ひと夏の経験
三条氏と石一海は、和平飯店の前を通り過ぎ、このクラシカルホテルの建築学的な美しさや、歴史に伴うエピソードなどを語り合いながら、有名な観光地である南京東路の歩行者天国を目指した。
「え?これって…」
途中、日本人に馴染みのあるロゴとよく似た赤い看板の雑貨店が、人で混雑していた。それを初めて見た三条氏が明らかに戸惑っている。そんなありがちな日本人の反応に、一海は必死で笑いを噛み殺していた。
「これって、100円ショップ?」
「ちょっと違いマス」
一海の答えに、モヤモヤした様子で、三条氏は店内の様子と、日本語のカタカナで書かれた看板を見比べていた。
「…いわゆる、あれかな、その…」
上品な三条氏は、その言葉を口にするのも躊躇するようだった。
「エエ。いわゆる『パッチモン』デス」
おかしくて仕方が無いという無邪気な笑顔で、一海は三条氏の「モヤモヤ」を口にした。
「一応、日本のアレとかアレとかに似てマスが、コレはコレで中国では商標登録されてマス」
クスクスと笑いが止まらぬ一海を、しばらくは呆れたように見ていた三条氏だったが、ようやくその意味を理解して、同じように楽し気に笑い出した。
そうして2人は「ダイソー」と「無印良品」にソックリな「メイソウ」ショップを後にした。
「あ、デモ、コチラの大丸百貨店は本物デスよ」
取ってつけたように隣の大きなビルを指さした。
「大丸?日本の?」
「ハイ」
ニコニコしながら一海は指をさした。確かに、河南中路側の正面入り口には「上海新世界大丸百貨」と堂々と表記している。
「間違いナク、日本の大丸ブランドですヨ」
取り締まりが厳しくなったとはいえ、フェイク商品が横行する上海で、日系デパートのブランドは絶大な信頼がある。日系デパート内で買った物ならば、偽物のはずはない。富裕層が増えてきた上海では、今や偽物を買うよりも、日系デパートで本物を買うのがステータスなのだ。
「マダマダ、買い物客ヨリ、見学ノ方ガ多いデスが…」
ちょっと恥ずかしそうに一海は言った。確かに高額な本物の商品を購入できる富裕層は増えたが、それよりも収入が低い上海人の方が圧倒的に多い。購入にまで至らないが、いつかは手が届く、そんな希望が今の上海には溢れている。いつかは購入するために、日系のデパートに立ち寄っては商品を吟味するのが、上海のデートのトレンドであり、家族の娯楽の1つであった。
「見学?」
「ウ~ン、デートとか?」
一海の説明に、三条氏はニヤリとした。
「なら、私たちも『見学』しようか」
三条氏は積極的に店内に入った。一海も慌てて後を追いかける。
「すごいね」
明るく広々とした吹き抜けのフロアに迎えられ、三条氏は一目見るなり称賛した。
「アノ螺旋状エスカレーターが人気デス」
確かに、螺旋状に回りながら昇降するエスカレーターに客が集中していた。
だが、今日はまだ客は少なく、オープン当初などはエスカレーターに乗るための行列ができ、人がギッシリと乗りすぎてエスカレーターが停止するハプニングもあった。それを思えば、せいぜい週末の日本のデパートくらいの混雑で、上海の週末の夕方だと思えば、空いている方かもしれない。
「私たちも、乗ってみようか」
まるで遊園地のアトラクションに誘うように、三条氏は楽しそうに言った。それを拒む一海ではない。
エスカレーターの上からフロアを見下ろし、あんなショップがある、こんなショップもあると、一海は得意げに説明した。それをいちいち興味深げに三条氏も聞いていた。
「やはり、日本のブランドも多いね」
三条氏は、日本の有名な腕時計メーカーの前で立ち止った。
「そうデスね。日本ノ物ハ、日系デパートで買うノガ人気デス」
ふと三条氏は一海の手元を見て、何かを思いついたように、ふっと口元を緩ませた。
「May I see this?(これ、見せて)」
三条氏は、本当に日本のデパートのように張り付いた笑顔の店員に、ショーケースの中を指さして言った。
「This one?(こちらですか?)」
日系デパートとは言え、日本語が通じるわけでは無いが、英語ならかなりの確率で通じる。これは上海の地元系デパートでも言えることだが、英語を話す店員は、日本よりもはるかに多い。
「おいで」
ショーケースから出された商品を前にして、三条氏は一海を隣に招いた。
「G-Shockですね!」
日本製の、全世界の若者に人気の高性能腕時計を前に、一海も目を輝かせた。
「カッコイイですネ!」
素直にそう言ったが、一海はちょっと引っかかった。
日本を代表するメーカーであるCasioのG-Shockと言えば、アクティブな活動に相応しい、タフで、高機能な最新のメカニズムが魅力だ。
だが三条氏が選んだのは、針が動くアナログ表示の物で、緻密なデザインのデジタルタイプでは無かった。アナログタイプも、プロっぽくて悪くはないのだが、今使っている自国製腕時計の安いデジタル表示が気に入っている一海は、日本製の高級ブランドでもデジタル表示が好きだった。
「This is recommended, too(こちらもオススメです)」
一海の反応に気付いたのか、店員は似たデザインのデジタルタイプと、アナログとデジタルの両方が付いたタイプを出して並べた。
「いや、これがいいな」
三条氏は、最初のアナログタイプを手に取った。
そんな三条氏に、一海は不思議に思った。
(三条さまにすれば、こんな子供っぽい腕時計が必要かな?それに、絶対に日本で買った方が安いのに…)
「イーハイ?」
いつの間にか、三条氏は石一海のことを自然と下の名前で呼ぶようになっていた。
「ハイ?」
何も言わずに、三条氏は一海の左手首を優しく取り上げ、安いデジタル腕時計を外し、気に入ったらしいG-Shockを一海の腕に着けた。
「え?えぇっ!」
訳が分からず、為されるがままだった一海だったが、自分の時計が交換されると、さすがに驚いた。
「似合うよ」
黒の文字盤に、中国らしいゴールドの縁取りが良く目立つデザインで、さすがにG-Shockらしく若い一海には相応しいスマート感だった。
「アノ、コレ、ボ、ボクに?」
慌てて問いながら、一海はちらりと値札を見た。
「!ダ、ダメです!コンナ、高いモノ!」
同じ物を日本で買えるのかは知らないが、おおよそ日本よりは3割増しほどの値段と言われている価格に、一海はもはや恐怖さえ感じた。
「ちょっとした、お礼だよ」
そう言った時には、すでに三条氏は店員にカードを差し出していた。
「イケマセン、三条サマ!」
生真面目で、正直な一海には、初めて会ったクライアントに、このような高価なものを買い与えられる理由が分からなかった。
「難しく、考えないでいい。私たちが出会った記念だよ。私の気持ちだ。受け取って欲しい」
支払いを済ませ、カードを財布にしまうと、三条氏は店員に、一海がこのまま時計を着けていくと告げ、空いたケースにそれまで一海が付けていた時計をしまうように頼んだ。店員は丁寧に一海の手首にある時計からタグを外し、前の時計を包んで手提げ袋に入れて手渡した。
「ボク…コンナ…。ドウお礼をしたらイイのか…」
驚きすぎて、しどろもどろになった一海を、温かい眼差しで見つめながら、三条氏は優しく答えた。
「負担に感じないで欲しいな。本当に、私の気持ちなんだ。君に、これを着けて欲しいってね。お礼なら、『ありがとう』って言って欲しい」
さらりとそう言って、三条氏は僅かな嫌味っぽさもなく、日本人離れしたチャーミングなウィンクを1つ一海に送った。
「…ありがとうございました!」
腹を括った一海は、素直に三条氏に心を込めて謝礼を言った。もし、このプレゼントを受け取ったことが上司にバレて、叱られることになっても、その時にちゃんと謝って返却すればいいと決心したのだ。
吹っ切った一海は、それから後も三条氏と楽しくウィンドウショッピングを楽しんだ。
「そろそろ、レストランに行きましょう」
新しいG-Shockで時間を確かめ、一海は三条氏に告げた。三条氏は微笑んで頷き、2人は大丸を出て、交差点を渡り、九江路へ向かった。
「え?これって…」
途中、日本人に馴染みのあるロゴとよく似た赤い看板の雑貨店が、人で混雑していた。それを初めて見た三条氏が明らかに戸惑っている。そんなありがちな日本人の反応に、一海は必死で笑いを噛み殺していた。
「これって、100円ショップ?」
「ちょっと違いマス」
一海の答えに、モヤモヤした様子で、三条氏は店内の様子と、日本語のカタカナで書かれた看板を見比べていた。
「…いわゆる、あれかな、その…」
上品な三条氏は、その言葉を口にするのも躊躇するようだった。
「エエ。いわゆる『パッチモン』デス」
おかしくて仕方が無いという無邪気な笑顔で、一海は三条氏の「モヤモヤ」を口にした。
「一応、日本のアレとかアレとかに似てマスが、コレはコレで中国では商標登録されてマス」
クスクスと笑いが止まらぬ一海を、しばらくは呆れたように見ていた三条氏だったが、ようやくその意味を理解して、同じように楽し気に笑い出した。
そうして2人は「ダイソー」と「無印良品」にソックリな「メイソウ」ショップを後にした。
「あ、デモ、コチラの大丸百貨店は本物デスよ」
取ってつけたように隣の大きなビルを指さした。
「大丸?日本の?」
「ハイ」
ニコニコしながら一海は指をさした。確かに、河南中路側の正面入り口には「上海新世界大丸百貨」と堂々と表記している。
「間違いナク、日本の大丸ブランドですヨ」
取り締まりが厳しくなったとはいえ、フェイク商品が横行する上海で、日系デパートのブランドは絶大な信頼がある。日系デパート内で買った物ならば、偽物のはずはない。富裕層が増えてきた上海では、今や偽物を買うよりも、日系デパートで本物を買うのがステータスなのだ。
「マダマダ、買い物客ヨリ、見学ノ方ガ多いデスが…」
ちょっと恥ずかしそうに一海は言った。確かに高額な本物の商品を購入できる富裕層は増えたが、それよりも収入が低い上海人の方が圧倒的に多い。購入にまで至らないが、いつかは手が届く、そんな希望が今の上海には溢れている。いつかは購入するために、日系のデパートに立ち寄っては商品を吟味するのが、上海のデートのトレンドであり、家族の娯楽の1つであった。
「見学?」
「ウ~ン、デートとか?」
一海の説明に、三条氏はニヤリとした。
「なら、私たちも『見学』しようか」
三条氏は積極的に店内に入った。一海も慌てて後を追いかける。
「すごいね」
明るく広々とした吹き抜けのフロアに迎えられ、三条氏は一目見るなり称賛した。
「アノ螺旋状エスカレーターが人気デス」
確かに、螺旋状に回りながら昇降するエスカレーターに客が集中していた。
だが、今日はまだ客は少なく、オープン当初などはエスカレーターに乗るための行列ができ、人がギッシリと乗りすぎてエスカレーターが停止するハプニングもあった。それを思えば、せいぜい週末の日本のデパートくらいの混雑で、上海の週末の夕方だと思えば、空いている方かもしれない。
「私たちも、乗ってみようか」
まるで遊園地のアトラクションに誘うように、三条氏は楽しそうに言った。それを拒む一海ではない。
エスカレーターの上からフロアを見下ろし、あんなショップがある、こんなショップもあると、一海は得意げに説明した。それをいちいち興味深げに三条氏も聞いていた。
「やはり、日本のブランドも多いね」
三条氏は、日本の有名な腕時計メーカーの前で立ち止った。
「そうデスね。日本ノ物ハ、日系デパートで買うノガ人気デス」
ふと三条氏は一海の手元を見て、何かを思いついたように、ふっと口元を緩ませた。
「May I see this?(これ、見せて)」
三条氏は、本当に日本のデパートのように張り付いた笑顔の店員に、ショーケースの中を指さして言った。
「This one?(こちらですか?)」
日系デパートとは言え、日本語が通じるわけでは無いが、英語ならかなりの確率で通じる。これは上海の地元系デパートでも言えることだが、英語を話す店員は、日本よりもはるかに多い。
「おいで」
ショーケースから出された商品を前にして、三条氏は一海を隣に招いた。
「G-Shockですね!」
日本製の、全世界の若者に人気の高性能腕時計を前に、一海も目を輝かせた。
「カッコイイですネ!」
素直にそう言ったが、一海はちょっと引っかかった。
日本を代表するメーカーであるCasioのG-Shockと言えば、アクティブな活動に相応しい、タフで、高機能な最新のメカニズムが魅力だ。
だが三条氏が選んだのは、針が動くアナログ表示の物で、緻密なデザインのデジタルタイプでは無かった。アナログタイプも、プロっぽくて悪くはないのだが、今使っている自国製腕時計の安いデジタル表示が気に入っている一海は、日本製の高級ブランドでもデジタル表示が好きだった。
「This is recommended, too(こちらもオススメです)」
一海の反応に気付いたのか、店員は似たデザインのデジタルタイプと、アナログとデジタルの両方が付いたタイプを出して並べた。
「いや、これがいいな」
三条氏は、最初のアナログタイプを手に取った。
そんな三条氏に、一海は不思議に思った。
(三条さまにすれば、こんな子供っぽい腕時計が必要かな?それに、絶対に日本で買った方が安いのに…)
「イーハイ?」
いつの間にか、三条氏は石一海のことを自然と下の名前で呼ぶようになっていた。
「ハイ?」
何も言わずに、三条氏は一海の左手首を優しく取り上げ、安いデジタル腕時計を外し、気に入ったらしいG-Shockを一海の腕に着けた。
「え?えぇっ!」
訳が分からず、為されるがままだった一海だったが、自分の時計が交換されると、さすがに驚いた。
「似合うよ」
黒の文字盤に、中国らしいゴールドの縁取りが良く目立つデザインで、さすがにG-Shockらしく若い一海には相応しいスマート感だった。
「アノ、コレ、ボ、ボクに?」
慌てて問いながら、一海はちらりと値札を見た。
「!ダ、ダメです!コンナ、高いモノ!」
同じ物を日本で買えるのかは知らないが、おおよそ日本よりは3割増しほどの値段と言われている価格に、一海はもはや恐怖さえ感じた。
「ちょっとした、お礼だよ」
そう言った時には、すでに三条氏は店員にカードを差し出していた。
「イケマセン、三条サマ!」
生真面目で、正直な一海には、初めて会ったクライアントに、このような高価なものを買い与えられる理由が分からなかった。
「難しく、考えないでいい。私たちが出会った記念だよ。私の気持ちだ。受け取って欲しい」
支払いを済ませ、カードを財布にしまうと、三条氏は店員に、一海がこのまま時計を着けていくと告げ、空いたケースにそれまで一海が付けていた時計をしまうように頼んだ。店員は丁寧に一海の手首にある時計からタグを外し、前の時計を包んで手提げ袋に入れて手渡した。
「ボク…コンナ…。ドウお礼をしたらイイのか…」
驚きすぎて、しどろもどろになった一海を、温かい眼差しで見つめながら、三条氏は優しく答えた。
「負担に感じないで欲しいな。本当に、私の気持ちなんだ。君に、これを着けて欲しいってね。お礼なら、『ありがとう』って言って欲しい」
さらりとそう言って、三条氏は僅かな嫌味っぽさもなく、日本人離れしたチャーミングなウィンクを1つ一海に送った。
「…ありがとうございました!」
腹を括った一海は、素直に三条氏に心を込めて謝礼を言った。もし、このプレゼントを受け取ったことが上司にバレて、叱られることになっても、その時にちゃんと謝って返却すればいいと決心したのだ。
吹っ切った一海は、それから後も三条氏と楽しくウィンドウショッピングを楽しんだ。
「そろそろ、レストランに行きましょう」
新しいG-Shockで時間を確かめ、一海は三条氏に告げた。三条氏は微笑んで頷き、2人は大丸を出て、交差点を渡り、九江路へ向かった。