序幕故事(プロローグ)篇

 包文維の父、包伯言は、羽将軍と同じ涼国北部の石蒜せきさんの地に生まれた。やがて科挙に合格し「状元」となり、今では礼部尚書として栄華を誇る。

 その包家の瀟洒な馬車に文維と共に同乗して、羽小敏は私塾を開く梁寧侯爵家を目指していた。

「文維兄上、侯爵家の私塾の老師って、包叔叔おじうえがご推挙されたそうですね」
「ああ。父上も一目置かれるほどの教養人で才子なのだが、お体が弱くて科挙は諦めてしまわれたのだ」

 そもそも科挙とは、皇帝の下で国政に携わる官僚への登用試験である。
 一族から科挙合格者を一人でも出し、士大夫階級となれば、一族にもたらす名誉と利益は莫大なものとなる。
 そのため誰もが科挙合格を目指すのだが、あまりにも苛烈な勉強と、試験の重圧に耐えられず、精神障害や過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺する者もあるほどだ。
 その過酷な試練に耐え得る健康に恵まれないものは、受験することさえ生死にかかわるほどだった。

「けれど、もしも科挙を受けていれば、必ずや三魁さんかいのうちに選ばれるほどの傑物だと父上も惜しまれていた」

 文維は、その時の父の無念そうな顔を思い出した。すでに蘇老師に教えを受ける文維も心が痛む。

「ふ~ん。とても優秀な方なのですね」

 まだ蘇老師の英明さを知らない小敏の無邪気な感想に、思わず文維は微笑んだ。

「そのような方に教えを乞うことができるのだ。しっかり勉学に励むのだぞ」
「分かっていますよ~」

 兄としてきちんと言明した文維に、小敏は素直にニコニコしていた。
 そして急に思い出したように、キラキラとした好奇心いっぱいの瞳で文維を見詰めた。

「他に私塾にはどなたがおられるのですか、兄上?」
「もちろん、梁寧侯爵家の私塾だからな。侯爵の弟君の唐煜瑾とう・いくきんは筆頭にあって、他に安承あんしょう伯爵家の申玄紀しん・げんきも通っている。唐煜瑾はお前と同い年で、申玄紀はお前より一つ下だろう」

 聞き覚えのある名に、羽小敏もハッと嬉し気な顔になる。

「申玄紀公子は、きょう王殿下主催の馬球ばきゅう(ポロ)大会で会ったことがあります。とても上手で同じに組になりたかったのですが、その時は手合わせもなりませんでした」

 その時を思い出すように子供のような無邪気さで遠くを見る小敏に、包文維もまた楽しそうに訊ねた。

「お爺さまの馬球大会というと、去年の?」

 皇帝の弟である恭王は、包文維の母方の祖父にあたる。 

 皇弟の娘である県主と、地方から出てきた科挙の受験生との身分違いの恋は、名を変えて芝居にも掛けられたほど、涼国では良く知られた話である。

 初めは娘の恋煩いを快く思わずにいた恭王だったが、相手の包伯言が状元となったことで名を上げ、礼部の官吏となったところで、ようやく身分違いとは言え県主の降嫁を許したのだった。
 今や礼部尚書となった娘婿に、恭王の不満はない。孫である包文維も時折王府を訪ねるほどの睦まじい仲だ。

「確か、今年も間もなく馬球大会の招待状が届くはずだよ」
「本当ですか!ボクもご招待いただけますか」

 馬球好きの小敏は勢い込んで文維に迫った。

「当たり前だ。私の弟分なのだぞ、お爺さまがお忘れになるはずがあるまい」

「文維兄上のおかげですね!兄上、大好き~」

 皇帝陛下の開催される会を別にすれば、恭王殿下が毎年開催する馬球大会は、涼国最大規模と言われ、日頃手合わせ出来ないような、地方からの参加者もいて、馬球好きの小敏は何より楽しみにしていたのだ。
 嬉し過ぎて、小敏は思わず文維に抱き付いてしまった。

「もう、ふざけるんじゃない~」

 そうやって馬車の中で包文維と羽小敏が、いつものように仲良くじゃれ合っていると、そのうちに、二人の乗った馬車は、大きな門の前に停まった。
 まさに豪邸といった威風堂々とした門構えは、涼国一の大貴族、梁寧侯爵家のものである。

 その時、包家の馬車の外から声が掛かった。

「包文維どのの馬車ですね?」

 それは、隣に並んだ馬車の中からの声だ。その声に覚えがあった文維は、すぐに声を返した。

「ああ、安承伯爵家の申玄紀公子ですね」
「イヤだなあ、そんな他人行儀な。同じ学び舎で学ぶ者同士、ましてや私は年下ですよ」

 侯爵家の門の前で、先に馬車から飛び出して来たのは、申家の公子、玄紀だった。

「お早うございます!」
「お早う、玄紀公子。こちらは羽厳将軍の子息、羽小敏です。今日からこちらの私塾で一緒に学びます。どうぞお見知りおきを」

 馬車から降りた包文維は、身分の高い安承伯爵家の申公子に、礼儀正しく弟分を引き合わせた。

「小敏、こちらは安承伯爵家の…」

 続けて伯爵家の公子を紹介しようとした包文維の言葉を遮ったのは、本人の申玄紀だった。

「初めまして、じゃないですよね。昨年の恭王殿下の馬球の試合でお見受けしました。私は申玄紀です」

 小柄で屈託のない目をした、いかにも元気そうな少年に小敏も笑顔で答える。

「羽小敏です。今日から私塾でお世話になります。仲良くしてください、安承公子」

 年下と言っても、名門伯爵家の貴公子である申玄紀には、武門の家柄である羽小敏は身分が下で、へりくだる立場だ。

「イヤだなあ、私の事は、玄紀と呼んで下さいよ。文維兄上もそう呼んで下さってるんですから」

 そう言って申玄紀は明るくニコニコと笑った。

「ね、私は小敏兄様って呼んでもいいですか?」

 いかにも育ちの良い、率直で感じのいい申玄紀に羽小敏も好感を抱く。

(弟がいたら、こんな感じなのかな)

「ならば、私も玄紀公子と呼ばせていただくね」

 小敏の言葉に、申玄紀は嬉しそうに身を寄せ、腕を組んだ。
 そんな仕草を可愛いと思う小敏だが、学問に必要な物を抱えていた小敏は、荷物を落としそうになり、少し困ってしまう。
 一方で、私塾へ学問に来たと言うのに、玄紀が何も持っていないのが不思議だった。

朱猫しゅびょう、小敏兄様の荷物も持ってよ」

 小敏の様子に気が付くと、申玄紀は自分の従者にそう命じた。

 さすがに伯爵家の公子である申玄紀の後ろには従者がおり、細工のされた立派な持ち手付きの箱を提げていた。おそらくはその中に文字を書く硯や筆、紙、そして書物などが入っているのだろう。

「いいです。自分で持ちます」

 荷物を受け取ろうと手を差し出した朱猫という従者に、小敏は遠慮がちに断った。

「イヤだなあ、兄様と私の間で遠慮なんて不要ですよ」
「でも…、文維兄上もご自分でお持ちだから…」

 困り切った小敏が文維に助けを求めるように視線を送ると、文維の方は面白がっているのかクスクスと笑うと、

「私は先に行くよ」

と、そう言って、一人でスタスタと侯爵家の門を入って行ってしまった。

「あ、待って、文維兄上!」

 慌てて文維を追いかける小敏を、申玄紀も急いで後を追う。

 そうして三人は、朝から楽しそうに、まるで子犬が転がるように絡みながら教室へと向かったのだった。


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好了♡