序幕故事(プロローグ)篇
教室である講堂は、侯爵家の広大な邸内に作られた独立した建物で、梁寧侯爵は「四阿(あずまや)」と呼んでいるが、2~30人の宴席が出来そうなほど広々としている。
四方の柱こそ大きいが、壁が無く、とても細やかで美しい細工の格子窓に覆われており、天井も高く、太陽光をよく取り込んで、多少曇りの日でも明るく感じた。
格子窓の外側には広い柱廊があり、雨が教室に降り込む心配もない。
こんな立派な広間に学生がたった4人とは、もったいないと小敏などは思う。
もっとも、学生が増えれば、この素晴らしい先生に直接指導してもらう時間が減るだろうから、小敏は嬉しい贅沢を享受していた。
「『水』とは何か、羽小敏」
いきなり物静かな蘇老師から名を呼ばれ、課題の書写に少々飽きていた小敏は慌てて立ち上がった。
この広い部屋に文机が前列2席、後列2席に並べてあり、前列右には侯弟の唐煜瑾、左には申玄紀、煜瑾の後ろに包文維が座り、その隣が今日から羽小敏の席になる。
「水とは柔軟で、上から下に流れるもの。冷たいと氷になり、熱いと湯になります。水が無ければ、生き物は生きられません」
小敏なりに真剣に考えて答えてみたが、蘇老師は黙って小敏の顔を見詰めているばかりだ。
「ええっと、それから…」
なんとか老師に気に入ってもらえる答えを出せればと、小敏は頭を捻る。
そんな素直で真面目な羽小敏に、蘇老師もフッと頬を緩めた。
「よろしい、座りなさい、羽小敏。…では、唐煜瑾の考える『水』とは何か」
蘇老師は、そっと視線を移した。急な指名にも、悠然として唐煜瑾は立ち上がった。
「老子曰く『上善は水の若し』。最上の善たる在り方は、『水』のようにあらゆるものに恵みを与え、争うことなく、人々が嫌がる低いところへと身を置くこと……」
すらすらと答える唐煜瑾に、羽小敏は呆気にとられた。そんな風に答えるものなのかと、小敏は初めて知ったからだ。
きょとんとする羽小敏の方をチラリと振り返り、完璧な回答をした唐煜瑾は勝ち誇ったように口元を緩めた。
「はい!蘇老師!」
すると、いきなり手を挙げて、小敏は大きな声を上げた。席に着こうとしていた唐煜瑾は、その声に動揺してもう一度立ち上がってしまったほどだ。
「なんですか、羽小敏」
だが、蘇三涛老師はどこまでも穏やかに、驚いた様子もなく小敏に声を返した。
「老子はこうも言っています。『水は丸い器に入れれば丸くなり、四角い器に入れれば四角になる。万物に恩恵をあたえながら、少しも自慢することなく、つねに低い所へ位置する。そのあり方はきわめて柔軟で謙虚であり、それでいて硬い岩でも打ち砕く力を秘めている。一見、主体性がないように見えるが、その実つねに低いところへ流れようと強固な主体性を秘め、何も為してないように見えながら、万物に恩恵を与えている。時には水蒸気となり氷となって、その姿は臨機応変、自由自在。人間もかくありたいものだ』」
一思いにここまで言って、先ほどの自分の意見が老師の教えを基にしていることを主張した小敏は、満足そうにニコニコしている。
「端的に老子の教えを示し、理解をしている唐煜瑾は優秀です。ですが、老子の教えを理解し、自分の物としている羽小敏もよく勉強しています」
優しい蘇老師の言葉に、褒められたのが自分だけでは無かった煜瑾は不満そうで、初めて褒められた小敏は対照的に少し恥ずかしそうに笑っていた。
そして、蘇老師は科挙試験について話始めた。
「科挙の試験では、あらゆる知識、教養が問われます。四書五経は基礎中の基礎ですが、2人ともそれ以上に老荘の思想まで身に付いているようで何よりです」
包文維は当然それらを理解している様子で落ち着いているが、四書五経ですら危ういところがある申玄紀は、ガッカリと肩を落としていた。
「課題に合わせて、それら知識を活用し、論理的に明文化し、なおかつ整然として優雅な文章でなければならない…まさに中にある水を問われているようで、その容器の美しさまでも求められているのです」
科挙試験は官僚採用試験であるため、その答案用紙一枚で、その人物を見極めねばならない。採点官によって主観も入ることもあり、内容以外に一定の基準を置かねばならなかった。それが「八股文」と呼ばれる特殊な定型文体である。
「明日からは練習をのために、課題の提出は『八股文』の形式を採用します。初めは難しいでしょうが、繰り返すことで身に付くものです。本日の課題は、まずこれまでの『状元』の答案を書き写すことから。本日用意できたのは過去3名の状元の答案です。中には包文維の御父上である包伯言礼部尚書の答案もありますよ」
そう言って蘇老師は、包文維に向かって笑顔を送った。
叔父が褒められたようで嬉しくなった小敏も、慌てて文維を振り返るが、文維は相変わらず冷静で、泰然としている。
そんな大人びた文維に、ほんの少し距離を感じて、初めて小敏は寂しいと思った。
四方の柱こそ大きいが、壁が無く、とても細やかで美しい細工の格子窓に覆われており、天井も高く、太陽光をよく取り込んで、多少曇りの日でも明るく感じた。
格子窓の外側には広い柱廊があり、雨が教室に降り込む心配もない。
こんな立派な広間に学生がたった4人とは、もったいないと小敏などは思う。
もっとも、学生が増えれば、この素晴らしい先生に直接指導してもらう時間が減るだろうから、小敏は嬉しい贅沢を享受していた。
「『水』とは何か、羽小敏」
いきなり物静かな蘇老師から名を呼ばれ、課題の書写に少々飽きていた小敏は慌てて立ち上がった。
この広い部屋に文机が前列2席、後列2席に並べてあり、前列右には侯弟の唐煜瑾、左には申玄紀、煜瑾の後ろに包文維が座り、その隣が今日から羽小敏の席になる。
「水とは柔軟で、上から下に流れるもの。冷たいと氷になり、熱いと湯になります。水が無ければ、生き物は生きられません」
小敏なりに真剣に考えて答えてみたが、蘇老師は黙って小敏の顔を見詰めているばかりだ。
「ええっと、それから…」
なんとか老師に気に入ってもらえる答えを出せればと、小敏は頭を捻る。
そんな素直で真面目な羽小敏に、蘇老師もフッと頬を緩めた。
「よろしい、座りなさい、羽小敏。…では、唐煜瑾の考える『水』とは何か」
蘇老師は、そっと視線を移した。急な指名にも、悠然として唐煜瑾は立ち上がった。
「老子曰く『上善は水の若し』。最上の善たる在り方は、『水』のようにあらゆるものに恵みを与え、争うことなく、人々が嫌がる低いところへと身を置くこと……」
すらすらと答える唐煜瑾に、羽小敏は呆気にとられた。そんな風に答えるものなのかと、小敏は初めて知ったからだ。
きょとんとする羽小敏の方をチラリと振り返り、完璧な回答をした唐煜瑾は勝ち誇ったように口元を緩めた。
「はい!蘇老師!」
すると、いきなり手を挙げて、小敏は大きな声を上げた。席に着こうとしていた唐煜瑾は、その声に動揺してもう一度立ち上がってしまったほどだ。
「なんですか、羽小敏」
だが、蘇三涛老師はどこまでも穏やかに、驚いた様子もなく小敏に声を返した。
「老子はこうも言っています。『水は丸い器に入れれば丸くなり、四角い器に入れれば四角になる。万物に恩恵をあたえながら、少しも自慢することなく、つねに低い所へ位置する。そのあり方はきわめて柔軟で謙虚であり、それでいて硬い岩でも打ち砕く力を秘めている。一見、主体性がないように見えるが、その実つねに低いところへ流れようと強固な主体性を秘め、何も為してないように見えながら、万物に恩恵を与えている。時には水蒸気となり氷となって、その姿は臨機応変、自由自在。人間もかくありたいものだ』」
一思いにここまで言って、先ほどの自分の意見が老師の教えを基にしていることを主張した小敏は、満足そうにニコニコしている。
「端的に老子の教えを示し、理解をしている唐煜瑾は優秀です。ですが、老子の教えを理解し、自分の物としている羽小敏もよく勉強しています」
優しい蘇老師の言葉に、褒められたのが自分だけでは無かった煜瑾は不満そうで、初めて褒められた小敏は対照的に少し恥ずかしそうに笑っていた。
そして、蘇老師は科挙試験について話始めた。
「科挙の試験では、あらゆる知識、教養が問われます。四書五経は基礎中の基礎ですが、2人ともそれ以上に老荘の思想まで身に付いているようで何よりです」
包文維は当然それらを理解している様子で落ち着いているが、四書五経ですら危ういところがある申玄紀は、ガッカリと肩を落としていた。
「課題に合わせて、それら知識を活用し、論理的に明文化し、なおかつ整然として優雅な文章でなければならない…まさに中にある水を問われているようで、その容器の美しさまでも求められているのです」
科挙試験は官僚採用試験であるため、その答案用紙一枚で、その人物を見極めねばならない。採点官によって主観も入ることもあり、内容以外に一定の基準を置かねばならなかった。それが「八股文」と呼ばれる特殊な定型文体である。
「明日からは練習をのために、課題の提出は『八股文』の形式を採用します。初めは難しいでしょうが、繰り返すことで身に付くものです。本日の課題は、まずこれまでの『状元』の答案を書き写すことから。本日用意できたのは過去3名の状元の答案です。中には包文維の御父上である包伯言礼部尚書の答案もありますよ」
そう言って蘇老師は、包文維に向かって笑顔を送った。
叔父が褒められたようで嬉しくなった小敏も、慌てて文維を振り返るが、文維は相変わらず冷静で、泰然としている。
そんな大人びた文維に、ほんの少し距離を感じて、初めて小敏は寂しいと思った。