ひと夏の経験
よく眠れないまま迎えた朝、ぐったりした気分で石一海は、重く感じる体を引きずるようにして8時にオフィスに出勤した。すでに昨日のうちに報告と予約の手配は済ませてあるが、PC入力などオフィスでしか処理できない仕事をしに来たのだ。
サクラ・イベントオフィスの定時の出勤時間は10時なので、まだ社内に人は少ないが、誰もいないわけでもない。クライアントに応じて、すでに空港までの送迎に出ている者もいるし、9時からの打ち合わせの資料作りを慌ててコピーしている者もいる。
石一海が所属するチーム、第5班は、まだ誰も出勤していない。おそらくは主任も含めて、今日は全員が定時出勤なのだろう。
一海はというと、9時にペニンシュラへお迎えなので、8時半にオフィスの前で契約しているドライバーさんと待ち合わせている。距離でいえば、浦東のオフィスからペニンシュラホテルまでなら10分程度で行けるのだが、浦東地区から、黄浦江の下を通るトンネルが渋滞するので時間が読めないのだ。
PCに入っているチーム全体のスケジュール表を確認すると、本日の石一海の予定は「9:00~17:00 額田(直)クライアント」と入っている。額田社長の直命のクライアントの対応中という意味だ。
要するに、「アノ人」だ。
昨日のことを思い出して、一海はため息をついた。ぼんやりとしながら、昨日プレゼントされた時計を見る。
思わず、秒針が、動くのを目で追っていた。
~この1分間を、私は忘れない~
昨夜の三条氏の低く官能的な声が耳に残っていた。
~夢で逢おう~
さらりと、そんな罪作りな言葉を残して、昨日は三条氏と別れた。一海は、心の中で思う。
(夢なんて…出てこなかったくせに…)
まるで待ち合わせをすっぽかされた恨み言のようだ。そう。それは恋人との約束のように聞こえる。
だが、一海もよく分かっているはずだ。三条氏はあくまでもクライアントであって、個人的な感情など持ち込んではならないのだ、と。
「おはよ~!」
「!」
出勤してきた百瀬先輩が、パソコンの前に座る一海の背後から唐突に声を掛けた。驚きの余り、声も出ない一海だ。
「あれ~?一海ってば、何、時計見て何してるの~?」
返事の無い一海が不思議で、百瀬がさらにちょっかいを出してきた。そして覗き込んでみて、一海の時計がいつもの物と違うことに気付いたのだ。
「え?新しい腕時計?いつ買ったの?」
目ざとい百瀬に驚いて、一海は思わず腕時計を隠すように手をデスクの下に入れた。
「時計を見詰めてボンヤリってば…、あ、今夜、誰かと待ち合わせ?」
先輩なりに心配してくれているのかもしれないが、その絡み方が今は素直にウザい。
「まさか、その時計を1分間見詰めて、『この1分を忘れない』とか言われた?」
「!」「!!」
まさかのPCのモニター越しの正面から、チームのリーダー格のアンディ先輩が顔を出すとは思わず、一海だけでなく、百瀬もビックリする。
「お、おはよ~ございます、アンディ先輩」
だが、すぐに立ち直ると百瀬は持ち前の愛嬌の良さで、先輩にいつも通りに朝の挨拶をする。
いつもはチーム内のコンビは百瀬&石一海なのだが、一海が社長の直命を受けているため、臨時で百瀬&アンディ・ユー先輩がコンビを組むことになっていた。
この2人も、定時よりも早い仕事が入っているのだろう。そうでなくて、この2人が定時よりも1時間以上早く出勤する理由がない。
「もう、アンディ先輩ってば~、今どきの『欲望の翼』ごっこ!」
意味が分かっている様子の百瀬は、アンディと共にケラケラと笑っているが、アンディの先ほどの指摘に、昨日の三条氏との会話を知られたような気がして、一海はすっかり硬直していた。
「あれ?一海は、『欲望の翼』知らない?『阿飛正傳』って王家衛監督の映画!」
リアクションが薄い一海に、アンディは自分の放ったギャグがちょっと滑ったようにガッカリして、迫った。
「な、ナンの話デスか!『欲望の翼』ッテ?映画ッテ?」
迫られた一海は、とにかく三条氏との会話の気まずさと後ろめたさに焦りまくる。
「え~!知らないの~?」
「ちっ、これだからイマドキの若い者は…」
無知な一海を不満そうに、2人の先輩たちが冷ややかな眼差しで見ていた。
ハッと気づいて一海は時計を見て、慌てた。
「…い、行ッテ来マス…」
言い返すことも出来ずに、待ち合わせの時間に近付いたことで、PCを落とし、一海は複雑な思いのままオフィスを後にした。
だが、その持ち前の元気さが失われた一海の背中に、アンディ先輩がふと気づいたように呟いた。
「っていうか、一海は本当に1分間口説かれたのか?」
アンディ先輩の指摘に、百瀬も気付いてハッとする。
「そうですよ!一海ってば、昨日から、很帥哥(超イケメン)のアテンドしてるんですよ!」
そして、あのオタクの一海がイケメン紳士に口説かれたという言う噂は、その日の午前中にはオフィス中に伝わることとなった。
サクラ・イベントオフィスの定時の出勤時間は10時なので、まだ社内に人は少ないが、誰もいないわけでもない。クライアントに応じて、すでに空港までの送迎に出ている者もいるし、9時からの打ち合わせの資料作りを慌ててコピーしている者もいる。
石一海が所属するチーム、第5班は、まだ誰も出勤していない。おそらくは主任も含めて、今日は全員が定時出勤なのだろう。
一海はというと、9時にペニンシュラへお迎えなので、8時半にオフィスの前で契約しているドライバーさんと待ち合わせている。距離でいえば、浦東のオフィスからペニンシュラホテルまでなら10分程度で行けるのだが、浦東地区から、黄浦江の下を通るトンネルが渋滞するので時間が読めないのだ。
PCに入っているチーム全体のスケジュール表を確認すると、本日の石一海の予定は「9:00~17:00 額田(直)クライアント」と入っている。額田社長の直命のクライアントの対応中という意味だ。
要するに、「アノ人」だ。
昨日のことを思い出して、一海はため息をついた。ぼんやりとしながら、昨日プレゼントされた時計を見る。
思わず、秒針が、動くのを目で追っていた。
~この1分間を、私は忘れない~
昨夜の三条氏の低く官能的な声が耳に残っていた。
~夢で逢おう~
さらりと、そんな罪作りな言葉を残して、昨日は三条氏と別れた。一海は、心の中で思う。
(夢なんて…出てこなかったくせに…)
まるで待ち合わせをすっぽかされた恨み言のようだ。そう。それは恋人との約束のように聞こえる。
だが、一海もよく分かっているはずだ。三条氏はあくまでもクライアントであって、個人的な感情など持ち込んではならないのだ、と。
「おはよ~!」
「!」
出勤してきた百瀬先輩が、パソコンの前に座る一海の背後から唐突に声を掛けた。驚きの余り、声も出ない一海だ。
「あれ~?一海ってば、何、時計見て何してるの~?」
返事の無い一海が不思議で、百瀬がさらにちょっかいを出してきた。そして覗き込んでみて、一海の時計がいつもの物と違うことに気付いたのだ。
「え?新しい腕時計?いつ買ったの?」
目ざとい百瀬に驚いて、一海は思わず腕時計を隠すように手をデスクの下に入れた。
「時計を見詰めてボンヤリってば…、あ、今夜、誰かと待ち合わせ?」
先輩なりに心配してくれているのかもしれないが、その絡み方が今は素直にウザい。
「まさか、その時計を1分間見詰めて、『この1分を忘れない』とか言われた?」
「!」「!!」
まさかのPCのモニター越しの正面から、チームのリーダー格のアンディ先輩が顔を出すとは思わず、一海だけでなく、百瀬もビックリする。
「お、おはよ~ございます、アンディ先輩」
だが、すぐに立ち直ると百瀬は持ち前の愛嬌の良さで、先輩にいつも通りに朝の挨拶をする。
いつもはチーム内のコンビは百瀬&石一海なのだが、一海が社長の直命を受けているため、臨時で百瀬&アンディ・ユー先輩がコンビを組むことになっていた。
この2人も、定時よりも早い仕事が入っているのだろう。そうでなくて、この2人が定時よりも1時間以上早く出勤する理由がない。
「もう、アンディ先輩ってば~、今どきの『欲望の翼』ごっこ!」
意味が分かっている様子の百瀬は、アンディと共にケラケラと笑っているが、アンディの先ほどの指摘に、昨日の三条氏との会話を知られたような気がして、一海はすっかり硬直していた。
「あれ?一海は、『欲望の翼』知らない?『阿飛正傳』って王家衛監督の映画!」
リアクションが薄い一海に、アンディは自分の放ったギャグがちょっと滑ったようにガッカリして、迫った。
「な、ナンの話デスか!『欲望の翼』ッテ?映画ッテ?」
迫られた一海は、とにかく三条氏との会話の気まずさと後ろめたさに焦りまくる。
「え~!知らないの~?」
「ちっ、これだからイマドキの若い者は…」
無知な一海を不満そうに、2人の先輩たちが冷ややかな眼差しで見ていた。
ハッと気づいて一海は時計を見て、慌てた。
「…い、行ッテ来マス…」
言い返すことも出来ずに、待ち合わせの時間に近付いたことで、PCを落とし、一海は複雑な思いのままオフィスを後にした。
だが、その持ち前の元気さが失われた一海の背中に、アンディ先輩がふと気づいたように呟いた。
「っていうか、一海は本当に1分間口説かれたのか?」
アンディ先輩の指摘に、百瀬も気付いてハッとする。
「そうですよ!一海ってば、昨日から、很帥哥(超イケメン)のアテンドしてるんですよ!」
そして、あのオタクの一海がイケメン紳士に口説かれたという言う噂は、その日の午前中にはオフィス中に伝わることとなった。