アンディの恋シリーズ① ~上海の雨傘~

 結局、約束した日の、翌週の木曜日に3人は一緒に出掛けることになった。

〈じゃあ、明日の朝10時に店の前に集合ね〉

 前の日の夜に、王妹からチャットが届いた。
 夕食を終えて店を見に行った張おばさんの代わりに、食器を洗っていた杏玉は、着信に気付いて急いで返信する。

(分かった、っと)

 簡単に返信しておいて、杏玉はホーっとため息を1つ吐く。

〈やっぱり、都会は違うな…〉

 片づけを終えて、杏玉は張おばさんの息子の部屋のドアを開ける。
 今はここが杏玉の部屋だ。

 モノトーンでまとめられた男の子っぽいシンプルな部屋。大学入学前まで、張おばさんの息子はここで多感な青春時代を過ごしていたのだ。

 ベッドに腰を下ろし、杏玉はもう一度ため息を落とす。
 田舎者で世間知らずの自分を受け入れ、友達として構ってくれる王妹は好きだ。だが、そのスピード感に杏玉は少し付いて行けない。グイグイと引っ張ってくれるのはラクではあるけれども、振り回されている気がしないでもない。それが、杏玉には少し疲れるのだ。

 それにアンディの存在も手に余る。あんな出会い方だったのに、ずっと明るく親切に接してくれる。

〈都会にも、いい人はいるんだなあ〉

 そんなことを思いながら、杏玉は懐かしい田園風景を思い浮かべた。

 杏玉の生まれ育った雲南省の村は、ほとんどが米作り農家で、山を這うような美しい棚田が並ぶ。棚田で成長する稲を横目で見ながら、毎日険しい山道を学校に通ったものだ。
 そんな牧歌的な風景の村には、「いい人」しか居ないように思えるが、実態はそうでもない。決して経済的には豊かとは言えない村で、なんとか自分だけはと自利的に人の足を引っ張ることばかり考えている村人も少なくない。
 棚田観光などで少しは潤ったとは言え、まだまだみんな生きることに必死なのだ。
 だから、まず自分のこと。そして余裕があれば他人のことを考える。それが田舎の「親切」のルールだ。それを杏玉も身をもって知っているからこそ、誰かに頼れるとは思ってはいない。ただ、頼れそうなチャンスを逃してはいけないことも、よく分かっている。

 上海で最初に出会った、お金持ちっぽい人がアンディだった。

 お金は、持っている人が出すのが当たり前だと思っている中国人は多い。最近でこそ、割り勘など日本のような公平な支払方法も増えたが、基本的には「面子」のために奢りたがる人は今でも存在する。

 よく日本人を戸惑わせる、市場などでも根強い値切りの文化も、「値段は買う人が決めるモノ」という古い考え方が残っている証拠だ。例え100円のものでも、お金持ちは面子のために1000円出してもいいと思う。それなのに500円で売りますなど、売り手から言い出すのは本来失礼なことだったのだ。

 だから杏玉も、「お金持ち」のアンディなら世話になっても許されると思っていた。裕福なんだから貧しい人間を助けてくれたっていいじゃないかと思っていた。
 けれど、ごく限られた地域しか知らない上海ではあるけれど、アンディは思っているほど富裕層ではないのだと、杏玉は気付いた。
 決して貧困層ではないけれど、アンディ程度のホワイトカラーは、上海にはいくらでもいる。
 杏玉の村一番の金持ちでも、アンディの年収の半分くらいかもしれない。けれど上海ではアンディでも中流クラスなのだ。

 そんなアンディに頼ろうとした自分が、世間知らずで恥ずかしい一方、アンディに迷惑を掛けたような後ろめたさがいつまでも消えないのも確かだ。

(明日、何を着て行けばいいんだろう)

 杏玉は思い付いて、オシャレな都会っ子の王妹に貰った服を並べ始めた。
 下着は、お給料をもらってすぐに、張おばさんのコンビニ売っている、小学生のようにシンプルな綿の白いショーツを3枚購入し、毎日手洗いしては清潔にしている。ブラは王妹のお古を今でも使っているが、杏玉には少しサイズが大きいのだ。

(明日買った服を着て、ホテルのランチビュッフェに行くって言ってたなあ)

 ぼんやり想像するが、実は「ホテルのランチビュッフェ」がどういうものなのか杏玉にはピンと来ていない。もちろん、テレビやネットで言葉は知っているし、見たこともあるが、実際に行くのは初めてだ。

(明日は、下着を買って、服を買って…ランチはアンディが奢ってくれると言ったけど、お金、足りるかなあ)

 心配になった杏玉は、アンディに買ってもらったスマホを取り出した。  
 ずっと持ち歩いていた現金は、すぐにスマホの電子マネーにチャージした。今の上海では電子マネーが無いと何も買えないし、どこにも行けないと言っても過言ではない。特に現金は使えるところが限られる。
 全財産である電子マネーの残高を見て、杏玉はため息をついた。上海の物価は杏玉の想像以上に高い。

(明日は、下着だけしか買えないかも…)

 覚悟を決めた杏玉は、王妹に貰った服の中でもなるべく上等でキレイな服を選び始めた。
 そのうちに、なんとなく気分がウキウキしてくる。女の子はいつでもオシャレをすると気分が上がるのだ。

(あ!そうだ)

 杏玉は思い出して、机の引き出しをソッと開けた。
 
かつては張おばさんの息子の宝物がいっぱい詰まっていたかもしれない勉強机の引き出しに、杏玉はこの前、王妹にもらった「色の付くリップクリーム」と言うのを入れていたのだ。

 なんでも王妹の通う高等中学は、口紅は禁止だがリップクリームなら許可されているらしい。それで友達の間で流行っている3本セットの発色するカワイイリップクリームを買ったのだが、そのうちの1本の色が気に入らないからと、気前よく杏玉にくれたのだ。

 杏玉は壁に掛けた姿見の前で、その唇にのせると明るいピンク色になるリップクリームを塗ってみた。
 色の白い王妹にはオレンジ味の強いこのピンクの唇は似合わないかもしれないが、田舎にいたせいで日に焼けた杏玉には明るく映えた。

(本当に色、着くんだ…)

 まるで、生まれて初めてべにを差した時のように杏玉の気分は高揚した。
 そして、張おばさんの店でバイトをしているとは言え、学生の王妹でも買えるのなら、自分でも買えるようなコスメがあるかもしれない、と杏玉は思った。

(そうよ、なんのために上海へ出てきたの、楊杏玉!私は変わるんだから!)





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