アンディの恋シリーズ① ~上海の雨傘~
張おばさんは1人暮らしで、さほど広いアパートの部屋ではなかったが、余計なものがなく、掃除も行き届いていて、清潔で気持ちのいい部屋だった。
〈さあ、熱いシャワーでも浴びておいで〉
お湯の温度が上がるまで少し待ち、充分だと確かめると、張おばさんは男の子をバスルームに押し込んだ。
〈着替えは?〉
心配そうにアンディが聞くと、張おばさんは、人柄に相応しい大らかで豪快な笑いを添えて、奥の部屋から少し古い、それでもキチンと洗濯してキレイに畳まれた子供服を取り出してきた。
〈これは?〉
〈息子が着ていたものだけど、捨てるのが惜しくてね〉
この世代の人は、文化大革命の後の物の無い苦しい時代に生まれ育っている。
その上1人っ子政策で、何よりも大事な1人息子を手塩にかけて育ててきたことだろう。苦しい生活の中でも、子供にだけは惨めな思いはさせられないと、多少の無理をしても着る物や食べる物にできるだけのことはしたはずだ。そんな苦労をして手に入れた、当時としては上質な物を、思い出と共に捨て難いと思うのは当然だろう。
〈あの子にちょうどいいサイズだね〉
アンディは、余計な事を言わずに、それだけを言って、明るい笑顔で張おばさんの大事な服を受け取った。
〈僕が、渡すね〉
うっすらと涙ぐんでいる気丈な張おばさんが切なくて、アンディは見ないように浴室へと向かった。
浴室ではシャワーの水音が止まっていた。
〈温まったかい?〉
アンディが浴室のカーテンを開けた瞬間、時間が止まったようにシン…となった。
「きゃ~っ!」
ただならぬ悲鳴に、驚いた張おばさんが駆けつけた。
〈どうしたの、アンディ!〉
確かに、それはアンディの上げた悲鳴だった。
浴室から飛び出したアンディは、廊下の壁にすがりつくようにして立っていた。張おばさんの姿を認めると、助けを求めるような目で浴室の中を指差した。
その指先に居たのは、なんとこざっぱりしたボーイッシュな「女の子」だった。
〈見ないでよ!〉
女の子は強気で叫ぶが、胸を隠し、真っ赤になっていた。
〈まあ!女の子だったの〉
確かに驚きは隠せないものの、さすがに張おばさんは現状を理解するのが早かった。
むしろ、思いも寄らぬ形でローティーンのセミヌードを見てしまう事になってしまったアンディは、まだショックから立ち直れない。
〈お、女の子だったなんて…。男の子でなく、女の子…〉
〈そ、そっちが勝手に男だと思ったんでしょ!〉
打ちのめされたアンディと、虚勢を張る少女の顔を見比べていた張おばさんも、とうとう笑い出してしまった。
〈まあまあ、いいじゃないの。困っていたのは確かなんだし、男も女も関係ないよ〉
張おばさんは、困惑する2人の肩をポンポンと叩くと、ギュッと抱き寄せた。
〈さ、食事にしようかね〉
そう言えば、どこかから甘辛い煮込みの匂いがしていた。
「…了…」
女の子が小さく呟いた。
「?」
「我…餓了(お腹、空いた…)」
「!」
気まずそうに言う女の子に、目を見張った張おばさんだったが、すぐにあの、人の良い笑顔を浮かべて大きく頷いた。
〈昨日の残り物だけどね、スペアリブの甘酢煮込みを温めなおしたよ。アスパラガスも茹で上がったし、すぐにトマトと卵を炒めようね。さ、早く服を着ておいで。下着は男物だけど今は我慢して〉
そう言って、張おばさんは女の子の背中を押した。
〈じゃ、じゃあ、僕はこれで…〉
落ち着かないアンディは逃げるように玄関へ向かおうとした。
〈何言ってんのよ、アンディ。あんたも一緒に食べて行きなさいよ〉
〈いや、でも、僕は…、その…〉
なんとなく逆らえない雰囲気の張おばさんに、引きずられるようにアンディは食卓へ連れて行かれた。
しぶしぶ食卓の前まで来たアンディだったが、並んだ料理を見るなり目が輝いた。
(ああ、台南のお婆ちゃんちの御飯みたいだ)
アンディの父はドイツ系のアメリカ人で、大学教授をしている。台湾出身の母親は、18歳で単身アメリカに渡り、20歳で大学入学を果たし、今は図書館司書をしている。
幼い頃、何度か母の両親が住む台南の実家に行ったことがあるが、当時は英語しか話せなかったアンディに、言葉は分からずとも台湾の家庭料理を振舞ったり、小さな自家用車であちこち観光に連れてくれたり、近くに住む弁護士をしている伯父の家族も合流し、従兄弟たちと遊んだのも楽しい思い出だった。
そんな幸せな思い出を彷彿とさせるような、張おばさんの食卓だった。
「糖酢排骨(スペアリブ甘酢煮込み)、白炒芦笋(アスパラガスのスープ炒め)、炒蛋西紅柿(トマトの卵炒め)」
手早く張おばさんが大皿に料理を盛り付けると、アンディは慌てて周囲を見回し、小皿や箸の準備を始めた。
〈アンディ、あんた実家ではちゃんとお母さんの手伝いをしてたね。良く気がついて偉いよ〉
褒められて、アンディは涙が出そうなほど嬉しくなった。
仕事やプライベートでも、なんでも卒なくこなすアンディは褒められることが多い。だが、張おばさんは、アンディの要領の良さだけではなく、その「育ち」を見通したようで、アンディ自身だけでなく両親までも褒められたような気がした。
〈おや、よく似合ってるよ〉
少女が、少年の姿で現われた。気恥ずかしいのか、部屋に入らず、もじもじと廊下に立っている。
〈さあ、お腹が空いているんだろう?食事にしようね〉
張おばさんに促され、それと空腹に抗えない様子で、少女は勧められた席に着いた。
〈ほら、御飯だよ〉
張おばさんに、碗に山盛りにされた白飯を差し出されて、少女はゴクリと喉を鳴らし、素早く碗を受け取ると、その上にトマトの卵炒めを乗せ、一気にかき込んだ。
〈そんなに慌てると、喉に詰まるから…〉
張おばさんの心配をよそに、少女は次々と料理を口に入れる。まさに「貪る」と言った表現が相応しい食べ方だ。
〈さあさあ、うかうかしてると食べる分が無くなるよ。アンディも席に着いて、食べようじゃないか〉
「好(ですね)。いただきます!」
日本式に手を合わせるのは、職場で身についた。
〈日本式だね。アンディは、なんて行儀がいいんだろう。お前も見習いなよ〉
張おばさんが肩に手を乗せてそう言うと、少女は鬱陶しそうにおばさんの手を振り払った。
〈おばさんに、失礼だよ〉
アンディが言うと、少女は睨み付けるが、箸は止まらない。
〈まあまあ、まずは食事を終えて、腹を満たせば話も弾むさ〉
そう言って、張おばさんは、アンディと自分の分の御飯を入れ
た。
「天啊(なんてこった)!真好吃(マジで美味しい)!」
おばさん手作りのスペアリブの甘酢煮込みは、絶妙の甘酢の味付けと、ほろほろと崩れるような肉の柔らかさが、アンディがこれまで食べた中で最高だと思った。
〈何コレ、おばさんってば、プロの料理人なの?〉
驚いたアンディは思わず聞いてしまうが、おばさんは豪快に笑い飛ばした。
〈いやだよ、そんなお世辞を。ただの家庭料理じゃないか。でも気に入ってくれたら嬉しいね。息子の大好物だったから〉
おばさんの大事な息子は、立派に大学も卒業し、政府系の大企業に勤めることが出来たが、今はそのために家族と共に北京で暮らしている。めったに会えない愛息が気がかりで、寂しさを紛らわせようと彼の好物を作ってしまうんだろうとアンディは思った。
急に、自分もアメリカの母親を思い出した。彼女も、アンディが帰国すると必ず好物の自家製のブラウニーを焼いて待っていてくれるのだ。
〈良かったら、今夜はココへ泊まってもいいんだよ〉
おばさんが少女に言った。
〈おばさん!誰とも分からない子と泊めるなんて!〉
アンディは慌てて人のいいおばさんの親切を止めようとするが、おばさんは聞き入れそうにない。
〈あたしの作ったものを、こんなに美味しそうに食べてくれるんだから、悪い子じゃないよ。それにあたしから盗む物なんて無いし。アンディ、あんたを狙うんならまだしもね〉
あっけらかんと張おばさんは言うが、アンディは心の中で絶叫する。
(いや、その子、最初は僕の家へ連れて帰れって言ったんだってば!)
〈さあ、熱いシャワーでも浴びておいで〉
お湯の温度が上がるまで少し待ち、充分だと確かめると、張おばさんは男の子をバスルームに押し込んだ。
〈着替えは?〉
心配そうにアンディが聞くと、張おばさんは、人柄に相応しい大らかで豪快な笑いを添えて、奥の部屋から少し古い、それでもキチンと洗濯してキレイに畳まれた子供服を取り出してきた。
〈これは?〉
〈息子が着ていたものだけど、捨てるのが惜しくてね〉
この世代の人は、文化大革命の後の物の無い苦しい時代に生まれ育っている。
その上1人っ子政策で、何よりも大事な1人息子を手塩にかけて育ててきたことだろう。苦しい生活の中でも、子供にだけは惨めな思いはさせられないと、多少の無理をしても着る物や食べる物にできるだけのことはしたはずだ。そんな苦労をして手に入れた、当時としては上質な物を、思い出と共に捨て難いと思うのは当然だろう。
〈あの子にちょうどいいサイズだね〉
アンディは、余計な事を言わずに、それだけを言って、明るい笑顔で張おばさんの大事な服を受け取った。
〈僕が、渡すね〉
うっすらと涙ぐんでいる気丈な張おばさんが切なくて、アンディは見ないように浴室へと向かった。
浴室ではシャワーの水音が止まっていた。
〈温まったかい?〉
アンディが浴室のカーテンを開けた瞬間、時間が止まったようにシン…となった。
「きゃ~っ!」
ただならぬ悲鳴に、驚いた張おばさんが駆けつけた。
〈どうしたの、アンディ!〉
確かに、それはアンディの上げた悲鳴だった。
浴室から飛び出したアンディは、廊下の壁にすがりつくようにして立っていた。張おばさんの姿を認めると、助けを求めるような目で浴室の中を指差した。
その指先に居たのは、なんとこざっぱりしたボーイッシュな「女の子」だった。
〈見ないでよ!〉
女の子は強気で叫ぶが、胸を隠し、真っ赤になっていた。
〈まあ!女の子だったの〉
確かに驚きは隠せないものの、さすがに張おばさんは現状を理解するのが早かった。
むしろ、思いも寄らぬ形でローティーンのセミヌードを見てしまう事になってしまったアンディは、まだショックから立ち直れない。
〈お、女の子だったなんて…。男の子でなく、女の子…〉
〈そ、そっちが勝手に男だと思ったんでしょ!〉
打ちのめされたアンディと、虚勢を張る少女の顔を見比べていた張おばさんも、とうとう笑い出してしまった。
〈まあまあ、いいじゃないの。困っていたのは確かなんだし、男も女も関係ないよ〉
張おばさんは、困惑する2人の肩をポンポンと叩くと、ギュッと抱き寄せた。
〈さ、食事にしようかね〉
そう言えば、どこかから甘辛い煮込みの匂いがしていた。
「…了…」
女の子が小さく呟いた。
「?」
「我…餓了(お腹、空いた…)」
「!」
気まずそうに言う女の子に、目を見張った張おばさんだったが、すぐにあの、人の良い笑顔を浮かべて大きく頷いた。
〈昨日の残り物だけどね、スペアリブの甘酢煮込みを温めなおしたよ。アスパラガスも茹で上がったし、すぐにトマトと卵を炒めようね。さ、早く服を着ておいで。下着は男物だけど今は我慢して〉
そう言って、張おばさんは女の子の背中を押した。
〈じゃ、じゃあ、僕はこれで…〉
落ち着かないアンディは逃げるように玄関へ向かおうとした。
〈何言ってんのよ、アンディ。あんたも一緒に食べて行きなさいよ〉
〈いや、でも、僕は…、その…〉
なんとなく逆らえない雰囲気の張おばさんに、引きずられるようにアンディは食卓へ連れて行かれた。
しぶしぶ食卓の前まで来たアンディだったが、並んだ料理を見るなり目が輝いた。
(ああ、台南のお婆ちゃんちの御飯みたいだ)
アンディの父はドイツ系のアメリカ人で、大学教授をしている。台湾出身の母親は、18歳で単身アメリカに渡り、20歳で大学入学を果たし、今は図書館司書をしている。
幼い頃、何度か母の両親が住む台南の実家に行ったことがあるが、当時は英語しか話せなかったアンディに、言葉は分からずとも台湾の家庭料理を振舞ったり、小さな自家用車であちこち観光に連れてくれたり、近くに住む弁護士をしている伯父の家族も合流し、従兄弟たちと遊んだのも楽しい思い出だった。
そんな幸せな思い出を彷彿とさせるような、張おばさんの食卓だった。
「糖酢排骨(スペアリブ甘酢煮込み)、白炒芦笋(アスパラガスのスープ炒め)、炒蛋西紅柿(トマトの卵炒め)」
手早く張おばさんが大皿に料理を盛り付けると、アンディは慌てて周囲を見回し、小皿や箸の準備を始めた。
〈アンディ、あんた実家ではちゃんとお母さんの手伝いをしてたね。良く気がついて偉いよ〉
褒められて、アンディは涙が出そうなほど嬉しくなった。
仕事やプライベートでも、なんでも卒なくこなすアンディは褒められることが多い。だが、張おばさんは、アンディの要領の良さだけではなく、その「育ち」を見通したようで、アンディ自身だけでなく両親までも褒められたような気がした。
〈おや、よく似合ってるよ〉
少女が、少年の姿で現われた。気恥ずかしいのか、部屋に入らず、もじもじと廊下に立っている。
〈さあ、お腹が空いているんだろう?食事にしようね〉
張おばさんに促され、それと空腹に抗えない様子で、少女は勧められた席に着いた。
〈ほら、御飯だよ〉
張おばさんに、碗に山盛りにされた白飯を差し出されて、少女はゴクリと喉を鳴らし、素早く碗を受け取ると、その上にトマトの卵炒めを乗せ、一気にかき込んだ。
〈そんなに慌てると、喉に詰まるから…〉
張おばさんの心配をよそに、少女は次々と料理を口に入れる。まさに「貪る」と言った表現が相応しい食べ方だ。
〈さあさあ、うかうかしてると食べる分が無くなるよ。アンディも席に着いて、食べようじゃないか〉
「好(ですね)。いただきます!」
日本式に手を合わせるのは、職場で身についた。
〈日本式だね。アンディは、なんて行儀がいいんだろう。お前も見習いなよ〉
張おばさんが肩に手を乗せてそう言うと、少女は鬱陶しそうにおばさんの手を振り払った。
〈おばさんに、失礼だよ〉
アンディが言うと、少女は睨み付けるが、箸は止まらない。
〈まあまあ、まずは食事を終えて、腹を満たせば話も弾むさ〉
そう言って、張おばさんは、アンディと自分の分の御飯を入れ
た。
「天啊(なんてこった)!真好吃(マジで美味しい)!」
おばさん手作りのスペアリブの甘酢煮込みは、絶妙の甘酢の味付けと、ほろほろと崩れるような肉の柔らかさが、アンディがこれまで食べた中で最高だと思った。
〈何コレ、おばさんってば、プロの料理人なの?〉
驚いたアンディは思わず聞いてしまうが、おばさんは豪快に笑い飛ばした。
〈いやだよ、そんなお世辞を。ただの家庭料理じゃないか。でも気に入ってくれたら嬉しいね。息子の大好物だったから〉
おばさんの大事な息子は、立派に大学も卒業し、政府系の大企業に勤めることが出来たが、今はそのために家族と共に北京で暮らしている。めったに会えない愛息が気がかりで、寂しさを紛らわせようと彼の好物を作ってしまうんだろうとアンディは思った。
急に、自分もアメリカの母親を思い出した。彼女も、アンディが帰国すると必ず好物の自家製のブラウニーを焼いて待っていてくれるのだ。
〈良かったら、今夜はココへ泊まってもいいんだよ〉
おばさんが少女に言った。
〈おばさん!誰とも分からない子と泊めるなんて!〉
アンディは慌てて人のいいおばさんの親切を止めようとするが、おばさんは聞き入れそうにない。
〈あたしの作ったものを、こんなに美味しそうに食べてくれるんだから、悪い子じゃないよ。それにあたしから盗む物なんて無いし。アンディ、あんたを狙うんならまだしもね〉
あっけらかんと張おばさんは言うが、アンディは心の中で絶叫する。
(いや、その子、最初は僕の家へ連れて帰れって言ったんだってば!)