ひと夏の経験
額田社長との会食は、翌朝には三条氏が日本へ帰国するということもあり、ペニンシュラホテル内の広東料理のレストランだった。
「ミシュラン1つ星なのよ」
額田社長は、予約した席に案内されながら、なぜか自慢げにそう言った。
「三条さんって、グルメだから。レストラン選ぶのにも気を遣うのよ」
「ふふふ。額田さんの選んだお店に文句なんか付けないさ」
微笑み合う2人に、後ろを歩く石一海は、複雑な気持ちを抱いていた。
席に着いて、三条氏と額田社長は向かい合って座り、一海は2人に挟まれるように座った。
英語が堪能な2人が、適当に料理を選んで注文してくれたので、一海はどぎまぎせずに済んだ。
「飲物は?」
聞かれた一海だったが、こんな高級店で、社長とゲストのプライベートの席で何を注文したらいいのか分からない。
「シャンパンを。その後で、額田さんはお好きな赤ワイン。私はせっかくなので紹興酒を。石くんは、コーラにしておきなさい」
なぜか三条氏が、テキパキと、額田社長と一海の分まで注文してしまった。
まるで、一海の戸惑いを感じ取ったように、そして一海にアルコールを摂取させないように、そんな配慮を三条氏から察した一海だった。
「あ、そうだ、これ…」
そう言って、三条氏がジャケットのポケットから取り出したのは、昼間、上海工芸美術博物館で三条氏が購入した、翡翠のピアスが入ったケースだった。
「石くんを紹介してくれたお礼。博物館で買ったんだけど、素材もいいし、デザインも凝ってるから、お値打ちだと思ってね」
そう言って差し出されたビロードで包まれた小さなケースを受け取り、額田社長は大いに喜んだ。
「まあ!三条さんのお眼鏡に適ったんでしょう?イイ物に違いないわ」
そう言って開けると、目を輝かせた。
「ステキ!この翡翠の緑の色合いが素晴らしいわ!さすがに三条さんね。美術ディーラーだけのことはあるわ」
そう言うと、額田社長は付けていたダイヤのピアスを外し、翡翠に換えた。
「ありがとう、三条さん、それに…」
額田社長は一海の方を見てニッコリとした」
「石くんも、ありがと」
「え?」
社長からのお礼の意味が分からず、一海は、キョトキョトと額田社長と三条氏の顔を見比べた。
「三条さんは、私の大切なプライベートのゲストよ。その彼を十分にもてなしてくれたのだもの。感謝もするわ」
額田社長は美魔女っぷりを発動した、妖艶な笑みを浮かべて言った。
「イエ…そんな…」
社長のフェロモンにオロオロしつつ、一海はフッと思った。
(社長は…、三条さんのことが、好きなのかも)
並んで歩く2人は、お似合いのカップルに見えた。一海の知る限り、2人とも独身であるし、交際していても不思議ではない。
そんなことに思い至り、一海は先ほどからの自分のモヤモヤした気持ちの理由に気付いた。
(ボク、社長に嫉妬してる?)
当惑している一海に気付かぬ様子で、額田社長は話し続けていた。
「ホント、昔っから紳士的で当たりは柔らかいクセに、頑固で拘りが強いものだから、やりにくいのよね、センパイってば!」
冗談めかしているが、学生時代からの中だ。いろいろお互いに知っているのだろう。三条氏も、笑って聞いてる。
「何人の女の子が泣くのを見て来たか…」
呆れたように言う額田社長の言葉に、一海はハッとした。
三条氏の過去。それは、一海は考えないようにしていたが、これほど魅力的な男性である以上、女性にモテないはずがない。どれほどの華やかな女性遍歴があるのか、想像もしたくなかったが、決して否定できないものだと一海は思った。
ちょうどそこへ、注文したシャンパンが来た。
「では、額田さんの変わらぬ美貌に、乾杯!」
皮肉抜きで、上品に言う三条氏が、却って額田社長の失笑を買う。
「よく言うわよ」
そして、彼女からの反撃に遭う三条氏だった。
「貴方と、石くんとの出会いに乾杯」
意味ありげな笑いを浮かべ、額田社長はグイっと一気にシャンパンを飲み干した。
「もったいない飲み方だな…。額田くんらしいけど」
額田社長からの嫌味にも動じず、穏やかに三条氏は笑った。
「気にしなくていいよ、イーハイ」
一海の目を見るようにして、わざわざ声を掛けてくれる三条氏は優しい。けれど、額田社長と三条氏との間には、自分とはまた違う親密さのようなものを感じなくもない。
「……」
何も言えなくなった一海は、シャンパングラスを持ったまま、三条氏と額田社長をチラチラと伺うしかできなかった。
「まあ、もう下の名前で呼んだりするんだ」
冷やかすようにクスクスと笑いながら額田社長は言った。そこには、意地の悪い当てこすりなどは感じないのだが、なんだか一海には居心地が悪かった。
「石くん。私は付き合いが長いから、君が三条さんの好みだというのは知ってるわ」
「え?」
あまりにもストレートな発言に、一海の方が動揺してしまう。
「だけど、君は、彼みたいな人に遊ばれていい人間ではないんだからね」
意外に真剣で、慈愛に満ちた額田社長の言葉に、一海は虚を突かれた。彼女は確かに何かを知っている。そして、その上で、本気で大切な部下である石一海のことを心配してくれているのだ。
「ちょっと、額田くん」
さすがに苦笑しながらも、一海の手前、三条氏も額田社長を制した。
「だって、本当のことよ、このプレイボーイ。そう、まさにプレイ(遊び)がお得意じゃない」
呆れ顔をしながら笑って額田社長は三条氏を揶揄する。
「私だって、本気になることはあるさ」
一海の目を気にしてなのか、苦み走った口元の笑みを浮かべ、ポツリと言った。
「石くんがそうだって言うの?」
試すような視線で、面白そうに額田社長が言った。
「だったら?」
急に、一海も知らなかった鋭い眼差しで三条氏が射抜いた。それは、額田社長に対してではなく、一海に何か決断を迫るような視線だった。
「ふふふ。それは石くんが決めることだけど。今夜のお相手に石くんを選んで、明日には捨てるなんてこと、私は許さないわよ」
シャンパンを飲み干し、赤ワインを注がせて、額田社長はそのグラスを三条氏に付きつけるようにして言った。
「君には、関係の無い事だろう」
そのグラスに合わせるように、三条氏もシャンパングラスを持ち上げた。
「あるわ。石くんは、うちの社の大事なエースだもの」
優雅に頷いて、額田社長は赤ワインのグラスを、シャネルのルージュアリュールが映える唇に運んだ。
「もし…」
いつもの余裕が見える表情ではなく、急に真剣な顔をして三条氏は口を開いた。
「もしも、私が本気で。イーハイを日本に連れて帰りたいと言ったら?」
じっと厳しい視線で一海を見据えた三条氏は、不安ばかりの石一海を追い詰めていく。
「チョ、ちょっと待ッテ下サイ」
耐え切れなくなって、やっと一海は声を出した。
「ボ、ボク…。今、日本へ行くツモリなんてアリマセン」
自分の、三条氏への気持ちを自覚していながらも、一海は思い切って正直に言った。
「イーハイ…」
一海の発言に、あからさまに三条氏は失望の色を見せる。そして額田社長は、まるで何も聞かなかったように素知らぬ顔でワインを楽しんでいた。
「……」
気まずい沈黙が訪れる。
誰しもが何か言いたいことがあるのだが、口火を切るのが怖かった。
「ごめんなさい。せっかくの食事が不味くなるわね」
そんな妙な緊張感に包まれたテーブルに耐えかねて、額田社長が言った。おかげで、その場の嫌な雰囲気は不思議に一掃された。
まるで、それをきっかけにしたかのように、前菜が運ばれてきた。
額田社長のムード作りが良かったのか、三条氏の料理の選択が良かったのか、食事中の空気は悪くなかった。
食事もデザートを残すばかりとなり、話題は、三条氏と額田社長の学生時代の事や、三条氏が行ってきたばかりのドイツの骨董市の事や、額田社長が会社の事などを話すだけで、最後まで一海と三条氏の関係については言及されなかった。
「三条さん、ごちそうさま」
額田社長は、ちゃっかりと三条氏に奢らせて、美味しい料理と赤ワインの効果で、すっかりご機嫌になっていた。
「さあ、帰りましょうか、石くん」
颯爽と立ちあがると、額田社長は石一海に一緒に帰るよう促した。
「ダメだ、額田くん」
言われるままにうっかり立ち上がった一海の手首を、三条氏がそう言って掴んだ。
「三条さん?」
自分が言ったことが伝わっていなかったのかと、珍しく額田社長は苛立ちを顔に出した。
「私とイーハイは、大切な話がある」
決して取り乱すこと無く、落ち着いた声で三条氏は言った。
「それだけだ。君に約束をする。決して君の信頼を裏切らないし、イーハイを傷つけることもしない」
これまで見たことも無いような、真剣で一途な三条氏の眼差しに、さすがの額田社長の決心も揺らいでしまう。
「どうなの、石くん?」
三条氏に腕を掴まれたままの、一海を見据えるようにして額田社長が問いただす。まごまごしていた一海だが、意を決して口を開いた。
「ボク…。ボクも、三条サマとオ話したいコトがアリマス」
「石くん!」
呆れた様子の額田社長に、まるで石一海を庇うように三条氏が立ち上がった。
「申シ訳ありマセン、社長。デモ…ボク…」
緊張して、震えながら一海は、それでも真っ直ぐに三条氏を見た。
「今、ちゃんと、三条サマと、話シテおかナイと、イケナイって思ウんデス」
額田社長は、官僚経験があり大局が見える加瀬部長や、沈着冷静で処理能力の高い郎威軍主任などの天性のエリートだけでなく、この実直で努力家の石一海のような社員を大切に思っていた。
そんな彼が、一夜の恋愛ごっこで傷付き、この仕事さえ諦めてしまうようなことは見過ごせなかった。
しかし…。
「分かったわ。この先は、プライベートのことで、私が口を出すことじゃない」
三条氏の言葉を信頼し、石一海の熱意を認めることにした額田社長だった。
「但し、上司として2つだけ条件を出すわ」
一度はホッとした一海だったが、額田社長の固い声に、キッと緊張感が走った。
「1つは、明日は必ず定時に出勤すること」
三条氏の日本への帰国便は12時台だ。国際線であれば2時間前にチェックインが必要だが、ファーストクラスのスマートチェックイン利用者である三条氏は1時間前に空港に到着すればいい。そのために、ホテルを出発するのは10時頃。つまりは10時の定時出勤をするようにということは、一海は三条氏を空港へ見送りに行ってはならないということだ。
「2つ目は、今夜、私に話したいことがあれば、どんなに遅くなっても電話をすること。いいわね?」
念を押すように額田社長は優しい目で言った。
これほど部下を心配してくれる上司を、一海もまた裏切ってはいけないと思った。
「ハイ!」
誠実な態度で、石一海はきっぱりと返事をした。
その潔さに、やっと額田社長も安心したのか、ようやく表情を緩めて三条氏を振り返った。
「じゃあ、三条さん…信じてるわよ」
そう言うと、まるでランウェイを行くモデルのように颯爽と、額田凪沙社長はペニンシュラホテルを後にした。
「ミシュラン1つ星なのよ」
額田社長は、予約した席に案内されながら、なぜか自慢げにそう言った。
「三条さんって、グルメだから。レストラン選ぶのにも気を遣うのよ」
「ふふふ。額田さんの選んだお店に文句なんか付けないさ」
微笑み合う2人に、後ろを歩く石一海は、複雑な気持ちを抱いていた。
席に着いて、三条氏と額田社長は向かい合って座り、一海は2人に挟まれるように座った。
英語が堪能な2人が、適当に料理を選んで注文してくれたので、一海はどぎまぎせずに済んだ。
「飲物は?」
聞かれた一海だったが、こんな高級店で、社長とゲストのプライベートの席で何を注文したらいいのか分からない。
「シャンパンを。その後で、額田さんはお好きな赤ワイン。私はせっかくなので紹興酒を。石くんは、コーラにしておきなさい」
なぜか三条氏が、テキパキと、額田社長と一海の分まで注文してしまった。
まるで、一海の戸惑いを感じ取ったように、そして一海にアルコールを摂取させないように、そんな配慮を三条氏から察した一海だった。
「あ、そうだ、これ…」
そう言って、三条氏がジャケットのポケットから取り出したのは、昼間、上海工芸美術博物館で三条氏が購入した、翡翠のピアスが入ったケースだった。
「石くんを紹介してくれたお礼。博物館で買ったんだけど、素材もいいし、デザインも凝ってるから、お値打ちだと思ってね」
そう言って差し出されたビロードで包まれた小さなケースを受け取り、額田社長は大いに喜んだ。
「まあ!三条さんのお眼鏡に適ったんでしょう?イイ物に違いないわ」
そう言って開けると、目を輝かせた。
「ステキ!この翡翠の緑の色合いが素晴らしいわ!さすがに三条さんね。美術ディーラーだけのことはあるわ」
そう言うと、額田社長は付けていたダイヤのピアスを外し、翡翠に換えた。
「ありがとう、三条さん、それに…」
額田社長は一海の方を見てニッコリとした」
「石くんも、ありがと」
「え?」
社長からのお礼の意味が分からず、一海は、キョトキョトと額田社長と三条氏の顔を見比べた。
「三条さんは、私の大切なプライベートのゲストよ。その彼を十分にもてなしてくれたのだもの。感謝もするわ」
額田社長は美魔女っぷりを発動した、妖艶な笑みを浮かべて言った。
「イエ…そんな…」
社長のフェロモンにオロオロしつつ、一海はフッと思った。
(社長は…、三条さんのことが、好きなのかも)
並んで歩く2人は、お似合いのカップルに見えた。一海の知る限り、2人とも独身であるし、交際していても不思議ではない。
そんなことに思い至り、一海は先ほどからの自分のモヤモヤした気持ちの理由に気付いた。
(ボク、社長に嫉妬してる?)
当惑している一海に気付かぬ様子で、額田社長は話し続けていた。
「ホント、昔っから紳士的で当たりは柔らかいクセに、頑固で拘りが強いものだから、やりにくいのよね、センパイってば!」
冗談めかしているが、学生時代からの中だ。いろいろお互いに知っているのだろう。三条氏も、笑って聞いてる。
「何人の女の子が泣くのを見て来たか…」
呆れたように言う額田社長の言葉に、一海はハッとした。
三条氏の過去。それは、一海は考えないようにしていたが、これほど魅力的な男性である以上、女性にモテないはずがない。どれほどの華やかな女性遍歴があるのか、想像もしたくなかったが、決して否定できないものだと一海は思った。
ちょうどそこへ、注文したシャンパンが来た。
「では、額田さんの変わらぬ美貌に、乾杯!」
皮肉抜きで、上品に言う三条氏が、却って額田社長の失笑を買う。
「よく言うわよ」
そして、彼女からの反撃に遭う三条氏だった。
「貴方と、石くんとの出会いに乾杯」
意味ありげな笑いを浮かべ、額田社長はグイっと一気にシャンパンを飲み干した。
「もったいない飲み方だな…。額田くんらしいけど」
額田社長からの嫌味にも動じず、穏やかに三条氏は笑った。
「気にしなくていいよ、イーハイ」
一海の目を見るようにして、わざわざ声を掛けてくれる三条氏は優しい。けれど、額田社長と三条氏との間には、自分とはまた違う親密さのようなものを感じなくもない。
「……」
何も言えなくなった一海は、シャンパングラスを持ったまま、三条氏と額田社長をチラチラと伺うしかできなかった。
「まあ、もう下の名前で呼んだりするんだ」
冷やかすようにクスクスと笑いながら額田社長は言った。そこには、意地の悪い当てこすりなどは感じないのだが、なんだか一海には居心地が悪かった。
「石くん。私は付き合いが長いから、君が三条さんの好みだというのは知ってるわ」
「え?」
あまりにもストレートな発言に、一海の方が動揺してしまう。
「だけど、君は、彼みたいな人に遊ばれていい人間ではないんだからね」
意外に真剣で、慈愛に満ちた額田社長の言葉に、一海は虚を突かれた。彼女は確かに何かを知っている。そして、その上で、本気で大切な部下である石一海のことを心配してくれているのだ。
「ちょっと、額田くん」
さすがに苦笑しながらも、一海の手前、三条氏も額田社長を制した。
「だって、本当のことよ、このプレイボーイ。そう、まさにプレイ(遊び)がお得意じゃない」
呆れ顔をしながら笑って額田社長は三条氏を揶揄する。
「私だって、本気になることはあるさ」
一海の目を気にしてなのか、苦み走った口元の笑みを浮かべ、ポツリと言った。
「石くんがそうだって言うの?」
試すような視線で、面白そうに額田社長が言った。
「だったら?」
急に、一海も知らなかった鋭い眼差しで三条氏が射抜いた。それは、額田社長に対してではなく、一海に何か決断を迫るような視線だった。
「ふふふ。それは石くんが決めることだけど。今夜のお相手に石くんを選んで、明日には捨てるなんてこと、私は許さないわよ」
シャンパンを飲み干し、赤ワインを注がせて、額田社長はそのグラスを三条氏に付きつけるようにして言った。
「君には、関係の無い事だろう」
そのグラスに合わせるように、三条氏もシャンパングラスを持ち上げた。
「あるわ。石くんは、うちの社の大事なエースだもの」
優雅に頷いて、額田社長は赤ワインのグラスを、シャネルのルージュアリュールが映える唇に運んだ。
「もし…」
いつもの余裕が見える表情ではなく、急に真剣な顔をして三条氏は口を開いた。
「もしも、私が本気で。イーハイを日本に連れて帰りたいと言ったら?」
じっと厳しい視線で一海を見据えた三条氏は、不安ばかりの石一海を追い詰めていく。
「チョ、ちょっと待ッテ下サイ」
耐え切れなくなって、やっと一海は声を出した。
「ボ、ボク…。今、日本へ行くツモリなんてアリマセン」
自分の、三条氏への気持ちを自覚していながらも、一海は思い切って正直に言った。
「イーハイ…」
一海の発言に、あからさまに三条氏は失望の色を見せる。そして額田社長は、まるで何も聞かなかったように素知らぬ顔でワインを楽しんでいた。
「……」
気まずい沈黙が訪れる。
誰しもが何か言いたいことがあるのだが、口火を切るのが怖かった。
「ごめんなさい。せっかくの食事が不味くなるわね」
そんな妙な緊張感に包まれたテーブルに耐えかねて、額田社長が言った。おかげで、その場の嫌な雰囲気は不思議に一掃された。
まるで、それをきっかけにしたかのように、前菜が運ばれてきた。
額田社長のムード作りが良かったのか、三条氏の料理の選択が良かったのか、食事中の空気は悪くなかった。
食事もデザートを残すばかりとなり、話題は、三条氏と額田社長の学生時代の事や、三条氏が行ってきたばかりのドイツの骨董市の事や、額田社長が会社の事などを話すだけで、最後まで一海と三条氏の関係については言及されなかった。
「三条さん、ごちそうさま」
額田社長は、ちゃっかりと三条氏に奢らせて、美味しい料理と赤ワインの効果で、すっかりご機嫌になっていた。
「さあ、帰りましょうか、石くん」
颯爽と立ちあがると、額田社長は石一海に一緒に帰るよう促した。
「ダメだ、額田くん」
言われるままにうっかり立ち上がった一海の手首を、三条氏がそう言って掴んだ。
「三条さん?」
自分が言ったことが伝わっていなかったのかと、珍しく額田社長は苛立ちを顔に出した。
「私とイーハイは、大切な話がある」
決して取り乱すこと無く、落ち着いた声で三条氏は言った。
「それだけだ。君に約束をする。決して君の信頼を裏切らないし、イーハイを傷つけることもしない」
これまで見たことも無いような、真剣で一途な三条氏の眼差しに、さすがの額田社長の決心も揺らいでしまう。
「どうなの、石くん?」
三条氏に腕を掴まれたままの、一海を見据えるようにして額田社長が問いただす。まごまごしていた一海だが、意を決して口を開いた。
「ボク…。ボクも、三条サマとオ話したいコトがアリマス」
「石くん!」
呆れた様子の額田社長に、まるで石一海を庇うように三条氏が立ち上がった。
「申シ訳ありマセン、社長。デモ…ボク…」
緊張して、震えながら一海は、それでも真っ直ぐに三条氏を見た。
「今、ちゃんと、三条サマと、話シテおかナイと、イケナイって思ウんデス」
額田社長は、官僚経験があり大局が見える加瀬部長や、沈着冷静で処理能力の高い郎威軍主任などの天性のエリートだけでなく、この実直で努力家の石一海のような社員を大切に思っていた。
そんな彼が、一夜の恋愛ごっこで傷付き、この仕事さえ諦めてしまうようなことは見過ごせなかった。
しかし…。
「分かったわ。この先は、プライベートのことで、私が口を出すことじゃない」
三条氏の言葉を信頼し、石一海の熱意を認めることにした額田社長だった。
「但し、上司として2つだけ条件を出すわ」
一度はホッとした一海だったが、額田社長の固い声に、キッと緊張感が走った。
「1つは、明日は必ず定時に出勤すること」
三条氏の日本への帰国便は12時台だ。国際線であれば2時間前にチェックインが必要だが、ファーストクラスのスマートチェックイン利用者である三条氏は1時間前に空港に到着すればいい。そのために、ホテルを出発するのは10時頃。つまりは10時の定時出勤をするようにということは、一海は三条氏を空港へ見送りに行ってはならないということだ。
「2つ目は、今夜、私に話したいことがあれば、どんなに遅くなっても電話をすること。いいわね?」
念を押すように額田社長は優しい目で言った。
これほど部下を心配してくれる上司を、一海もまた裏切ってはいけないと思った。
「ハイ!」
誠実な態度で、石一海はきっぱりと返事をした。
その潔さに、やっと額田社長も安心したのか、ようやく表情を緩めて三条氏を振り返った。
「じゃあ、三条さん…信じてるわよ」
そう言うと、まるでランウェイを行くモデルのように颯爽と、額田凪沙社長はペニンシュラホテルを後にした。