ひと夏の経験

取り残された三条氏と石一海は、「話をする」ためだけに、また三条氏のスイートルームに戻った。
「残ってくれて、ありがとう、イーハイ」
答えようとして言葉が出ずに、一海はただ首を横に振っただけだった。
一海は、夜景の見えるソファに座り、俯いていた。一方の三条氏は、一海との距離を気にしてなのか、先ほど同様にライティングデスクを挟んで座っていた。
「先ほどの額田さんの言葉を、真に受けては欲しくない」
三条氏は、困ったようにそう言った。
「…ハイ」
ようやく声を出したものの、一海は決して額田社長の言ったことを否定したいのではなかった。
「そんなに緊張しないでいいんだよ、イーハイ」
優しく落ち着いた大人の声で、三条氏は言った。
「私から、話を始めていいかな」
ライティングデスクに両手を組んで乗せたまま、三条氏は一海から目を反らして言った。
「ハイ」
同じ言葉を繰り返すしか出来ない一海が気になったが、三条氏は静かに話し始めた。
「君の真面目で、純粋なところに心惹かれた。私のような歳になるとね、無邪気で清らかなものを尊く思うようになる。まさに、君がそれだ」
ここで三条氏は一海を見た。ちょうど、三条氏の言葉に何か言おうと振り返った一海と視線が合ってしまう。
三条氏は柔らかな眼差しで、言葉を継がずに一海の発言を待った。
「ボクは…。無邪気デモ、清らかデモありマセン」
三条氏の自分への評価に、言い知れないもどかしさを感じながらそう言った。
「ボクのコト、何モ知らナイのに、好きだナンテ言わナイで下サイ」
哀しくなった一海は、その子供のような桃色のぷっくりした唇を噛んだ。それが幼気で可愛いのだが、三条氏には、それさえもどこか官能的に見えた。
「だから、私は、君を知りたい!」
不意に三条氏が立ち上がり、一海は驚いて身を固くした。
「あ…、済まない。怖がらせるつもりは…」
頭を振って、三条氏は冷静になろうと努めた。
「分かってくれ…、イーハイ。自分でも不思議なほど、君に夢中なんだ。なのに、この私が手を出すのもためらうほど怯えている」
誠実な眼差しで三条氏は言う。けれど一海は、今は素直にそれを受け入れられずにいる。
「確かに、君の事はまだまだ知らないことばかりだ。でもね、君の無垢な本質は、私は見誤っていないと信じている」
「三条サマ…」
何も知らないクセに…と、一海は胸の中で繰り返すが、それは自分も同じことだった。三条哲臣という通りがかりの日本人であるということ以外、何も知らないのだ。けれど…。
「困らせているのは分かっている。それでも、君への気持ちはどうしても偽れない」
そう語る三条氏は、苦し気な表情を浮かべていた。何がそんなにこの紳士を苦しめているのかを考えると、一海の胸も痛む。
「君を甘い言葉で口説いて、一夜の相手をさせることは、私には難しい事じゃない。でも、それをしないのは、君だからだ。遊びじゃ済ませられない。それだけ、大切に思っているんだ」
三条氏の心のこもった告白に、もう一海も黙ってはいられなかった。
「ダッタラ!」
一海はソファから立ち上がり、三条氏が座るライティングデスクの前まで迫った。
「ダッタラ…、ボクの気持ちハ?」
デスクに手を着き、真剣な目をして一海は座っている三条氏に上から訴えた。
「ボクだって、アナタのコト、何モ知らナイ。ダケド…、ボクも…」
一度口を閉じて、一海は息を整えた。
「ボクだっテ…アナタが好キ、ナノに…」
「でも、一緒に日本には来てくれないんだね」
責めるように三条氏は言うが、もう一海も動じない。
「アナタだっテ、ココに残っテはクレない…」
そう指摘されて、三条氏も返す言葉が無かった。
「イーハイ…」
三条氏が立ち上がり、一海の目を見詰めながら、大きな手を伸ばし頬に触れた。
「好きだよ。私のこの気持ちと君の気持ちを大事にしたい」
「……」
一海は、言葉で返さず目を閉じた。
その気持ちに、三条氏は答えてくれるのだろうか。
「!」
頬に触れていた温かな手の平が、ゆっくりと滑り一海の顎に掛かった。そして、手の平よりも熱く、柔らかい物が一海の唇に触れた。
それは、石一海にとって、三条氏がくれたものの中で一番心を揺さぶる、切なく、尊い物になった。
「三条サマ…」
気が付くと、一海の頬が濡れていた。その一筋の涙を綺麗に整えられた指先で三条氏は掬い取ると、もう一度温めるように掌で頬を包んだ。
「もし、半年後も同じ気持ちなら、この出会いは運命だよ」
そう言った三条氏を、紅い顔のまま一海は見上げた。
「半年後?」
「そう。半年後、上海の展示会のため、私はもう一度ここへ来る。その時に、君の気持ちを聞かせてくれないか」
(半年後…)
口にはしなかったが、一海はたじろいでいた。そんな先の事まで、大人の男なら考えている物なのだろうか。次第に一海は胸のドキドキを抑えられなくなった。
(半年後、ボクはいったい…)
三条氏は一海から離れると、デスクの隅に置いていた紙バッグを引き寄せた。
それは今日、2人であちこち回って買った物が入っている。三条氏は、多倫路の骨董店で買った瑠璃色の一双の壺が入った箱を取り出した。
そして、箱を開けると中から2つあるうちの1つを取り出し、改めて蓋をした。
「これを…。イーハイ」
対の壺であるはずなのに、1つだけ箱に残った物を、三条氏は一海に差し出した。
「コレは?」
張り裂けそうな胸のまま、一海は三条氏に訊ねた。
「これを半年間、君に預けるよ」
「え?」
2つで1つの対の壺だ。それを、離れている間に1つずつ持っていようと三条氏は言っているのだ。会えない間、これをお互いの身代わりとして…。
こんなロマンティックなことを言われて、一海はすっかり落ち着きを失ってしまう。
「ボ、ボク!」
そんな慌てた表情の一海に、柔和で上品な笑顔を浮かべた三条氏が、少し寂し気な声で言った。
「構わない。半年後、君がこの壺を失くしてしまっても」
半年という時間を、自分とは違い若い一海が長いと感じるのは三条氏も分かっていた。だから、半年後の心変わりも覚悟していた。
「私は、ずっとこの壺を大切にする。たとえ半年後、君と会えなくても」
この時の一海の気持ちは一言では表せないほど複雑だった。けれど、敢えて言うなら「キュン」と心臓が高鳴った。
この人が好きだ。
自分の事を好きでいてくれる、この人が好きだ。
それはどこからか分からないけれど、自分の中からどんどん溢れ出してくる感情で、もうどうやって止めたらいいのか分からない。
それは温かくて、ちょっと痛くて、嬉しくて、悲しくて、フワフワとした、形容しがたい気持ちだった。
「ドアまで送るよ」
そう言って、三条氏は先にリビングを出て行こうとする。
「あ、あの…」
一海は戸惑いながらも、三条氏を呼び止めた。
リビングを一歩出たところで、三条氏は振り返った。
「ボク、…モ。この壺ヲ大事ニしますカラ…」
震えているのが見て取れるほど一海は緊張していた。それを、優しい眼差しで受け止めて、三条氏は何も言わずに頷いた。
それをどう解釈したのか、一海は箱を入れた紙バッグを手にすると、三条氏を追うように部屋を出るドアへと向かった。
「…アキオミさん…」
ためらいがちに、初めて一海は三条氏の下の名前を呼んだ。
当の三条氏は一海に振り向き、この上なく優しく美しい笑顔を見せてくれた。
「ありがとう、名前を呼んでくれて、本当に嬉しいよ、イーハイ」
ドアの前で、2人は見つめ合った。まるで昨夜、一海の腕時計を1分間見詰めていた時のように。
なぜか一海は、三条氏がそれを望んでいるような気がして、もう一度目を閉じた。
「…再見(さよなら)…」
唇が触れる瞬間、三条氏が小さく呟いた。
それが、本当にお別れを意味するのか、再会を期待しての言葉なのか、一海には理解できなかったが、一海は考えるより先に両手を三条氏の背中に回していた。
気付いた三条氏も、一海を強く抱きしめた。
キスを終えた後も、2人はそのまましばらく抱き合っていた。
「マタ、会えマスよネ?」
三条氏の厚い胸板を感じながら、腕の中から一海は聞いた。
三条氏は何も言わずに一海の髪を撫で、額に軽いキスを落として、微笑むだけだった。
それでも、不思議なことに一海には三条氏が心の中で「YES」と答えてくれたのが分かった。まるで、キスで魔法が掛かったかのように…。
ドアが閉じて、一海は廊下で1人になった。
もちろん、ドアの向こうでは1人になった三条氏が居る。
これから半年間、一海はずっと三条氏のことを想い続けるのだろう。そしてまた三条氏も一海のことを忘れない。
半年後、何が起きるのか、2人にはまだ分からなかった。
すべては、今、この一歩から始まるのだから…。


夏は、終わろうとしていた。
14/14ページ