ひと夏の経験

上海工芸美術博物館は、存在さえ知らない観光客も多く、地元の人間もあまり関心を持たないのか、いつでもひっそりとしている。
それでも、好みかどうかは別として、何らかの職人が少なくとも1人か2人、黙々と作業をしているのを間近に見ることが出来る。
精緻な象牙や玉石の彫刻の美術品を鑑賞し、シルクの中国らしい民芸品の飾り物を作る職人に話しかけ、中国家具の購買を薦められた。
結局、小さな翡翠のピアスを1組買った三条氏に、一海の胸がチリチリと痛んだ。
永康路(ヨンカン・ロード)から、再び李さんの運転する専用車に乗り、上海の中心地を挟んで反対側になる多倫路のを目指した。
多倫路は近年「文化名人街」と名付けられ、観光用に整えられているが、戦前はいわゆる日本人租界と呼ばれる場所だった。そのため、日本人にゆかりのある建物なども残っている。それらのクラシックな建物を楽しみ、魯迅など日本でもよく知られる文豪の銅像などを見ながら、ヨーロッパの雰囲気さえある街並みを散策した。
「少し休もうか」
前を歩いていた三条氏が、振り返って優しい笑みを浮かべて一海を誘った。
ドライバーの李さんは、車で待機中だ。もう、逃げられないと一海は思った。
「コのカフェは、有名なんデス」
こちらもかなりの年代物の建築物で、レトロな空気を満喫するにはピッタリだ。古い映画をモチーフにした雰囲気のあるカフェで、往年の映画ファンからSNSマニアの若者に人気があった。
2人は薄暗い店内では無く、明るい日の当たるテラス席に並んで座った。
三条氏はジャスミンティーを、一海はカフェラテを注文して、しばらくは黙って周囲の景色を楽しんでいた。
「ねえ、シーくん」
急に声を掛けられて、一海はギクリと身を竦めた。
「私が、怖いかい?」
恐る恐る一海が三条氏を見ると、彼は一海を怖がらせまいとしてなのか、それとも彼自身が何かに怯えているのか、視線を遠くに置いて、一海の方を見ようともしなかった。
「……」
返す言葉が無く、一海は黙ってそんな三条氏の横顔を見詰めていた。
端正な、男性らしく理知的な美しい顔立ちだった。その美貌が、今は憂いを帯びて悩まし気に見えた。こんな表情をさせているのは、自分のせいなのか、と一海はますます落ち着きを無くしてしまう。
「これだけは、言っておくよ」
そう言って、三条氏はゆっくりと振り返り、これまで見たことも無い真剣な顔つきで、じっと一海を見詰めた。
一海はその深い瞳に囚われて、身動き一つ出来ない。
「私は、君を気に入っている。だから、君の気持ちを尊重するつもりだ」
それが、何を意味するのか、理解できずに一海は三条氏から目を反らせなかった。
「正直言って、本来の私は、君のような素直な子が相手なら、甘い言葉で丸め込んで言いなりにすることくらい造作もない」
とんでもないことを言い出す三条氏に、さすがに一海も我に返った。
「ア、アノ、三条サマ!」
「黙って聞いてくれ」
慌てふためく一海の細い右手首を、三条氏はしっかりと握って言った。
「だけど、君を知るほど、大事にしたい、大事にしなければならない人だと思った」
真剣過ぎる三条氏の眼差しが、余りにも鋭すぎで、一海の胸に突き刺さるようで痛い。
「約束する。誓ってもいい。君には、決して無理強いはしない」
無理にでも何かする予定だったのか…、ほんのちょっぴり一海は不安になる。
「っ…!」
ここで急に三条氏が一海の頬に唇を寄せるような仕草をしてきたので、一海は驚いて身を固くした。だが、三条氏は一海にキスしようとしたのではなかった。
「君が…、好きだ」
短く、一海の耳元で三条氏が囁く。その声と吐息の刺激に、一海の心拍が一気に上昇した。
「デ、デモ…」
心地よい三条氏からの刺激に、流されそうになった一海は、自制するためにギュッと目を閉じ、唇を噛んで俯いた。そうして、やっとの思いで言葉を続ける。
「ズッと、ボクをカラカッテた…」
口にして、改めて自分自身が傷つく一海だった。
「え?」
驚いて、三条氏は一海の傍から身を剥がし、その顔を見返した。
可哀想な石一海は、心細い顔をして下を向いていたので、三条氏の意外な表情は一海には見ることが出来なかった。
「昨日ノ…1分間のコト。アノ時、ボクは、本当ニ…」
思えば、腕時計を買い与えられた時から、始まっていたのだ。
あの時計をした手首を、振り払えない力で掴まれた。けれど、あれは本当に振り払えないほどの力だったのか。振り払えないと思ったのは、一海の思い込みだったのではないだろうか。
ただ何も言わずに1分間、2人で同じ時計の針を見詰めていた、同じ1分間を共有したのだ。
そこに、何らかの意味があると一海は信じていた。だが、その意味とは、一海が思っていたものとは違っていたようだ。
「いいんだ。本気にしてくれて」
「ウソです!」
三条氏の言い訳も、一海は言下に否定した。
「イーハイ?」
そんな頑なな一海に、三条氏も不審を覚える。
「ボク…、知ッテるんデス」
一海は、悲しい目をして三条氏をしっかりと見詰めて言った。
「アレは、映画のワンシーンの真似デスよ、ネ」
今朝、オフィスでアンディ先輩や百瀬先輩が話していたことが気になった。
ペニンシュラホテルへ三条氏を迎えに行った時、少し早めに到着したので、時間の余裕があり、一海はスマホで検索したのだった。
「影視 阿飛正傳」
アンディ先輩が言っていた映画のタイトルを検索すると、そこには有名なセリフも書いてあった。
「…!」
それを見た一海は、愕然とし、胸を高鳴らせたあれらの言葉が、全てこの映画のセリフだったのだと知ったのだった。
孤独を抱えたプレイボーイの主人公・ヨディが、真面目な売店の売り子を口説くときのセリフだった。
それを、三条氏は、ほぼそのまま一海に言ったのだ。
揶揄(からか)われているとしか思えなかった。
有名な映画のセリフも知らない一海に、意味ありげな言葉で翻弄し、高揚させ、期待させておいて、アイツ本気にしているぞ、と、裏で嘲笑(あざわら)っていたのだ。
それを知って、悔しくて、哀しくて、切なくて、今日一日、ずっと胸が重苦しかった。
それなのに、どうして今さら「好きだ」なんて囁くんだろう。
気が付くと一海は泣きながら三条氏を見詰めていた。
「…イーハイ…、それは…」
一海の純粋な涙に動揺して、三条氏は言葉が継げない。
「無知なボクも悪いケド…。デモ…」
「イーハイ、お願いだから、説明させてくれ」
ますます涙が堪え切れず、とうとう一海はテーブルに顔を伏せて泣き崩れてしまった。
「楽シかったデスか?バカなボクが本気にスルのが!」
外のテラス席で泣きながら何事かを訴える若い男に、通りを歩く人ひとたちが奇異な物を見る目で振り返る。
「違うんだ、イーハイ!」
人目を気にしてというより、心惹かれている相手に目の前で泣かれていることに慌てて、三条氏は一海をその胸に抱いた。
泣いていた一海だったが、突然に抱き寄せられ、驚いて涙も止まってしまう。
「確かに、映画の真似をしたのは悪かった。だがそれは…」
知的で上品な紳士である三条氏が、言い淀んでいるのが、一海には違和感があった。
「それは…。君に特別な印象を与えたくて…」
抱かれている三条氏の心音が聞こえた。さっきからどんどん早くなっている。一海は三条氏の健康が心配になった。
「この年になって、恥ずかしいんだが…」
三条氏は、少し一海を抱く力を緩めた。それでも、一海から三条氏の鼓動と熱は離れない。
「君に…カッコいいと思われたかったんだ」
余りに意外な言葉に、石一海は驚いて、思わず三条氏の腕から抜け出しその顔を見上げた。
「へ?」
あどけなく、屈託のない表情で自分を見つめる一海の視線に耐えられず、三条氏は目元を少し赤らめて視線を逸らした。
「カワイイ君の気を引きたいと思った。少しでも、君が私に興味を持ってくれたら、と」
恥ずかしさに我慢も限界となったらしい三条氏は、一海から逃げるように立ち上がった。
「三条サマ!」
反射的に、一海は立ち上がった三条氏の手首を掴んでいた。それは左の手首で、そこには三条氏から一海がプレゼントされた腕時計の、10倍以上もする価格の海外ブランドの腕時計があった。こんなに高級な腕時計をしている人からすれば、確かに一海へのプレゼントなど大したことではないのだろう。
それでも、一海にはあのプレゼントがどんなに重い物となったのか、三条氏は自覚しているのだろうか。
「放してもらえないか、シーくん」
耳まで赤くした三条氏が、明らかに動揺して言った。
「イヤです!」
しかし、きっぱりとそう言って、一海は三条氏の手首を掴んだまま立ち上がった。
「イヤです。放しマセン。…モウ一度、好キって言ッテもらえるマデハ…」
「イーハイ?」
三条氏の手首を掴んだまま、真っ赤になって俯いた一海は言った。
「ボクも…好キなんデス…」
「!」
思いがけない一海からの告白に、沈着冷静なはずの三条氏も驚きを隠せない。
「本当かい?」
思わず一海の両肩を掴んで自分の方を向かせ、そのカワイイ顔を正面から覗き込んで三条氏は確かめた。
「…は、い…」
消え入りそうな声で、一海は頷く。
「それが本当なら…」
三条氏は、輝くばかりの明るく、嬉しそうな笑顔で言った。
「嬉しいよ、イーハイ。ありがとう」
そんな三条氏の笑顔に、一海は何もかも取り込まれてしまいそうだった。
人目も顧みず見つめ合っていた2人だが、やがて止めどもない羞恥心に襲われ、そっと離れた。
「じゃあ、もう行こうか」
取ってつけたセリフのように、三条氏が言うと、一海はそっと彼に手を伸ばした。そうして手を繋ぐと、一海は誘導するように歩きはじめる。
「行きマショウ!おススメの骨董店がアルんデス」
繋いだ手が、恋人同士のような意味では無く、本当に単なる誘導目的だと分かり、ちょっとガッカリした三条氏だったが、そんな一海の無意識の誘惑が、たまらなく心を揺さぶると感じたのも確かだった。
一海が案内してくれた骨董店は、2軒で、1軒はちょっとレトロな生活用品が並ぶキッチュな店で、もう1軒はもう少し本格的な歴史的価値のある高級品を扱う店だった。
確かに、どちらも三条氏の興味をそそった。
1軒目で、迷った末に文革時代のグッズを手にした。毛沢東同志が手を振る腕時計や、蓋を開けると革命歌が流れるライターや、スローガンが書かれた吸い上げ式万年筆など、当時は実用的とされていたのかもしれないが、今となっては懐かしいイベントの記念品のように感じられる。
その中から、三条氏は往年の広告ポスターを数枚購入した。当時の上海美人が描かれた、美術的にも美しく、今でも人気のデザインだ。三条氏が購入したのは、戦前の本物では無く、文革後のレプリカであったが、それでも状態も良く華やかでレトロな雰囲気は十分に伝わる。これを日本に持ち帰り、ちゃんとしたフレームに入れれば、インテリアとして商品になるのだと三条氏は一海に説明した。
次の店では、銀製のアクセサリーや小物を薦められたが、店内では口にこそ出さなかったが、三条氏はそれが本物の純銀製ではないと見抜いていた。
結局、その店では瑠璃色をベースに白や赤や黄色の花がデザインされた、七宝焼きの置物の壺を購入した三条氏だった。
これも、それほど古い物ではないらしいが、それでも瑠璃色の出方がとても美しく、気品があった。中国の伝統で、2つ並んでいると縁起がいいという考えから、この壺も2個セットで売られており、三条氏は全く同じものを2個手に入れたのだった。
「うん、中国らしいお土産が買えたよ」
満足そうに三条氏はポスターと壺を入れた紙バッグを提げて、一海と並んで李さんの待つ専用車へと向かい歩き出した。
「さっきの、事だけど…」
ちらりと一海へ視線を送るに留めて、何でもないことのように三条氏は言った。
「今夜、もう一度2人だけで話せるかな?」
もちろん、三条氏は先ほどのお互いの「好き」という発言に対して、検証をしたいと言っているのだと、一海だって分かっていた。
(でも…)
お互いに好意があることは間違いない。その気持ちを確認して、それから?
その先の事が、一海には想像もつかない。
「イーハイ。私は、遊びで言ってるんじゃない」
真剣な三条氏の声が、少し不安な一海だった。
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