は、廷振王子のことを『叔叔(おじうえ)』ではなく『哥哥(あにうえ)』と呼ぶのですか?」
確か申玄紀の母上は廷振王子の実の姉であるので、廷振王子は申玄紀から見て叔父にあたる。
「そうだよ。私はまだ若い。『叔叔』と呼ばれるには早いだろう」
確かに若々しく、溌溂とした廷振王子が言うと本当にそう思える。
なるほどと納得した様子の素直な小敏に、廷振王子も思わず噴き出した。
「気に入った!本当はお前の騎乗姿を見てから、一緒に組むかどうか決めようと思っていたのだが。決めたぞ。今回の馬球大会では、私は羽小敏と組んで出る」
そう言って豪快に笑う廷振王子に、驚いて声を掛ける者があった。
「何をなさっておられるのです、廷振王子!」
それは帰宅したばかりの羽厳将軍で、未だ冊封の無い気楽な身分とは言え、国王直系の王子が自宅の廊下で大笑いをしていては、剛毅な将軍と言えども驚いてしかるべきだ。
「おお、羽厳将軍、ごきげんよう。こたびの恭王の馬球大会には、私はこの羽小敏と組んで出ることにする。異存は無かろうな」
「は?なんのお話でしょうか?小敏、いったいこれは」
唐突な申し出に戸惑うばかりの将軍だったが、息子の顔を見て、ようやく得心する。
「小敏、お前、廷振王子と組んで、恭王殿下の馬球大会に出たいのだな」
ちょっと困ったような顔で訊ねる父に対し、小敏はおねだりするような上目遣いで見上げた。
この顔に、父将軍は昔から弱い。
生れてすぐに母と兄を亡くした哀れな子供だと、将軍は甘やかせ、大事にしてきた。包家の助けもあって、素直ないい子に育ち、我儘なども言わない聞き分けの良い小敏だ。それだけに、たまに何かをねだられると、将軍としてはダメだとは言いにくい。
「いけませんか、父上」
悲しそうな眼をする愛息に、拒む理由も将軍には無い。
「殿下、うちの羽小敏は甘やかせて育てたせいで、年よりも随分と子供です。おそらくは無礼な言動もあると思いますが、何卒大目に見て下さいませ」
父将軍の言葉に、パッと顔を明るくして、満面の笑みで小敏は顧廷振を振り返り、ぺこりと頭を下げた。
心配そうにしながら、羽将軍も廷振王子に低頭する。
「止してくれ、羽厳将軍。陛下お気に入りの常勝将軍に頭を下げられたなどと噂が立てば、私の方が立場に困る」
そして、廷振王子は小敏の方に向き直り、キリリと引き締まった表情で言った。
「明日の午後は空いているか?」
「はい!私塾の後は空いています」
小敏のハキハキした答えに満足したように廷振王子は頷いた。
「羽家の馬場は使えるか?」
この質問には、小敏の一存で返答できず、そっと父将軍の顔を仰ぎ見る。
「承知しております。明日より馬球の練習をなさるのでしょう。どうぞ我が家の馬場をお使い下さい。なんでしたら、お相手に私の配下も数名置いておきます」
余儀なしと言った様子で、将軍は馬場の使用を許可する。結局は息子に甘い将軍だった。
「では、明日から特訓だ。しっかりついて来るように」
「はい!よろしくお願いいたしますっ!」
嬉しそうな小敏の気負いを感じ、廷振王子は満足げに帰っていた。
翌日、私塾へ迎えに来た包文維は小敏の言葉に驚いた。
「でね、廷振王子は自分の事を廷振兄上と呼ぶようにって。嬉しいなあ、あんな上手な方と一緒に馬球ができるなんて」
顔を合わせるなり、小敏はずっと廷振王子と馬球の話ばかりだった。
「けれど、仮にも王子に『兄上』などと…」
小敏の喜びようとは裏腹に、文維の気持ちはざわついていた。
「でも、ご自分でそうおっしゃったんです。さっそく今日の午後から我が家の馬場で練習を始めるんですよ」
小敏は、まるで夢を見ているかのようにウットリとして語る。
「廷振兄上ほどの腕前なら練習など不要でしょうに、ボクのために特訓して下さるんです」
(昨日までは…)
昨日まで、羽小敏が「兄上」と呼ぶのは、包文維1人だけだった。それなのに、急に小敏には「兄上」と呼ぶ相手がもう1人。そしてその相手の事を小敏は心から崇拝しているようだ。
それだけの事実が、なぜか包文維の心を乱す。それが何なのか、まだ本人さえも気付かずにいた。
不思議なことに、蘇老師の手蹟は老師の心地よい声に変わって小敏の中に入り込み、たった2度ほど書写しただけで、涼国建国史5000字はすっかり覚えてしまった。
八股文の書写はさらに簡単で、覚えるのではなく書き写すだけなので、とても見やすい蘇老師の手蹟のおかげで、小敏は書き直すことなく一度で済んだ。
この構造が八股文なのかと見返した後、小敏は包文維の父であり、自分の叔父でもある包伯言の状元答案を改めて読んだ。
基礎の四書五経はもちろんのこと、もっと難しい古典からの引用もうるさ過ぎず、それでいて自身の考えも無理なく自然に入れ込み、流れも良く、それでいて課題の八股文の形態に添い、流麗な文体は華やかさもあって読みやすい。
これこそが「状元」の才なのだな、と初めて見る小敏は感心しきりだ。
自分にはここまでの才能は無いとすぐに分かってしまうが、それでも少しでも近づきたいと、向上心のある羽小敏は思った。
(明日の私塾も楽しみだな)
と、ワクワクしていた小敏に廊下から声が掛かった。
「小敏さま?お勉強はお済みですか?」
声の主は、羽家の執事・六槐だ。てっきり父・羽厳将軍が戻り、夕餉の時間かと小敏は喜んで廊下に飛び出した。
「父上、お帰りなさい!」
だが廊下に出た小敏は、跪く六槐の後ろに立つ、大きく澄んだ目をした機敏そうな青年に驚いて固まってしまった。
「やあ、羽小敏。元気いっぱいなようだな」
背はそれほど高くないが、それでも細身でありながら筋肉質で、しなやかな剣士のような印象だ。目鼻立ちは整っていて、ツンと尖ったアヒルのような口元が子供のように無邪気に見える。
「廷振王子?」
涼国王の末の息子である顧廷振王子は、とうに二十歳を越えたオトナだと思っていた小敏だが、近くで見ると自分とそれほど変わらないように見える。
以前、恭王殿下の馬球大会で見かけたことのある廷振王子は馬上で、小敏からは遠く、その姿をしっかりと見ることは叶わなかった。
その後もその後も遠くから、あれが廷振王子だと教えられることはあっても、身分が違い過ぎて近寄ることも出来ず、これほど近くではっきり顔を見たのは初めてだった。
「廷振王子が、どうしてここに?」
きょとんとして、見つめるだけの羽小敏に、廷振王子は明るく笑い飛ばした。やはりあの恭王の血筋で、なおかつお気に入りの王族だけある。大らかで、快活な人柄のようだ。小敏は一目で好感を持った。
「君が私と馬球大会で組んでくれるのだと聞いたのだが?」
大きな瞳をクリクリさせて、屈託のない笑顔で廷振王子は笑った。
「はあ、は、はいそうです!」
言われて急に小敏は緊張した。この安瑶の街で一番の馬球の選手が目の前にいるのだ。選手でもあり、愛好家でもある小敏は嬉しくて頭に血が上ってしまった。
「うわ~、廷振王子だ~」
恥じらいも無く、小敏は廷振王子を上から下まで、前から後ろから珍しそうにジロジロと眺めた。
「小敏さま、王子に対し失礼ですよ」
そう六槐に言われるまで、小敏は自分の無遠慮な態度にも気づかないほどだった。
「あ、ごめんなさい。申し訳ございません、廷振王子」
慌てて小敏は廊下に跪こうとしたが、廷振王子が手を取り立ち上がらせた。
「先ほどから王子、王子と言うな。甥の申玄紀とは梁寧侯爵家の私塾で一緒だと聞いている。申玄紀の学友であれば、私の事も申玄紀と同じく『兄上』と呼べばいい」
そう言われて、小敏は目を丸くした。
「申玄紀公子は、廷振王子のことを『叔叔(おじうえ)』ではなく『哥哥(あにうえ)』と呼ぶのですか?」
確か申玄紀の母上は廷振王子の実の姉であるので、廷振王子は申玄紀から見て叔父にあたる。
「そうだよ。私はまだ若い。『叔叔』と呼ばれるには早いだろう」
確かに若々しく、溌溂とした廷振王子が言うと本当にそう思える。
なるほどと納得した様子の素直な小敏に、廷振王子も思わず噴き出した。
「気に入った!本当はお前の騎乗姿を見てから、一緒に組むかどうか決めようと思っていたのだが。決めたぞ。今回の馬球大会では、私は羽小敏と組んで出る」
そう言って豪快に笑う廷振王子に、驚いて声を掛ける者があった。
「何をなさっておられるのです、廷振王子!」
それは帰宅したばかりの羽厳将軍で、未だ冊封の無い気楽な身分とは言え、国王直系の王子が自宅の廊下で大笑いをしていては、剛毅な将軍と言えども驚いてしかるべきだ。
「おお、羽厳将軍、ごきげんよう。こたびの恭王の馬球大会には、私はこの羽小敏と組んで出ることにする。異存は無かろうな」
「は?なんのお話でしょうか?小敏、いったいこれは」
唐突な申し出に戸惑うばかりの将軍だったが、息子の顔を見て、ようやく得心する。
「小敏、お前、廷振王子と組んで、恭王殿下の馬球大会に出たいのだな」
ちょっと困ったような顔で訊ねる父に対し、小敏はおねだりするような上目遣いで見上げた。
この顔に、父将軍は昔から弱い。
生れてすぐに母と兄を亡くした哀れな子供だと、将軍は甘やかせ、大事にしてきた。包家の助けもあって、素直ないい子に育ち、我儘なども言わない聞き分けの良い小敏だ。それだけに、たまに何かをねだられると、将軍としてはダメだとは言いにくい。
「いけませんか、父上」
悲しそうな眼をする愛息に、拒む理由も将軍には無い。
「殿下、うちの羽小敏は甘やかせて育てたせいで、年よりも随分と子供です。おそらくは無礼な言動もあると思いますが、何卒大目に見て下さいませ」
父将軍の言葉に、パッと顔を明るくして、満面の笑みで小敏は顧廷振を振り返り、ぺこりと頭を下げた。
心配そうにしながら、羽将軍も廷振王子に低頭する。
「止してくれ、羽厳将軍。陛下お気に入りの常勝将軍に頭を下げられたなどと噂が立てば、私の方が立場に困る」
そして、廷振王子は小敏の方に向き直り、キリリと引き締まった表情で言った。
「明日の午後は空いているか?」
「はい!私塾の後は空いています」
小敏のハキハキした答えに満足したように廷振王子は頷いた。
「羽家の馬場は使えるか?」
この質問には、小敏の一存で返答できず、そっと父将軍の顔を仰ぎ見る。
「承知しております。明日より馬球の練習をなさるのでしょう。どうぞ我が家の馬場をお使い下さい。なんでしたら、お相手に私の配下も数名置いておきます」
余儀なしと言った様子で、将軍は馬場の使用を許可する。結局は息子に甘い将軍だった。
「では、明日から特訓だ。しっかりついて来るように」
「はい!よろしくお願いいたしますっ!」
嬉しそうな小敏の気負いを感じ、廷振王子は満足げに帰っていた。
翌日、私塾へ迎えに来た包文維は小敏の言葉に驚いた。
「でね、廷振王子は自分の事を廷振兄上と呼ぶようにって。嬉しいなあ、あんな上手な方と一緒に馬球ができるなんて」
顔を合わせるなり、小敏はずっと廷振王子と馬球の話ばかりだった。
「けれど、仮にも王子に『兄上』などと…」
小敏の喜びようとは裏腹に、文維の気持ちはざわついていた。
「でも、ご自分でそうおっしゃったんです。さっそく今日の午後から我が家の馬場で練習を始めるんですよ」
小敏は、まるで夢を見ているかのようにウットリとして語る。
「廷振兄上ほどの腕前なら練習など不要でしょうに、ボクのために特訓して下さるんです」
(昨日までは…)
昨日まで、羽小敏が「兄上」と呼ぶのは、包文維1人だけだった。それなのに、急に小敏には「兄上」と呼ぶ相手がもう1人。そしてその相手の事を小敏は心から崇拝しているようだ。
それだけの事実が、なぜか包文維の心を乱す。それが何なのか、まだ本人さえも気付かずにいた。