序幕故事(プロローグ)篇
涼国の名家・羽 将軍家の朝は早い。
皇帝からの信が厚い常勝将軍・羽厳 は、戦地に在ろうとなかろうと日の出と共に目覚め、朝餉 の前に体を鍛え、各地から届く信書に目を通し、返信が必要なものには筆を取る。
だが、今朝は文をしたためる前にすることがあった。
初夏の心地よい朝の空気を楽しみながら、静かな長廊を進む。
そして、息子の部屋の前まで来ると、空咳を一つした。
「……?」
しかし、息子の部屋からは何の気配もない。
今日から息子の羽小敏 は、科挙の合格を目指して梁寧 侯爵家の私塾に通うことになっていた。
「小敏?」
声を掛け、扉に手を掛け室内に入ると、なんとそこは無人であった。
「……」
どうしたものかと、さしもの常勝将軍もぼんやりと部屋の真ん中で立ち尽くしてしまった。
息子の小敏は、羽厳将軍にとっては次男である。
長男の牧 は、父の後を追うように軍人となり将来を嘱望されていたのだが、初めて父と出た戦地で、父を庇うようにして戦死した。
その知らせに、小敏を身ごもっていた妻・包 氏は早産してしまい、自分はまるで長男を追うように息を引き取ってしまったのだ。
家族を失った羽厳将軍は、戦には勝ったが、叩きのめされ、失意のうちに帰宅することになる。
そして、それを迎えたのが、生まれたばかりで、頼るべき母も兄も失った哀れな次男・小敏だった。
ただ泣くことしか出来ない弱々しい存在に、羽厳将軍は自分を取り戻した。
このか弱き者のために、志 半ばで死んだ羽牧や包氏に代わって守り育てるために、自身もまた強く生きねばならないと思ったのだ。
こうして、たった一人残された息子を、羽厳将軍は何よりも愛しく感じた。ために将軍は、長男の羽牧のように軍人には育てず、科挙を受験させ、文官として仕官して欲しいと願っていた。
そのための私塾通いだというのに、初日からいったいどこへ?と訝 しく思っていた、ちょうどその時だった。
「父上?」
庭からの声に、羽厳将軍は部屋を出た。
そこには、十六歳になったばかりの愛息・羽小敏がいた。
色白の小顔はまだ幼いが、母親似であった兄・牧にも、近頃は見まごうこともあるほど成長した。
武官には向かぬ優しい眼差しに、整った目鼻立ちは、この涼国の都・安揺でも噂に高い美童だ。これほどに美しく、優しく、賢く、温厚な息子に育ったことに、羽厳将軍は満足していた。
「朝から何をしておるのだ。今日から梁寧侯爵家の私塾に通うというのに」
それでも、父親としての威厳をもって咎めると、少年らしい明るく快活な笑顔で小敏は答えた。
「今日から私塾へ通わせていただけると思うと、胸がドキドキして眠れませんでした。なので、日の出とともに馬場に参じ、少し騎乗して気を散らして参りました」
軍人にはすまいと誓いを立てた羽厳将軍ではあったが、将軍家の子息として恥じることの無い程度の乗馬は幼い頃から身に着けさせてはいた。
羽小敏は物心つく頃から馬が好きで、さすがに将軍の子だと皆から褒められたものだ。
「朝から乗馬などと…。疲れて講義の途中で居眠りでもしたらどうするつもりか」
からかい半分、心配半分で言う父将軍に、小敏は屈託のない笑いを浮かべる。
「ご心配には及びませんよ、父上。私の近くには包文維 兄上が居るはずです。文維の兄上なら、私を抓 ってでも起こしてくれますよ」
くすくすと笑いながらそう言って小敏は、大好きな父の腕を取った。
包家は、羽小敏の母・包氏の実家であり、その弟・包伯言は羽厳将軍と生まれ故郷を同じくし、知己の仲である。包文維はその伯言の一人息子で、小敏からすれば母方の従兄でもある。
「それより父上、お腹が空きました。ぜひご一緒に朝餉をいただきましょう」
「さようだな。父もお前に言われて空腹だと気付いた。あちらで共に朝餉を食べるとしよう」
そこまで言って、将軍は、はたと気付いた。
「その前に、手と顔を洗って、衣装を改めてまいれ。そんなに馬と汗の匂いをさせて侯爵家に伺う訳には参らぬぞ。老師にも失礼であろう。それに、包家の馬車が匂っては困る…」
「はいはい!分かりました!」
くどくどと口うるさい父将軍から逃げるように、小敏はパッと腕を放すと急いで自室に駆け込んだ。
「『はい』は一度で良い!」
「はい!」
生れた時には早産で未熟児であった弱々しい小敏も、元気で明るい相応の少年に成長していた。そのことに目を細め、将軍は朝餉の仕度がされているであろう自身の居室へと向かった。
皇帝からの信が厚い常勝将軍・
だが、今朝は文をしたためる前にすることがあった。
初夏の心地よい朝の空気を楽しみながら、静かな長廊を進む。
そして、息子の部屋の前まで来ると、空咳を一つした。
「……?」
しかし、息子の部屋からは何の気配もない。
今日から息子の
「小敏?」
声を掛け、扉に手を掛け室内に入ると、なんとそこは無人であった。
「……」
どうしたものかと、さしもの常勝将軍もぼんやりと部屋の真ん中で立ち尽くしてしまった。
息子の小敏は、羽厳将軍にとっては次男である。
長男の
その知らせに、小敏を身ごもっていた妻・
家族を失った羽厳将軍は、戦には勝ったが、叩きのめされ、失意のうちに帰宅することになる。
そして、それを迎えたのが、生まれたばかりで、頼るべき母も兄も失った哀れな次男・小敏だった。
ただ泣くことしか出来ない弱々しい存在に、羽厳将軍は自分を取り戻した。
このか弱き者のために、
こうして、たった一人残された息子を、羽厳将軍は何よりも愛しく感じた。ために将軍は、長男の羽牧のように軍人には育てず、科挙を受験させ、文官として仕官して欲しいと願っていた。
そのための私塾通いだというのに、初日からいったいどこへ?と
「父上?」
庭からの声に、羽厳将軍は部屋を出た。
そこには、十六歳になったばかりの愛息・羽小敏がいた。
色白の小顔はまだ幼いが、母親似であった兄・牧にも、近頃は見まごうこともあるほど成長した。
武官には向かぬ優しい眼差しに、整った目鼻立ちは、この涼国の都・安揺でも噂に高い美童だ。これほどに美しく、優しく、賢く、温厚な息子に育ったことに、羽厳将軍は満足していた。
「朝から何をしておるのだ。今日から梁寧侯爵家の私塾に通うというのに」
それでも、父親としての威厳をもって咎めると、少年らしい明るく快活な笑顔で小敏は答えた。
「今日から私塾へ通わせていただけると思うと、胸がドキドキして眠れませんでした。なので、日の出とともに馬場に参じ、少し騎乗して気を散らして参りました」
軍人にはすまいと誓いを立てた羽厳将軍ではあったが、将軍家の子息として恥じることの無い程度の乗馬は幼い頃から身に着けさせてはいた。
羽小敏は物心つく頃から馬が好きで、さすがに将軍の子だと皆から褒められたものだ。
「朝から乗馬などと…。疲れて講義の途中で居眠りでもしたらどうするつもりか」
からかい半分、心配半分で言う父将軍に、小敏は屈託のない笑いを浮かべる。
「ご心配には及びませんよ、父上。私の近くには
くすくすと笑いながらそう言って小敏は、大好きな父の腕を取った。
包家は、羽小敏の母・包氏の実家であり、その弟・包伯言は羽厳将軍と生まれ故郷を同じくし、知己の仲である。包文維はその伯言の一人息子で、小敏からすれば母方の従兄でもある。
「それより父上、お腹が空きました。ぜひご一緒に朝餉をいただきましょう」
「さようだな。父もお前に言われて空腹だと気付いた。あちらで共に朝餉を食べるとしよう」
そこまで言って、将軍は、はたと気付いた。
「その前に、手と顔を洗って、衣装を改めてまいれ。そんなに馬と汗の匂いをさせて侯爵家に伺う訳には参らぬぞ。老師にも失礼であろう。それに、包家の馬車が匂っては困る…」
「はいはい!分かりました!」
くどくどと口うるさい父将軍から逃げるように、小敏はパッと腕を放すと急いで自室に駆け込んだ。
「『はい』は一度で良い!」
「はい!」
生れた時には早産で未熟児であった弱々しい小敏も、元気で明るい相応の少年に成長していた。そのことに目を細め、将軍は朝餉の仕度がされているであろう自身の居室へと向かった。
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