一起吃面 ~2人でパスタを~

「あ~、しもたっ!」

 自宅である淮海路ワイハイ・ロード服務式公寓サービスアパートメントの狭いキッチンで、冷蔵庫を開けた加瀬志津真かせしづまは、思わず声を上げた。

「どうかしましたか?」

 キッチンのすぐそばのダイニングで、志津真が淹れてくれたアールグレイのミルクティーを優雅に飲んでいた郎威軍ランウェイジュンは、相変わらず淡々とした様子で声を掛ける。

「ごめんな~、今夜は簡単に済まそうって言うてたのに…」

 キッチンからヒョイと顔だけ出して、志津真は最愛の恋人に申し訳なさそうに謝った。

「何か問題でも?」

すぐにキッチンに戻った志津真を追うように、気になった威軍も立ち上がった。

「ご飯炊こうにも、お米が無いねん~」

 キッチンでは、日本製のコシヒカリが入っていたはずの、米櫃こめびつというよりは、ハンディなライスストッカーというのが相応しいケースを抱かかえ、志津真が項垂うなだれている。

「じゃあ、外に食べに行けばいいじゃないですか。私は、ルームサービスでもいいですし」

 なんでもない事のように威軍は笑いながら言った。この服務式公寓がある淮海路周辺は、東京の銀座にも例えられるほどのハイセンスな繁華街で、「新天地」などの観光地も近く、一歩この建物を出れば、いくらでも食事をする場所はあるのだ。

「え~、ルームサービスはイヤや~」

 ホテル直営の服務式公寓サービスアパートメントが便利な所は、まさにホテルと同じサービスが受けられるところだ。ハウスキープのメイドや、軽食のルームサービスなどがホテル同様のサービスとして提供されるのだが、志津真に言わせると、ここはメインダイニングとなるレストランに、さほど力を入れていないホテルが母体であるため、ルームサービスのメニューはとっくに飽きてしまい、余程のことが無い限り利用は避けたいらしい。

「なら、やはり外へ行きますか?それともデリバリーを頼みますか?」
「デリバリーもランチで飽きたしな~。今日は、うちでウェイウェイと2人きりでのんびりしたいのに…」

 ブツブツ言いながら、志津真はキッチンの棚をあさり始めた。
 確かに、それは威軍も同じ気持ちだ。

 いつもならば、金曜の退勤後から、日曜の夕食後までは一緒に過ごすはずなのに、先週と今週は互いにスケジュールが合わなかった。

 先週は、加瀬部長が金曜の朝から会議で大連に行ってしまい、帰って来たのは土曜の午後だった。
 その土曜の午後からイベントのアテンドに指名された郎主任が日曜の夜まで広州へ出張だった。

 今週も、金曜の午後から領事館関係者も参加する会議があり、官僚出身の加瀬部長は会議終了後も、かつての同僚や後輩と食事や日本式の飲み会に連れ回された。
 郎主任も、土曜だというのに朝からクライアントの対応で蘇州経済新区まで日帰りの出張で、帰って来たのはつい先ほどだった。
 部長の許可を得て、蘇州から高鉄(新幹線)で上海駅まで戻ると、職場に寄らなくてもいいことになっていたので、「部長の自宅に」「直帰」できたのだ。

 互いにすれ違いの忙しさから、やっと解放された土曜の夕方に、加瀬部長も郎主任も、人混みを泳ぐような淮海路に出て、長時間レストランに並ぶのは、出来れば遠慮したい。

「あ!エエもんがあった!」
「なんです?」

 威軍が振り返ると、志津真は片手に乾燥パスタ、片手に缶詰を持ってニコニコしていた。

「?」

 不思議そうに見ている威軍に、妙なドヤ顔をして志津真が頷いた。

「今夜は、トマトスパゲティや!」
「…へえ」

 時々、志津真は簡単な手料理を供してくれるが、今回の「トマトスパゲティ」は初めてなので、威軍も反応に困る。

「絶対、ウェイウェイの好きな味やって」
「楽しみにしています。何か手伝いましょうか?」

 これまでも、志津真の手軽な家庭料理はどれも威軍の口に合うものばかりだった。志津真の匙加減で、多少威軍の好みに寄せているのかと思ったが、意外にそうでもないらしく、日本でも同じように作っていたという。

「食の好みが合うカップルは別れへんねん」

 志津真は冗談めかしてそう言っていたが、確かに毎日の積み重ねの中で、食の好みが合わないというのは、互いに忍耐を必要とするだろうと威軍は思った。毎日の事だからこそ、取るに足らない細やかなストレスが、後々取り返しのつかないことになるのだから。

「ほな、ウェイウェイはスパゲッティを茹でてくれ。袋に何分茹でるって書いてあるやろ?」

 そう言って志津真に手渡されたパスタの袋を、威軍はしげしげと観察した。

「9分…ですね」

 威軍が答える頃には、志津真は手早く深鍋を取り出し、たっぷりと水を入れ、コンロの上に乗せていた。

「ん。じゃあ、鍋の水が沸騰したら、塩を入れて、スパゲッティを茹でてな。俺はその間に…」

 言いながら志津真は冷蔵庫に戻り、てきぱきと野菜を取り出した。
 玉ねぎ1個、トマト1個、そして最後にニンニクをオリーブオイルに付け込んだ自家製の瓶を手にして、志津真は流しの前に立った。

「たったこれだけでいいんですか?」

 完成図がイメージできない威軍は、興味深げに覗き込む。

 そんな恋人を横目で見ながら、アンドロイドなどと呼ばれる威軍が、こうやって自分の前だけなら優しい、柔らかい表情を見せるようになった、と、志津真も嬉しくなった。

「そりゃ、レストラン並みの味とはいかんけどな。家で食べる分には十分ウマいって」

 楽しそうに親指を立て、自信満々に笑った志津真が、威軍には眩しいほどに思えて、また年上の恋人に魅了されたと思った。

 すでに志津真は、玉ねぎとトマトをみじん切りに取り掛かっていた。

「あ、ウェイ、手が空いてたら、フライパン出して」
「はい」

 ここからは、まるで本当のレストランの厨房のように忙しくなった。

 威軍が言われたとおりにフライパンを棚から出し、火に掛けると、志津真が温まったフライパンにニンニクを漬け込んでおいたオリーブオイルを大さじ2杯ほど入れ、瓶の中のニンニクも1片取り出した。

「鍋の湯、沸騰して来たか?」

 志津真に言われて、威軍が蓋を取って確認すると、ちょうど鍋の中はグラグラと沸騰していた。

「ん。ほな、この塩入れて、スパゲッティ入れて、この菜箸で混ぜて」

 次々と滑らかに指示を与える志津真だが、その間にも、まな板の上でニンニクを包丁で潰し、フライパンの中の熱せられたオリーブオイルに投入し、香ばしく、食欲をそそる香りを立てていた。

「スパゲッティの茹で時間、頼むで」
「はい」

 言われるがままの威軍は、大人しく従いながら、志津真の手際を観察するのを忘れない。自分も作れるようになっておけば、志津真が食べたい時に代わりに作ることが出来るからだ。

 香りが立ったフライパンに、志津真はみじん切りにした玉ねぎをたっぷりと入れ、木べらで炒め始めた。

「やはり、飴色になるまで炒めるのですか?」

 以前、志津真がオリジナルのカレーを作るのを隣で見ていた威軍は、その時の手順を思い出して訊たずねた。

「いや、そんなんしてたら、スパゲッティが茹で上がるのに間に合わへん」
「え?」

志津真が作るトマトソースは、パスタがゆで上がる9分で出来上がるのだろうか?威軍は信じられずに、志津真の顔を覗き込んでしまった。

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