ひと夏の経験
ようやく会場内で額田社長を見つけた石一海は、来客を告げたが、名前を聞くのを忘れていたことを指摘され、また落ち込むことになった。
仕方なく社長を先導して、来客のもとへ案内した。
「お待たせシマシタ」
石一海が先ほどの紳士の前まで来ると、後ろにいた額田社長が声を上げた。
「やだ~!三条さん!」
社長は、さも嬉しそうに紳士に近づくと手を差し出し、紳士の手を両手で握って親し気に振舞った。
「こんな所にお越しになるなんて、驚きましたわ」
満面の笑みの社長に、石一海は取り残されてしまい、身の置き所に困って、そのままその場に立ち尽くしていた。
「ちょうどヨーロッパから帰国途中、上海でトランジットすることになって。どうせなら、貴女にご挨拶して上海を楽しんでから日本に戻ろうかと思ってね」
紳士は、額田社長より幾つか年上に見えた。50代だろうが、背が高く、逞しい体躯で、姿勢が良く、スマートな身のこなしなど若々しく見える。高級なスーツからだけでなく、額田社長のご機嫌の良さからしても、相当なお金持ちだと分かる。だが、これまでクライアントとして見たことも無い男性だ。
(社長の元カレ?)
石一海が、暇そうに気楽にそんなことを考えている間に、社長と紳士の間では話が進んでいた。
「そういうことでしたら…」
言いながら、額田社長は周囲を見回した。その時またもタイミングよく、会場から色とりどりのデザートが載ったお皿を手にした百瀬茉莎実が現れた。
「ああ!ちょうどいいわ、百瀬さん」
「あ、社長?」
呼ばれて、素直に近づいてきた百瀬だったが、社長の前にいる魅力的な紳士に気が付いて、ポッと頬を染めた。
「なんですか、社長~」
お皿いっぱいのスイーツと同じくらいに、女性をときめかせる紳士を前に、誰が見ても分かるほど、額田社長も百瀬先輩もご機嫌が良かった。
(これくらいにカッコいいオジサンなら、みんなホレちゃうよね)
話から取り残されていた一海だったが、社長と先輩の緩んだ表情に、独り納得していた。とにかく、圧倒的なカリスマ性というか、他人の気持ちを惹きつける魅力に溢れた紳士だった。
(ボクだって、ステキだと思うもんな)
一海がそんなことを考えていると、百瀬が歓声をあげた。
「喜んで!」
「助かるわ。百瀬さんなら、安心して三条さんをお任せできるし」
どうやら、社長は百瀬先輩に紳士のアテンドを命じたようだ。
(いいなあ~。百瀬先輩なら日本人クライアントに外れ無しのレストランをいっぱい知ってるし、仕事なら少々高いお店でも行けるよな~)
ついさっき、経験が足りないと言われた一海は、百瀬の持つ「日本人好み」の情報が羨ましくてならない。
その時だった。
「できれば、彼にお願いしたいな」
急に紳士が振り返って一海と目が合った。
「え?え、ええ…」
明らかに社長も先輩も戸惑いを隠せない。第一、石一海自身も何の話か分からずにきょとんとしていた。
「私が、若い女性と2人でウロウロしているのも、体裁が悪いしね」
ユーモアあふれた上品な笑顔で紳士がそう言うと、その場に居た全員を丸め込んでしまう。
「た、確かに…」
がっかりしつつも、認めざるを得ない説得力に、百瀬は苦笑いを浮かべる。仕事とはいえ、超高級な紳士とのデートのチャンスを失ったのは残念なことだろう。
「は?あ、あの?ボクが何カ…?」
ぼんやりしていたせいで、話に追いつけなくなった一海は、きょろきょろと周囲の顔色を伺う。
「こちら、三条哲臣さん。私の古いお知り合いで、2、3日上海でゆっくりされたいんですって。そのアテンド役に、ぜひシーくんを、って」
要領よく額田社長に説明されて、石一海はすぐに事情は呑み込むが、次の壁にぶつかってしまう。
「観光ガイドってコトですカ?」
オフィスのクライアントは、ビジネスでの訪中が目的で、ビジネス用語の通訳は難しいのだが、アテンド内容はそれほど複雑ではない。第一、間違いが無いように、必ず2人1組で対応するため、食事や、空き時間の簡単な観光などの手配は、たいていペアの百瀬先輩に任せてある。観光だけのアテンドを一海1人で担当するのは初めてだった。
それゆえに、自信がない。不安そうに、クライアントの顔を見ると、三条と言う名の紳士は、動じることなく柔らかな笑みを浮かべて一海を見つめ返した。
「私は、そう手のかかるゲストじゃないと思うよ。リラックスして付き合ってもらえると嬉しいな」
そんな風にクライアントサイドから親切な態度に出られて、今さら断れるはずも無かった。
「没関係(大丈夫よ)。我幇助(私がフォローするって)」
不安そうな一海に、こっそりと百瀬が耳元で中国語で囁いた。
「謝(どうも)…」
頼りない一海の返事に、百瀬がちょんと肘で突いた。
「あ、ハイ!社長、お引き受けしマス」
そう言うと、石一海は社長と三条氏にぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、三条さん。こちら、うちの石一海くん。期待のエースなんだから、イジメないでくださいね」
そういうと、額田社長は、ポンポンと三条氏の肩を叩いて、パーティー会場に戻ろうとした。
「あ、シーくん、何か困ったら、いつでも連絡していいのよ。それと、三条さん、滞在中一度は一緒にお食事でも」
サバサバとそれだけを言って、ニッコリと手を振りながら社長は会場へと消えて行った。
「相変わらず、あっさりしているね、額田さんは」
苦笑する三条氏もまた、ちょっと甘い表情になって魅力的だ。
「あの…。失礼ですけど、社長とは…?」
好奇心を隠さずに、百瀬が訊ねる。そんな不躾な問いにも、不快な様子も見せずに三条氏はにこやかに答えた。
「彼女は、大学時代の後輩なんだ。所属ゼミが同じでね」
屈託なく返事をする三条氏の大人の余裕に、ひそかに一海は感心していた。
「へえ~」
百瀬の好奇心は満たされたように見えないが、さすがに三条氏がそれ以上言葉を続けない以上、その先の質問を求めるわけにはいかない雰囲気だった。
「ごめんね。せっかく君が案内をしてくれるって言ってくれたのに」
優しい声で三条氏が謝罪すると、百瀬は慌てて両手を振って否定した。
「とんでもないです!三条さまのようにステキな方に、私のようなものでは隣にいても不釣り合いですし。誤解されるようなことになってもいけませんから」
確かに、日本人でありながら中国人に間違えられることもある百瀬が、明らかに富裕層の外国人紳士である三条氏と一緒にいることで、姑娘(クーニャン)(隠語で若い接客業の女性)との不倫やハニートラップなどの疑惑を抱かれないとも限らない。
そんな三条氏の賢明さに、一海はちょっと引っかかる。それほど中国の情勢に詳しいなら、本当に観光ガイドが必要なのか?と。
「では、三条さま。よろしければ、あちらで石一海と今後の予定の打ち合わせなど、いかがですか?」
パーティー会場前のロビーから、少し離れた場所にソファーセットがあった。そこにうまく百瀬に誘導され、三条氏と一海は向かい合わせに座った。
「お飲み物は?」
自分の手には、まだしっかりとデザートの盛り合わせが載ったお皿を持ったまま、百瀬が営業スマイルで訊ねた。
「では、コーヒーを。デザートは、不要で」
「あはは…」
ユーモアたっぷりの三条氏の返答に、百瀬も笑うしかなかった。これが皮肉にならずに笑いを誘うのも、三条氏のイケメン度と大人の余裕に他ならない、と一海は尊敬に近い念で三条氏を見詰めた。
「じゃあ、3日間よろしく。石一海くん」
百瀬が消えると、改めて三条氏がソファーから立ち上がり手を差し出して握手を求めた。爪の先までケアが行き届いた美しい手である。
慌てて一海も立ち上がり手を出す。
「よろしくお願いシマス、三条サマ。石一海です。不届きモノですが、お願いシマス」
握手をしながらそう言った一海に、三条氏がプッと吹き出した。
「『不届き者』は困るな」
「え?ボク、ナンか間違えマシタ?」
クスクス笑いながら、握手を解いた手で、三条氏は一海にそこに座るよう示した。
「あ!もしかして、『不つつか者』デスカ?」
どうしても日本語のなかでも謙譲を表す言葉が一海は苦手だった。「不届き」だの「不つつか」だの、意味の違いがよく分からない。
「まあ、『不つつか者』の方が可愛いかな」
三条氏が優しく微笑みながらそう言うと、よく理解できないままながら、一海も恥ずかしそうに少し笑った。
「『不つつか者ですが、よろしく』というのは、昔の女性が結婚を承諾する時に言ったものだよ」
三条氏に揶揄われ、一海は言葉も無く、どう反応していいものか、体も硬直してしまった。
次の瞬間、驚く間もないほどの素早さで、三条氏が向かいに座る一海の手首を掴んで引き寄せた。
(!)
何が起きたか分からずに、されるがままの一海の耳元に三条氏が囁いた。
「初夜のベッドインの前にも言う言葉だよ」
「あ、あの!」
捕まれた手首も、低い声で囁かれた耳も、一瞬でカッと熱くなった。こんなことは初めてで、一海は動揺してしまう。
「対不起(ごめんなさい)!」
思わずそう言って手を振り払い、一海は弾かれたようにソファーから立ち上がった。
「どうしたの?」
ホットコーヒーと、グレープフルーツジュースを載せたトレイを手にした百瀬が戻り、急に立ち上がった一海に驚いて声を掛けた。
「済まない。もう少し親しくなりたいと冗談を言ったら、シーくんを困らせたみたいでね」
「は?」
意味が分からず、相変わらずクスクスと笑っている三条氏と、真っ赤になって立っている一海を百瀬は見比べていた。
「だって、自分のことを『不届き者』だって言うんだよ、シーくんときたら」
「ふとどき…!」
百瀬も先ほどの三条氏と同じように吹き出した。
「も、申し訳ございません。けれど、石一海の日本語には問題はありませんので、ご安心ください。ご不便をおかけすることはございません。何でもご希望を仰ってくださいね」
コーヒーとジュースをテーブルに並べ、百瀬はちらりと一海を見た。その視線に促されて、一海は居心地悪そうにソファーに座りなおした。
「打給我(あとで電話して)」
百瀬は一海に小声でそう言うと、三条氏に一礼して去って行った。
2人きりになると、先ほどまでの揶揄うような笑いを収めて、それでも穏やかな雰囲気はそのままに、三条氏は一海に謝罪した。
「ごめん。君があまりに可愛いから、ふざけてしまった」
それからスッと真剣な眼差しになる。
「君を軽んじているつもりはないんだ。もう困らせないようにするから、許してもらえないか」
こんな風に真摯な態度で接しられて、拒む理由が無かった。
「ボクこそ、失礼な対応で、申し訳ございませんデシタ」
弱々しい仕草で石一海が頭を下げると、三条氏はニコリと破顔する。
「謝らないでくれ。私が悪いんだ」
年下の一海を揶揄ったりもするけれど、きちんと謝罪もしてくれたオトナの三条氏を、石一海は受け入れざるを得なかった。
「よろしくお願いシマス!」
一海は明るい笑顔で元気よくそう言った。
三条氏も、その笑顔を眩しそうに見つめていた。
仕方なく社長を先導して、来客のもとへ案内した。
「お待たせシマシタ」
石一海が先ほどの紳士の前まで来ると、後ろにいた額田社長が声を上げた。
「やだ~!三条さん!」
社長は、さも嬉しそうに紳士に近づくと手を差し出し、紳士の手を両手で握って親し気に振舞った。
「こんな所にお越しになるなんて、驚きましたわ」
満面の笑みの社長に、石一海は取り残されてしまい、身の置き所に困って、そのままその場に立ち尽くしていた。
「ちょうどヨーロッパから帰国途中、上海でトランジットすることになって。どうせなら、貴女にご挨拶して上海を楽しんでから日本に戻ろうかと思ってね」
紳士は、額田社長より幾つか年上に見えた。50代だろうが、背が高く、逞しい体躯で、姿勢が良く、スマートな身のこなしなど若々しく見える。高級なスーツからだけでなく、額田社長のご機嫌の良さからしても、相当なお金持ちだと分かる。だが、これまでクライアントとして見たことも無い男性だ。
(社長の元カレ?)
石一海が、暇そうに気楽にそんなことを考えている間に、社長と紳士の間では話が進んでいた。
「そういうことでしたら…」
言いながら、額田社長は周囲を見回した。その時またもタイミングよく、会場から色とりどりのデザートが載ったお皿を手にした百瀬茉莎実が現れた。
「ああ!ちょうどいいわ、百瀬さん」
「あ、社長?」
呼ばれて、素直に近づいてきた百瀬だったが、社長の前にいる魅力的な紳士に気が付いて、ポッと頬を染めた。
「なんですか、社長~」
お皿いっぱいのスイーツと同じくらいに、女性をときめかせる紳士を前に、誰が見ても分かるほど、額田社長も百瀬先輩もご機嫌が良かった。
(これくらいにカッコいいオジサンなら、みんなホレちゃうよね)
話から取り残されていた一海だったが、社長と先輩の緩んだ表情に、独り納得していた。とにかく、圧倒的なカリスマ性というか、他人の気持ちを惹きつける魅力に溢れた紳士だった。
(ボクだって、ステキだと思うもんな)
一海がそんなことを考えていると、百瀬が歓声をあげた。
「喜んで!」
「助かるわ。百瀬さんなら、安心して三条さんをお任せできるし」
どうやら、社長は百瀬先輩に紳士のアテンドを命じたようだ。
(いいなあ~。百瀬先輩なら日本人クライアントに外れ無しのレストランをいっぱい知ってるし、仕事なら少々高いお店でも行けるよな~)
ついさっき、経験が足りないと言われた一海は、百瀬の持つ「日本人好み」の情報が羨ましくてならない。
その時だった。
「できれば、彼にお願いしたいな」
急に紳士が振り返って一海と目が合った。
「え?え、ええ…」
明らかに社長も先輩も戸惑いを隠せない。第一、石一海自身も何の話か分からずにきょとんとしていた。
「私が、若い女性と2人でウロウロしているのも、体裁が悪いしね」
ユーモアあふれた上品な笑顔で紳士がそう言うと、その場に居た全員を丸め込んでしまう。
「た、確かに…」
がっかりしつつも、認めざるを得ない説得力に、百瀬は苦笑いを浮かべる。仕事とはいえ、超高級な紳士とのデートのチャンスを失ったのは残念なことだろう。
「は?あ、あの?ボクが何カ…?」
ぼんやりしていたせいで、話に追いつけなくなった一海は、きょろきょろと周囲の顔色を伺う。
「こちら、三条哲臣さん。私の古いお知り合いで、2、3日上海でゆっくりされたいんですって。そのアテンド役に、ぜひシーくんを、って」
要領よく額田社長に説明されて、石一海はすぐに事情は呑み込むが、次の壁にぶつかってしまう。
「観光ガイドってコトですカ?」
オフィスのクライアントは、ビジネスでの訪中が目的で、ビジネス用語の通訳は難しいのだが、アテンド内容はそれほど複雑ではない。第一、間違いが無いように、必ず2人1組で対応するため、食事や、空き時間の簡単な観光などの手配は、たいていペアの百瀬先輩に任せてある。観光だけのアテンドを一海1人で担当するのは初めてだった。
それゆえに、自信がない。不安そうに、クライアントの顔を見ると、三条と言う名の紳士は、動じることなく柔らかな笑みを浮かべて一海を見つめ返した。
「私は、そう手のかかるゲストじゃないと思うよ。リラックスして付き合ってもらえると嬉しいな」
そんな風にクライアントサイドから親切な態度に出られて、今さら断れるはずも無かった。
「没関係(大丈夫よ)。我幇助(私がフォローするって)」
不安そうな一海に、こっそりと百瀬が耳元で中国語で囁いた。
「謝(どうも)…」
頼りない一海の返事に、百瀬がちょんと肘で突いた。
「あ、ハイ!社長、お引き受けしマス」
そう言うと、石一海は社長と三条氏にぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、三条さん。こちら、うちの石一海くん。期待のエースなんだから、イジメないでくださいね」
そういうと、額田社長は、ポンポンと三条氏の肩を叩いて、パーティー会場に戻ろうとした。
「あ、シーくん、何か困ったら、いつでも連絡していいのよ。それと、三条さん、滞在中一度は一緒にお食事でも」
サバサバとそれだけを言って、ニッコリと手を振りながら社長は会場へと消えて行った。
「相変わらず、あっさりしているね、額田さんは」
苦笑する三条氏もまた、ちょっと甘い表情になって魅力的だ。
「あの…。失礼ですけど、社長とは…?」
好奇心を隠さずに、百瀬が訊ねる。そんな不躾な問いにも、不快な様子も見せずに三条氏はにこやかに答えた。
「彼女は、大学時代の後輩なんだ。所属ゼミが同じでね」
屈託なく返事をする三条氏の大人の余裕に、ひそかに一海は感心していた。
「へえ~」
百瀬の好奇心は満たされたように見えないが、さすがに三条氏がそれ以上言葉を続けない以上、その先の質問を求めるわけにはいかない雰囲気だった。
「ごめんね。せっかく君が案内をしてくれるって言ってくれたのに」
優しい声で三条氏が謝罪すると、百瀬は慌てて両手を振って否定した。
「とんでもないです!三条さまのようにステキな方に、私のようなものでは隣にいても不釣り合いですし。誤解されるようなことになってもいけませんから」
確かに、日本人でありながら中国人に間違えられることもある百瀬が、明らかに富裕層の外国人紳士である三条氏と一緒にいることで、姑娘(クーニャン)(隠語で若い接客業の女性)との不倫やハニートラップなどの疑惑を抱かれないとも限らない。
そんな三条氏の賢明さに、一海はちょっと引っかかる。それほど中国の情勢に詳しいなら、本当に観光ガイドが必要なのか?と。
「では、三条さま。よろしければ、あちらで石一海と今後の予定の打ち合わせなど、いかがですか?」
パーティー会場前のロビーから、少し離れた場所にソファーセットがあった。そこにうまく百瀬に誘導され、三条氏と一海は向かい合わせに座った。
「お飲み物は?」
自分の手には、まだしっかりとデザートの盛り合わせが載ったお皿を持ったまま、百瀬が営業スマイルで訊ねた。
「では、コーヒーを。デザートは、不要で」
「あはは…」
ユーモアたっぷりの三条氏の返答に、百瀬も笑うしかなかった。これが皮肉にならずに笑いを誘うのも、三条氏のイケメン度と大人の余裕に他ならない、と一海は尊敬に近い念で三条氏を見詰めた。
「じゃあ、3日間よろしく。石一海くん」
百瀬が消えると、改めて三条氏がソファーから立ち上がり手を差し出して握手を求めた。爪の先までケアが行き届いた美しい手である。
慌てて一海も立ち上がり手を出す。
「よろしくお願いシマス、三条サマ。石一海です。不届きモノですが、お願いシマス」
握手をしながらそう言った一海に、三条氏がプッと吹き出した。
「『不届き者』は困るな」
「え?ボク、ナンか間違えマシタ?」
クスクス笑いながら、握手を解いた手で、三条氏は一海にそこに座るよう示した。
「あ!もしかして、『不つつか者』デスカ?」
どうしても日本語のなかでも謙譲を表す言葉が一海は苦手だった。「不届き」だの「不つつか」だの、意味の違いがよく分からない。
「まあ、『不つつか者』の方が可愛いかな」
三条氏が優しく微笑みながらそう言うと、よく理解できないままながら、一海も恥ずかしそうに少し笑った。
「『不つつか者ですが、よろしく』というのは、昔の女性が結婚を承諾する時に言ったものだよ」
三条氏に揶揄われ、一海は言葉も無く、どう反応していいものか、体も硬直してしまった。
次の瞬間、驚く間もないほどの素早さで、三条氏が向かいに座る一海の手首を掴んで引き寄せた。
(!)
何が起きたか分からずに、されるがままの一海の耳元に三条氏が囁いた。
「初夜のベッドインの前にも言う言葉だよ」
「あ、あの!」
捕まれた手首も、低い声で囁かれた耳も、一瞬でカッと熱くなった。こんなことは初めてで、一海は動揺してしまう。
「対不起(ごめんなさい)!」
思わずそう言って手を振り払い、一海は弾かれたようにソファーから立ち上がった。
「どうしたの?」
ホットコーヒーと、グレープフルーツジュースを載せたトレイを手にした百瀬が戻り、急に立ち上がった一海に驚いて声を掛けた。
「済まない。もう少し親しくなりたいと冗談を言ったら、シーくんを困らせたみたいでね」
「は?」
意味が分からず、相変わらずクスクスと笑っている三条氏と、真っ赤になって立っている一海を百瀬は見比べていた。
「だって、自分のことを『不届き者』だって言うんだよ、シーくんときたら」
「ふとどき…!」
百瀬も先ほどの三条氏と同じように吹き出した。
「も、申し訳ございません。けれど、石一海の日本語には問題はありませんので、ご安心ください。ご不便をおかけすることはございません。何でもご希望を仰ってくださいね」
コーヒーとジュースをテーブルに並べ、百瀬はちらりと一海を見た。その視線に促されて、一海は居心地悪そうにソファーに座りなおした。
「打給我(あとで電話して)」
百瀬は一海に小声でそう言うと、三条氏に一礼して去って行った。
2人きりになると、先ほどまでの揶揄うような笑いを収めて、それでも穏やかな雰囲気はそのままに、三条氏は一海に謝罪した。
「ごめん。君があまりに可愛いから、ふざけてしまった」
それからスッと真剣な眼差しになる。
「君を軽んじているつもりはないんだ。もう困らせないようにするから、許してもらえないか」
こんな風に真摯な態度で接しられて、拒む理由が無かった。
「ボクこそ、失礼な対応で、申し訳ございませんデシタ」
弱々しい仕草で石一海が頭を下げると、三条氏はニコリと破顔する。
「謝らないでくれ。私が悪いんだ」
年下の一海を揶揄ったりもするけれど、きちんと謝罪もしてくれたオトナの三条氏を、石一海は受け入れざるを得なかった。
「よろしくお願いシマス!」
一海は明るい笑顔で元気よくそう言った。
三条氏も、その笑顔を眩しそうに見つめていた。