アンディの恋シリーズ① ~上海の雨傘~

(そうよ、なんのために上海へ出てきたの、楊杏玉!私は変わるんだから!)

 杏玉は自分にそう言い聞かせ、気持ちを奮い立たせると、着ていく服を並べ、張おばさんに貰った、おばさんが若い頃に履いていたという赤い靴を磨き、リップクリームも机の上に並べた。
 おばさんに貰った靴は、赤い色こそ可愛いが、デザイン性の欠片も無い、みっともないような、汚れた杏玉のスニーカーよりはマシと言う程度の靴だった。それでも、おばさんの心遣いが嬉しくて、杏玉は気に入っていた。

 明日の用意を済ませ、ホッとした頃、おばさんが店から戻って来た。

〈おかえりなさい!お夜食に、玉子のスープを作ってあるの〉

 そう言って杏玉が張おばさんを出迎えると、おばさんは疲れた様子ながらも笑顔で応えてくれた。

 息子が出て行ってから、誰かが待つ家に帰ることはなく、寂しい思いをすることも多かった。だが杏玉が来てからは、おばさんの毎日も、店の手伝いと言う意味だけではなく、救われることが増えた。

〈明日は朝一番に店を開けて、それから王妹たちと買い物に出かけるんだろう?先に休みなさいと言ってあったのに〉

 おばさんは杏玉の体調を心配してそう言うが、杏玉は珍しく明るく笑った。

〈平気、平気!私、まだ若いもの〉

 すっかり元気になった杏玉に張おばさんも安心した。

〈おばさんにお世話になっているのに、家賃も払わず、お給料まで貰って、本当に助かってる。これくらい恩返しにさえならないわ〉

 言いながらも杏玉は、安っぽい花柄の白い碗にスープを入れた。
 手を洗って戻ったおばさんと一緒に食卓に着き、杏玉も一緒に温かいスープを口にした。

〈明日は、アンディも一緒なんだって?〉

 おばさんに言われ、思い出したように杏玉は笑顔を消した。

〈うん…〉
〈どうしたの?アンディはいい人だよ?何か気に入らないのかい?〉

 迷っていた杏玉だったが、言いにくそうに口を開き、正直な気持ちを打ち明けた。

〈だって、下着や化粧品や…女性の買物なのに付いて来るなんて…〉
〈おや、あんたの田舎じゃ男の人と買い物に行かないのかい?〉

 迷惑そうな杏玉に、張おばさんはむしろ驚いたようだ。

〈うん、父親とか兄弟とかなら…〉

 それは買い物に付き合うというよりも、若い娘たちに悪い虫が近寄らないようにという配慮の意味合いが強い。
 かつては杏玉の田舎の方では「攫われ婚」というのがあったからだ。これはと思う娘を、若い男たちが自分の村に攫ってしまう。そこで事実上婚姻してしまい、その後で娘の実家に挨拶に行くという非常に野蛮で暴力的な習慣だ。
 だが、これだけだとそう思うのだが、実はすべてが打ち合わせ済みで、いついつ、どこどこへ娘を行かせるから、そこで攫って行くように、と決められており、その際には実家への挨拶には、日本でいう結納のようなものをコレコレ用意すべし、という約束事まで決まっているのが普通だった。
 もちろん今ではこんな習慣はないのだが、それでも若い娘たちは一人で出歩かないものだ、という考えは残っているのだ。

〈おや、まあ、そうなの。都会じゃね、女は男を引き連れて買い物に行くことで「面子」が立つし、男は女に買い物をさせるのが「面子」が立つってものさ〉
〈はあ?〉

 張おばさんの自慢げな解説に、杏玉は耳を疑った。

〈明日はせいぜいアンディにお金を使わせておやり。それがアンディの男としての「面子」を立ててやることになるんだから〉

 むしろ自分の方が楽しそうに張おばさんは言うが、杏玉は不安になるばかりだ。

〈でも!そんなにお金を使わせても、私…返せないから…〉

困った様子の杏玉に、おばさんは呆れたように笑って言った。

〈何を言ってるの。男が女にお金を使うのは当たり前。最近の若い子の間ではそんな考えも古いって言われるようだけど、男に上手にお金を使わせてやるのが女の甲斐性なんだよ。ああ、あの男は女の欲しがるものを買ってやれるだけの器量のある男なんだ~ってみんなに見せびらかせてやらないと〉
〈そ、そういうものなの?〉

 これが都会の習慣なのかと、杏玉は驚くばかりだ。

〈だからって、あまり高すぎるものをねだってはダメだよ。男が安心して気前よく見えるような金額の物をだね、こう、いかにも有り難そうに買わせるの。それであんたは欲しいものが手に入るし、男は喜ぶんだから〉
〈へえ…〉

想像もしていなかった世界に、杏玉はもう言葉も無く聞き入れるばかりだった。

〈でもね、最近はそんな考えは古いって、自分の物は自分で買う、自分の分は自分で払うというのが当たり前らしいけど、それじゃ男の面子はどうなるんだい?男なんてのはね、女が上手にお膳立てしてやらないと、何にもできないのさ。あら、頼りがいのある男。あら、女に優しい男、って見えるように、女が気を使ってやらないとね〉

 おばさんは京劇風の身振り手振りを入れながら、面白おかしく古風な男女論を語ってくれた。
 これまでそんな習慣が無かった杏玉にはピンと来なかったけれども、ドラマなどで観る男の子たちのプレゼント攻勢はあながち作り話ではないらしい。

〈いいかい?明日はアンディに気持ち良くお金を使わせ、面子を立ててやるんだよ。それが女の度量の見せどころなんだから!〉

念を押す張おばさんに、杏玉は曖昧に頷くことしか出来なかった。


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