序幕故事(プロローグ)篇
そして、本日の課題である「状元の答案」を書写した手本を蘇老師から受け取った小敏は、その筆致にハッとした。
悠然として精緻、優雅であるが凛々として、まるで書聖の手に寄るかのような見事な書体だった。
「蘇老師。このお手本は、老師自らの御手に寄るものですか?」
小敏は驚いて、思わず訊いてしまった。
「そうですよ。読みにくいですか?」
「いいえ!その逆です。こんなに素晴らしい文字を見たのは初めてです。こんな素晴らしいお手本を、ボクの字で書き写すなんて恐れ多い気がします」
小敏の正直な感想だったが、意外だったのか、珍しく蘇老師は声を上げて笑った。
「あはは…っ!羽小敏、君は面白い子供ですね。羽厳将軍が溺愛の一人息子と聞いていましたが、思いのほか面白い…」
言われた小敏は、「面白い」と言われて褒められているのかどうか分からず、困ったように、そっと包文維に視線を送るが、なんと文維までもが笑っていた。
「では、羽小敏に免じて今日の課題はこれだけにしましょう」
老師の言葉に喜んだのは小敏ではなく、その前に座る申玄紀だったのだが、嬉しくて小敏を振り返った瞬間に、玄紀は蘇老師と目が合ってしまった。
「ただし、申玄紀を除いて、という意味ですが」
「そんな!…イヤだなあ…」
悲しそうにギュッと顔を歪める申玄紀だったが、蘇老師に同情する気は無かった。
「以前、涼国建国史についてまとめた5000文字がありましたね。それを覚えるまで、10回でも20回でも写していらっしゃい。2日後に口述で試験をします」
淡々と蘇老師はそう告げ、申玄紀はますます泣きそうな顔になった。
「蘇老師!」
何か言おうとした小敏に、蘇老師は微笑み掛け、先んじた。
「涼国建国史5000文字が欲しいのなら、包文維がお手本を持っています。羽小敏も覚えるまで写してきなさい」
「でも…」
自分の求めるものを老師が察して下さったのは嬉しい小敏だったが、ちょっと不服そうだ。
「でも、なんですか?あなたも口述試験をしますよ」
「ボクは、先生の字のお手本が欲しいです」
よほど蘇老師の手蹟が気に入ったらしい小敏に、包文維が声を掛ける。
「老師の御手を煩わせるまでもない。蘇老師のお手本はお前に上げよう。私はもうすっかり覚えてしまっているから、お前が上手に書写できたものをもらうことにする」
「本当に?じゃあ、兄上に献上するつもりでしっかり書写します!」
小敏の宣言を、蘇老師も納得したように頷き、宿題も決まったところで、今日の授業は終了した。
蘇老師が退出し、梁寧侯爵邸内に用意された、老師のためだけの瀟洒な別邸に向かわれると、小敏はワクワクしながら包文維の文机に詰め寄った。
「文維兄上、お手本、お手本!」
「はいはい…」
文維がたくさんある書籍や文書の中から、求めるものを探していると、振り返りもせずに唐煜瑾が不機嫌そうな声で言った。
「私たちより勉強が遅れているからと、何もあれほど露骨に蘇老師に媚びることは無いですよ、羽小敏」
唐煜瑾の言葉の意味が分からず、小敏は素直に聞き返す。
「どういう意味ですか?ボクは、媚びてなど…」
「老師の手蹟が欲しいなどと…。ご機嫌取り以外に何だというんです」
憎々し気に言う煜瑾に気付きもしないのか、小敏は本気で驚いたように聞き返した。
「え?煜瑾侯弟は老師の手蹟を綺麗だとは思わないの?」
あまりにも無邪気な羽小敏の問いに、一瞬煜瑾も言葉を詰まらせた。
振り返り、羽小敏を睨みつけようとした唐煜瑾だったが、小敏の眼差しがあまりにも純粋で、自分への対抗心や野心などが無いと一目で分かってしまった。そうなると、もうそれ以上は何も言えなくなる。
「そ、それは…。蘇三涛老師の手蹟も優れているとは思うが、兄上の方が、もっと上品で素晴らしいから…」
言い訳するように唐煜瑾がそう言うと、小敏はさらに目を輝かせた。
「そうなんだ!じゃあ、見せてよ!見たい、見たい!」
「な、何を言って…」
人見知りをしない小敏は、すでに同じ授業を受ける唐煜瑾を友達だと思っているが、その唐煜瑾は高貴な出であるがゆえに人見知りしがちで、このような対等な友情を押し付けられることに慣れていなかった。
「小敏、いい加減にしなさい。煜瑾侯弟も困っていらっしゃる。ほら、これが蘇老師の涼国建国史のお手本。これが欲しいのだろう?」
「あ!兄上、ありがとうございます」
目当てのお手本を受け取り、小敏は真剣に目を通し始めた。
小敏が静かになったことで、唐煜瑾はホッとして席を立ち、従者を連れて静かに教室を後にした。
一方で、課題の多さに頭を抱える申玄紀は、グズグズと帰り仕度をしているが、遅々として進まなかった。
悠然として精緻、優雅であるが凛々として、まるで書聖の手に寄るかのような見事な書体だった。
「蘇老師。このお手本は、老師自らの御手に寄るものですか?」
小敏は驚いて、思わず訊いてしまった。
「そうですよ。読みにくいですか?」
「いいえ!その逆です。こんなに素晴らしい文字を見たのは初めてです。こんな素晴らしいお手本を、ボクの字で書き写すなんて恐れ多い気がします」
小敏の正直な感想だったが、意外だったのか、珍しく蘇老師は声を上げて笑った。
「あはは…っ!羽小敏、君は面白い子供ですね。羽厳将軍が溺愛の一人息子と聞いていましたが、思いのほか面白い…」
言われた小敏は、「面白い」と言われて褒められているのかどうか分からず、困ったように、そっと包文維に視線を送るが、なんと文維までもが笑っていた。
「では、羽小敏に免じて今日の課題はこれだけにしましょう」
老師の言葉に喜んだのは小敏ではなく、その前に座る申玄紀だったのだが、嬉しくて小敏を振り返った瞬間に、玄紀は蘇老師と目が合ってしまった。
「ただし、申玄紀を除いて、という意味ですが」
「そんな!…イヤだなあ…」
悲しそうにギュッと顔を歪める申玄紀だったが、蘇老師に同情する気は無かった。
「以前、涼国建国史についてまとめた5000文字がありましたね。それを覚えるまで、10回でも20回でも写していらっしゃい。2日後に口述で試験をします」
淡々と蘇老師はそう告げ、申玄紀はますます泣きそうな顔になった。
「蘇老師!」
何か言おうとした小敏に、蘇老師は微笑み掛け、先んじた。
「涼国建国史5000文字が欲しいのなら、包文維がお手本を持っています。羽小敏も覚えるまで写してきなさい」
「でも…」
自分の求めるものを老師が察して下さったのは嬉しい小敏だったが、ちょっと不服そうだ。
「でも、なんですか?あなたも口述試験をしますよ」
「ボクは、先生の字のお手本が欲しいです」
よほど蘇老師の手蹟が気に入ったらしい小敏に、包文維が声を掛ける。
「老師の御手を煩わせるまでもない。蘇老師のお手本はお前に上げよう。私はもうすっかり覚えてしまっているから、お前が上手に書写できたものをもらうことにする」
「本当に?じゃあ、兄上に献上するつもりでしっかり書写します!」
小敏の宣言を、蘇老師も納得したように頷き、宿題も決まったところで、今日の授業は終了した。
蘇老師が退出し、梁寧侯爵邸内に用意された、老師のためだけの瀟洒な別邸に向かわれると、小敏はワクワクしながら包文維の文机に詰め寄った。
「文維兄上、お手本、お手本!」
「はいはい…」
文維がたくさんある書籍や文書の中から、求めるものを探していると、振り返りもせずに唐煜瑾が不機嫌そうな声で言った。
「私たちより勉強が遅れているからと、何もあれほど露骨に蘇老師に媚びることは無いですよ、羽小敏」
唐煜瑾の言葉の意味が分からず、小敏は素直に聞き返す。
「どういう意味ですか?ボクは、媚びてなど…」
「老師の手蹟が欲しいなどと…。ご機嫌取り以外に何だというんです」
憎々し気に言う煜瑾に気付きもしないのか、小敏は本気で驚いたように聞き返した。
「え?煜瑾侯弟は老師の手蹟を綺麗だとは思わないの?」
あまりにも無邪気な羽小敏の問いに、一瞬煜瑾も言葉を詰まらせた。
振り返り、羽小敏を睨みつけようとした唐煜瑾だったが、小敏の眼差しがあまりにも純粋で、自分への対抗心や野心などが無いと一目で分かってしまった。そうなると、もうそれ以上は何も言えなくなる。
「そ、それは…。蘇三涛老師の手蹟も優れているとは思うが、兄上の方が、もっと上品で素晴らしいから…」
言い訳するように唐煜瑾がそう言うと、小敏はさらに目を輝かせた。
「そうなんだ!じゃあ、見せてよ!見たい、見たい!」
「な、何を言って…」
人見知りをしない小敏は、すでに同じ授業を受ける唐煜瑾を友達だと思っているが、その唐煜瑾は高貴な出であるがゆえに人見知りしがちで、このような対等な友情を押し付けられることに慣れていなかった。
「小敏、いい加減にしなさい。煜瑾侯弟も困っていらっしゃる。ほら、これが蘇老師の涼国建国史のお手本。これが欲しいのだろう?」
「あ!兄上、ありがとうございます」
目当てのお手本を受け取り、小敏は真剣に目を通し始めた。
小敏が静かになったことで、唐煜瑾はホッとして席を立ち、従者を連れて静かに教室を後にした。
一方で、課題の多さに頭を抱える申玄紀は、グズグズと帰り仕度をしているが、遅々として進まなかった。