アンディの恋シリーズ① ~上海の雨傘~
「と、言うわけさ」
翌日、職場である桜花企画活動公司 の同僚たちに囲まれて、ランチのデリバリーを待ちながら、アンディ・ユー先輩は柄にもなく愚痴っていた。
「ふ~ん」「ヘエ~」
後輩の百瀬 茉莎実 と石 一海 は、珍しく元気の無いアンディ先輩を心配して、話に聞き入っていた。
「で?アンディって、小児性愛者だったわけ?」
「はあ?なんでそうなるんだよ!」
冷ややかな白 志蘭 の突っ込みに、アンディは飛び上がるほどに驚いた。
「少年?少女?どっちが先輩の好みだったの?」
「えぇっ!なんて事を聞くんだよ、百瀬くん!」
いつもは後輩たちをからかう側のアンディ先輩が、今は完全に皆からイジられている状態だ。
「だって、男の子だと思ったら女の子だった、なんて、出来すぎじゃない?」
白志蘭がニヤリと笑って言った。
「恋愛対象のセクシャリティも不明な謎の男・アンディも、ついに運命の恋を見つける、と」
イケメンでアメリカ国籍を持つアンディは、男女共にモテるはずだが、少なくともこの職場に来てからは恋人の存在はもとより、恋愛の噂すら聞かない。それが同僚たちには不思議で、今回のことは興味深々だった。
「頑張ッテ下サイ、センパイ!」
素直な石一海だけが、アンディの恋を応援するが、アンディにしてみれば、恋愛要素など欠片もないのだ。
「いやいや…、まだ続きがあってね」
残念そうに肩を竦めるアンディに、百瀬と一海が身を乗り出した。
「雲南省から出てきた彼女、少数民族の出身らしくて、ひどく小柄で…。子どもだと思ってたけど、あれで成人女性だったんだよ」
その話に百瀬は大きく頷いて言った。
「ああ、だから先輩の射程範囲外だと」
「なんでやねん!」
いつの間にか職場で身についた関西弁で、アンディは見事に百瀬に突っ込みを入れておいて、それでも昨日の騒動に疲れたのか、ホ~っとため息をついた。
「で、その女の子はどうなったの?」
いつでもクールな白志蘭が、お茶の支度を始めながら聞いた。間もなくランチが届く頃だと気がついたのだ。それを見た百瀬もそれぞれのカップを並べ始めた。
「結局、張おばさんが面倒を見ることになって、今朝は、おばさんのコンビニを手伝ってたよ」
そう言ってアンディは、過労気味の顔をして、テーブルの上で頬杖をつき、上目遣いで(お手伝いしなくてゴメンね)と訴えた。
「住むところも、仕事も見つけて、ラッキーな子じゃない?」
加瀬営業部長からの差し入れである「京番茶」のティバッグを取り出し、志蘭はクスクスと笑った。
「まあ、僕にはもう関係ないから」
「あら、随分と冷たいのね」
あきれて志蘭が言うと、百瀬が茶化すように付け加える。
「そりゃローティーンでも、少年でも無かったわけだし…」
「百瀬くん、しつこい」
営業部の5つの班 のうち、なぜか第5班だけはメンバー全員が気楽で、仲が良かった。友達同士のようにからかい合って、大笑いをしていた時だった。
「ただいま~!牛丼買って来たよ~!」
その時、元気いっぱいの声がした。
営業で出ていた第4班の馬 宏 主任と、金 梨華 姐さんが、営業部各班のオフィス居残りメンバーの分の牛丼を買ってきてくれたのだ。今日は第5班を中心に7名が残っていて、愛妻弁当を持参の馬主任を除いて金姐さんの分と8個の牛丼が会議室のデスクに並べられた。
自分では食べないのに、みんなの差し入れを買わされるのは主任職のつらいところだ。しかも、8個もの牛丼を1人で持たされている馬主任だが、相変わらず物静かに佇んでいた。
「それって南京路の?」
有名な日本の牛丼チェーン店だが、なぜか南京東路の店が一番日本の味に近くて美味しいとの噂だ。仕事で南京東路のホテルに行った馬主任と金姐さんが、ホテルの隣にある店でわざわざ買って来てくれたのだった。
それを聞いて、ぐったりしていたアンディも目を輝かせた。
「私、部長を呼んでくるね~」
百瀬が会議室を出ようとした時には、もう居残り組の第3班の陳 霞 さんと、4班の張 勇 くんを引き連れた加瀬 志津真 部長が立っていた。
「南京東路店の牛丼やって?」
ワクワクした顔で金姐さんが並べる持ち帰り容器を覗き込むと、まるで舌なめずりでもしそうに加瀬部長は言った。
「郎 主任も、好きなんやけどな、コレ」
「主任の出張中、お寂しいですよね」
百瀬がそう言って、加瀬部長専用の渋い信楽焼きのカップを手渡した。
「そやな…って、何を言わせるねん」
笑いながら全員が席に着き、それぞれの仕事の進行状況やプライベートの報告をしながら、楽しいランチが始まった。
「え~!陳霞、ついに婚約したの~!」
志蘭が陳霞さんの左手薬指に輝くエメラルドに気付き、それが陳霞の誕生石だと分かると、百瀬が渋る陳霞の口を割らせた。
「おめでとう!」
みんなは、真面目なキャリアウーマンの陳霞に恋人が居たことすら知らず、いきなりの婚約と聞いて驚いたが、地味で堅実な彼女の幸せを心から祝った。
「やめてよ。みんなに騒がれたくないの」
恥ずかしそうというより、困惑したように言う陳霞に、加瀬部長が不思議そうに訊ねる。
「どうした、陳さん。婚約が決まったばっかりの女性にしては、キラキラしてへんやん」
「部長まで、やめて下さいよ。婚約って言っても、相手のこと、よく知らないんです」
「ええ~!!」「どういうこと!」「何それ!」
冷静な馬主任と加瀬部長はさすがに落ち着いていたが、それ以外のメンバーは大騒ぎになった。
「好きな人と、一緒になるんと違うんか?」
だが、加瀬部長はまるで仕事の時のような真剣な顔になって、俯く陳霞に質問した。本気で部下の将来を心配している証拠だ。
「もう年だからって、親が心配して決めたんです。私は…、特に断る理由もないかと思って」
あんなに動揺していた一同が、急に沈静化した。
上昇志向が強い中国人女性にとって、結婚という制度はそれほど人生において重要ではない。そのせいで晩婚化が進み、男女のバランス上「結婚できない男性」が増えている。
それを心配した親たちが、本人たちをさておいて、親同士が「お見合い」するという現象が、上海などの大都会から始まり、各地でイベントのように開催されるようになった。
結果、相手のことも知らないまま、親が決めた相手と婚約するなどという封建的な事象が現代に復活しているのだ。
また、そんな親の思惑を煩わしく思う都会で働く若者は、「レンタル彼女、彼氏」と共に帰省し、親を牽制するほどだった。
「親同士のお見合いとかで決まったの?」
先輩格で既婚者の金梨華姐さんは、心配そうに聞くが、戸惑いはあっても、陳霞の方にそれほどの深刻さは見られなかった。
「いえ。ウチの父のお知り合いの息子さんで…。イギリスの大学を出て、香港の証券会社で働いていたらしいんですけど、最近、上海の銀行に転職して戻ってきたそうです」
婚約者のことだろうに、まるで他人事のように話すのを、大人の部長や既婚者の馬主任や金姐さんは眉を寄せ、まだ結婚なんて先のことだと思っている他の面々は、きょとんとしている。
「それで、エエんか?」
「え?何がですか?両親も親戚も祝福してくれるし、私の仕事のことも理解してくれたし、結婚相手として間違いは無いと思いますが」
陳霞は、自分に言い聞かせるように、真面目な顔つきでそう言った。
「うん…。陳さんがそれでエエなら、俺も祝福するよ。ただ、後悔だけはしないように」
声優部長と渾名されるだけあって、心に染み入るような優しい、深い声で加瀬部長は言った。
「大事な部下に、傷ついて欲しくないからね」
「ありがとうございます」
穏やかに微笑んで、陳霞は頭を下げた。
なんとなく「大人の事情」というものを目の当たりにしたような気がして、モブの若者たちは黙り込んでしまった。
「さあ、せっかくの牛丼が冷めちゃうわ」
金梨華姐さんの鶴の一声で、みんなは悪夢から覚めたように元気になり、また他愛も無い話に花を咲かせ、ランチの牛丼を美味しく食べたのだった。
翌日、職場である
「ふ~ん」「ヘエ~」
後輩の
「で?アンディって、小児性愛者だったわけ?」
「はあ?なんでそうなるんだよ!」
冷ややかな
「少年?少女?どっちが先輩の好みだったの?」
「えぇっ!なんて事を聞くんだよ、百瀬くん!」
いつもは後輩たちをからかう側のアンディ先輩が、今は完全に皆からイジられている状態だ。
「だって、男の子だと思ったら女の子だった、なんて、出来すぎじゃない?」
白志蘭がニヤリと笑って言った。
「恋愛対象のセクシャリティも不明な謎の男・アンディも、ついに運命の恋を見つける、と」
イケメンでアメリカ国籍を持つアンディは、男女共にモテるはずだが、少なくともこの職場に来てからは恋人の存在はもとより、恋愛の噂すら聞かない。それが同僚たちには不思議で、今回のことは興味深々だった。
「頑張ッテ下サイ、センパイ!」
素直な石一海だけが、アンディの恋を応援するが、アンディにしてみれば、恋愛要素など欠片もないのだ。
「いやいや…、まだ続きがあってね」
残念そうに肩を竦めるアンディに、百瀬と一海が身を乗り出した。
「雲南省から出てきた彼女、少数民族の出身らしくて、ひどく小柄で…。子どもだと思ってたけど、あれで成人女性だったんだよ」
その話に百瀬は大きく頷いて言った。
「ああ、だから先輩の射程範囲外だと」
「なんでやねん!」
いつの間にか職場で身についた関西弁で、アンディは見事に百瀬に突っ込みを入れておいて、それでも昨日の騒動に疲れたのか、ホ~っとため息をついた。
「で、その女の子はどうなったの?」
いつでもクールな白志蘭が、お茶の支度を始めながら聞いた。間もなくランチが届く頃だと気がついたのだ。それを見た百瀬もそれぞれのカップを並べ始めた。
「結局、張おばさんが面倒を見ることになって、今朝は、おばさんのコンビニを手伝ってたよ」
そう言ってアンディは、過労気味の顔をして、テーブルの上で頬杖をつき、上目遣いで(お手伝いしなくてゴメンね)と訴えた。
「住むところも、仕事も見つけて、ラッキーな子じゃない?」
加瀬営業部長からの差し入れである「京番茶」のティバッグを取り出し、志蘭はクスクスと笑った。
「まあ、僕にはもう関係ないから」
「あら、随分と冷たいのね」
あきれて志蘭が言うと、百瀬が茶化すように付け加える。
「そりゃローティーンでも、少年でも無かったわけだし…」
「百瀬くん、しつこい」
営業部の5つの
「ただいま~!牛丼買って来たよ~!」
その時、元気いっぱいの声がした。
営業で出ていた第4班の
自分では食べないのに、みんなの差し入れを買わされるのは主任職のつらいところだ。しかも、8個もの牛丼を1人で持たされている馬主任だが、相変わらず物静かに佇んでいた。
「それって南京路の?」
有名な日本の牛丼チェーン店だが、なぜか南京東路の店が一番日本の味に近くて美味しいとの噂だ。仕事で南京東路のホテルに行った馬主任と金姐さんが、ホテルの隣にある店でわざわざ買って来てくれたのだった。
それを聞いて、ぐったりしていたアンディも目を輝かせた。
「私、部長を呼んでくるね~」
百瀬が会議室を出ようとした時には、もう居残り組の第3班の
「南京東路店の牛丼やって?」
ワクワクした顔で金姐さんが並べる持ち帰り容器を覗き込むと、まるで舌なめずりでもしそうに加瀬部長は言った。
「
「主任の出張中、お寂しいですよね」
百瀬がそう言って、加瀬部長専用の渋い信楽焼きのカップを手渡した。
「そやな…って、何を言わせるねん」
笑いながら全員が席に着き、それぞれの仕事の進行状況やプライベートの報告をしながら、楽しいランチが始まった。
「え~!陳霞、ついに婚約したの~!」
志蘭が陳霞さんの左手薬指に輝くエメラルドに気付き、それが陳霞の誕生石だと分かると、百瀬が渋る陳霞の口を割らせた。
「おめでとう!」
みんなは、真面目なキャリアウーマンの陳霞に恋人が居たことすら知らず、いきなりの婚約と聞いて驚いたが、地味で堅実な彼女の幸せを心から祝った。
「やめてよ。みんなに騒がれたくないの」
恥ずかしそうというより、困惑したように言う陳霞に、加瀬部長が不思議そうに訊ねる。
「どうした、陳さん。婚約が決まったばっかりの女性にしては、キラキラしてへんやん」
「部長まで、やめて下さいよ。婚約って言っても、相手のこと、よく知らないんです」
「ええ~!!」「どういうこと!」「何それ!」
冷静な馬主任と加瀬部長はさすがに落ち着いていたが、それ以外のメンバーは大騒ぎになった。
「好きな人と、一緒になるんと違うんか?」
だが、加瀬部長はまるで仕事の時のような真剣な顔になって、俯く陳霞に質問した。本気で部下の将来を心配している証拠だ。
「もう年だからって、親が心配して決めたんです。私は…、特に断る理由もないかと思って」
あんなに動揺していた一同が、急に沈静化した。
上昇志向が強い中国人女性にとって、結婚という制度はそれほど人生において重要ではない。そのせいで晩婚化が進み、男女のバランス上「結婚できない男性」が増えている。
それを心配した親たちが、本人たちをさておいて、親同士が「お見合い」するという現象が、上海などの大都会から始まり、各地でイベントのように開催されるようになった。
結果、相手のことも知らないまま、親が決めた相手と婚約するなどという封建的な事象が現代に復活しているのだ。
また、そんな親の思惑を煩わしく思う都会で働く若者は、「レンタル彼女、彼氏」と共に帰省し、親を牽制するほどだった。
「親同士のお見合いとかで決まったの?」
先輩格で既婚者の金梨華姐さんは、心配そうに聞くが、戸惑いはあっても、陳霞の方にそれほどの深刻さは見られなかった。
「いえ。ウチの父のお知り合いの息子さんで…。イギリスの大学を出て、香港の証券会社で働いていたらしいんですけど、最近、上海の銀行に転職して戻ってきたそうです」
婚約者のことだろうに、まるで他人事のように話すのを、大人の部長や既婚者の馬主任や金姐さんは眉を寄せ、まだ結婚なんて先のことだと思っている他の面々は、きょとんとしている。
「それで、エエんか?」
「え?何がですか?両親も親戚も祝福してくれるし、私の仕事のことも理解してくれたし、結婚相手として間違いは無いと思いますが」
陳霞は、自分に言い聞かせるように、真面目な顔つきでそう言った。
「うん…。陳さんがそれでエエなら、俺も祝福するよ。ただ、後悔だけはしないように」
声優部長と渾名されるだけあって、心に染み入るような優しい、深い声で加瀬部長は言った。
「大事な部下に、傷ついて欲しくないからね」
「ありがとうございます」
穏やかに微笑んで、陳霞は頭を下げた。
なんとなく「大人の事情」というものを目の当たりにしたような気がして、モブの若者たちは黙り込んでしまった。
「さあ、せっかくの牛丼が冷めちゃうわ」
金梨華姐さんの鶴の一声で、みんなは悪夢から覚めたように元気になり、また他愛も無い話に花を咲かせ、ランチの牛丼を美味しく食べたのだった。