序幕故事(プロローグ)篇
包文維を先頭に、羽小敏とそこに纏わりつくような申玄紀が私塾の教室に入って来ると、すでにそこには泰然とした美しい貴公子が席に着いていた。
傍らには涼し気な従者が控え、貴公子のために静かに硯で墨を磨っている。
「お早うございます、唐煜瑾兄上」
屈託なく声を掛けたのは、同じく貴族の家柄の申玄紀だ。名門の家柄同士、この私塾以外でも交流があるに違いない。
「おはよう…」
真っ直ぐに背を伸ばし、手にした典籍に目を落としたまま、唐煜瑾はいかにも優等生といった態度で一言だけ答えた。
「こちらは、今日から一緒に学ぶ、羽家の小敏兄様ですよ!」
唐煜瑾の反応を物足りなく思い、わざとらしくはしゃぐ申玄紀に一瞥もなく、チラリと小敏に視線を送っただけで、唐煜瑾は言葉少なに言った。
「よろしく」
その端的な一言でさえ、唐煜瑾が高貴な生まれ育ちであることがうかがえた。整った目鼻立ちに、端然とした佇まい。侵し難い気品というようなものがある。
小敏とは同い年だというが、あまりに梁寧侯爵家が高貴過ぎて、あちこちで開催される馬球や詩歌の会など年の近い者たちの集まりで、小敏と唐煜瑾公子は会った覚えが無かった。
「こちらは羽厳将軍家の羽小敏です。本日より私と共にこちらに通わせていただきます」
年上の包文維がそういうと、ようやく唐煜瑾は書物を置き、新入りの顔を正面から見た。
「お世話になります。よろしくお願いします!」
高貴な同級生に嫌われたくなくて、小敏は最上の笑顔を添えて丁寧に頭を下げた。
「この私塾は、兄の梁寧侯爵が、学問の志がある者のために開いたもの。兄の許可を得てここへ来たのなら、私に媚びる必要はない」
高貴な青年は無表情で、冷ややかにそう言った。その冷淡さに、申玄紀のほうがムッとするが、小敏の方はキョトンとしていた。
(高貴な生まれというのは、同い年でもこんなにおとなびているものなのだなあ)
申玄紀や包文維の心配をよそに、小敏は暢気 にそんなことに感心していた。
(ボクもしっかりしないと!)
「何をニヤニヤしている」
小敏の決意の笑顔をどう取ったのか、唐煜瑾が不愉快そうに指摘した。
「申し訳ございません、侯弟 」
慌てて包文維が小敏の手を引き、後ろの席に連れて行こうとした、その時だった。
「お互いの挨拶は済みましたか」
その人物が教室へ入った途端に、空気が変わったように小敏は思った。
不快な感じではない心地よい緊張感があり、包み込まれるような安心感もある。これがあの、科挙の三魁の実力を持つという蘇老師なのだと、すぐに察した。
まだ三十路の青年といった整った風貌だが、その聡明さ、抜きんでた知性は全身から輝くばかりに感じられた。
「蘇老師、おはようございます」
包文維が一番に挨拶をすると、唐煜瑾も素早く立ち上がり、申玄紀も居住いを正した。
「「お早うございます、蘇老師」」
唐家と申家のそれぞれの公子が挨拶をするのに合わせ、小敏も慌てて礼をする。そして、深遠な叡智を感じる蘇老師の目と合うと、ほんの少し緊張しながら挨拶をした。
「初めまして、蘇老師。羽家の羽小敏でございます」
「よく来られました、羽小敏」
だが身を固くした小敏に、先に声を掛けたのは蘇老師ではなく、その後ろから現れた背の高い人物だった。
「これは、梁寧侯爵!おはようございます」
文維の言葉に、これがこの私塾を開いた涼国一の大貴族で、隣にいる唐煜瑾の兄である、梁寧侯爵・唐煜瓔 だと小敏は知った。
その姿に、小敏は息を呑んだ。
兄弟だけあって、同い年の煜瑾とよく似た面差しの侯爵だったが、その圧倒的な美貌と威厳に、小敏は言葉を失ってしまう。
「小敏…、侯爵にご挨拶を…」
包文維に耳元で囁かれ、慌てて我に返った小敏は、頬を赤らめながら改めて自己紹介をする。
「は、初めておめもじいたします。ボク…いや私は羽厳将軍が一子、羽小敏と申します。この度はこちらの私塾に通うことをお許しいただき、誠にありがとうございます」
未だ皇帝陛下にも拝謁を許されない小敏にとって、梁寧侯爵は今までに会った中で最も身分の高い人物であり、ドキドキとして声もうまく出ない。
そんな小敏を、包文維は心配そうに見ていた。
「そんなに固くならずともよい、羽小敏。君が優秀なのは、包家が保証済み。ここで共に学んでくれれば、煜瑾たちの励みにもなろう」
優しく、穏やかな声で侯爵はそう言って、小敏を安心させるように柔和に微笑んだ。
「先ほどは、羽家より高名な梅汁が届けられた。貴重なものゆえ、感謝していると、父上にも、よろしくお伝えして欲しい」
「承知いたしました」
それだけを言うと、侯爵は弟の顔を見てこの上なく優雅に微笑み、励ますように頷き、続いて蘇老師に会釈をすると、静かに教室を出て行った。
「では、羽小敏。私が今日から君の師となる蘇三涛です。しっかりと学び、分からないことは何でも聞きなさい」
蘇老師の声は落ち着いていて、心に沁みるような良い声だ。この声で講義をされれば、何もかもがスーッと頭の中に入ってしまいそうな、そんな心地よさを小敏は感じた。
「よろしくお願いします!」
新しい友、新しい師、新しい環境で、小敏の期待はいやが上にも高まる。
これから秋の科挙試験まで、一生懸命学ぼうと決意を新たにする小敏だった。
傍らには涼し気な従者が控え、貴公子のために静かに硯で墨を磨っている。
「お早うございます、唐煜瑾兄上」
屈託なく声を掛けたのは、同じく貴族の家柄の申玄紀だ。名門の家柄同士、この私塾以外でも交流があるに違いない。
「おはよう…」
真っ直ぐに背を伸ばし、手にした典籍に目を落としたまま、唐煜瑾はいかにも優等生といった態度で一言だけ答えた。
「こちらは、今日から一緒に学ぶ、羽家の小敏兄様ですよ!」
唐煜瑾の反応を物足りなく思い、わざとらしくはしゃぐ申玄紀に一瞥もなく、チラリと小敏に視線を送っただけで、唐煜瑾は言葉少なに言った。
「よろしく」
その端的な一言でさえ、唐煜瑾が高貴な生まれ育ちであることがうかがえた。整った目鼻立ちに、端然とした佇まい。侵し難い気品というようなものがある。
小敏とは同い年だというが、あまりに梁寧侯爵家が高貴過ぎて、あちこちで開催される馬球や詩歌の会など年の近い者たちの集まりで、小敏と唐煜瑾公子は会った覚えが無かった。
「こちらは羽厳将軍家の羽小敏です。本日より私と共にこちらに通わせていただきます」
年上の包文維がそういうと、ようやく唐煜瑾は書物を置き、新入りの顔を正面から見た。
「お世話になります。よろしくお願いします!」
高貴な同級生に嫌われたくなくて、小敏は最上の笑顔を添えて丁寧に頭を下げた。
「この私塾は、兄の梁寧侯爵が、学問の志がある者のために開いたもの。兄の許可を得てここへ来たのなら、私に媚びる必要はない」
高貴な青年は無表情で、冷ややかにそう言った。その冷淡さに、申玄紀のほうがムッとするが、小敏の方はキョトンとしていた。
(高貴な生まれというのは、同い年でもこんなにおとなびているものなのだなあ)
申玄紀や包文維の心配をよそに、小敏は
(ボクもしっかりしないと!)
「何をニヤニヤしている」
小敏の決意の笑顔をどう取ったのか、唐煜瑾が不愉快そうに指摘した。
「申し訳ございません、
慌てて包文維が小敏の手を引き、後ろの席に連れて行こうとした、その時だった。
「お互いの挨拶は済みましたか」
その人物が教室へ入った途端に、空気が変わったように小敏は思った。
不快な感じではない心地よい緊張感があり、包み込まれるような安心感もある。これがあの、科挙の三魁の実力を持つという蘇老師なのだと、すぐに察した。
まだ三十路の青年といった整った風貌だが、その聡明さ、抜きんでた知性は全身から輝くばかりに感じられた。
「蘇老師、おはようございます」
包文維が一番に挨拶をすると、唐煜瑾も素早く立ち上がり、申玄紀も居住いを正した。
「「お早うございます、蘇老師」」
唐家と申家のそれぞれの公子が挨拶をするのに合わせ、小敏も慌てて礼をする。そして、深遠な叡智を感じる蘇老師の目と合うと、ほんの少し緊張しながら挨拶をした。
「初めまして、蘇老師。羽家の羽小敏でございます」
「よく来られました、羽小敏」
だが身を固くした小敏に、先に声を掛けたのは蘇老師ではなく、その後ろから現れた背の高い人物だった。
「これは、梁寧侯爵!おはようございます」
文維の言葉に、これがこの私塾を開いた涼国一の大貴族で、隣にいる唐煜瑾の兄である、梁寧侯爵・
その姿に、小敏は息を呑んだ。
兄弟だけあって、同い年の煜瑾とよく似た面差しの侯爵だったが、その圧倒的な美貌と威厳に、小敏は言葉を失ってしまう。
「小敏…、侯爵にご挨拶を…」
包文維に耳元で囁かれ、慌てて我に返った小敏は、頬を赤らめながら改めて自己紹介をする。
「は、初めておめもじいたします。ボク…いや私は羽厳将軍が一子、羽小敏と申します。この度はこちらの私塾に通うことをお許しいただき、誠にありがとうございます」
未だ皇帝陛下にも拝謁を許されない小敏にとって、梁寧侯爵は今までに会った中で最も身分の高い人物であり、ドキドキとして声もうまく出ない。
そんな小敏を、包文維は心配そうに見ていた。
「そんなに固くならずともよい、羽小敏。君が優秀なのは、包家が保証済み。ここで共に学んでくれれば、煜瑾たちの励みにもなろう」
優しく、穏やかな声で侯爵はそう言って、小敏を安心させるように柔和に微笑んだ。
「先ほどは、羽家より高名な梅汁が届けられた。貴重なものゆえ、感謝していると、父上にも、よろしくお伝えして欲しい」
「承知いたしました」
それだけを言うと、侯爵は弟の顔を見てこの上なく優雅に微笑み、励ますように頷き、続いて蘇老師に会釈をすると、静かに教室を出て行った。
「では、羽小敏。私が今日から君の師となる蘇三涛です。しっかりと学び、分からないことは何でも聞きなさい」
蘇老師の声は落ち着いていて、心に沁みるような良い声だ。この声で講義をされれば、何もかもがスーッと頭の中に入ってしまいそうな、そんな心地よさを小敏は感じた。
「よろしくお願いします!」
新しい友、新しい師、新しい環境で、小敏の期待はいやが上にも高まる。
これから秋の科挙試験まで、一生懸命学ぼうと決意を新たにする小敏だった。