ひと夏の経験

その夜は、上海で経済活動を行う日本企業の有志が集まる、企業交流会のパーティーが、老舗の日系ホテル・花園飯店のバンケットルームで行われていた。
上海で起業・開業している会社の業種は様々で、情報交換は積極的に行われ、会場は大いに盛り上がっていた。
会場となったホテルの管理職や、領事館の関係者、大企業の支社長、中小企業の社長など、多種多様な日本人がひしめく中、それらを繋ぐのが桜花活動企画公司(サクライベントオフィス)である。このパーティーの企画や案内、会場の設営から受付まで、このオフィスの各部署が仕切っていた。
オフィスの社長や管理職は、会場で他社の社長や領事館の役員たちと交流をしている。各部署の主任以下は、受付や参加者からの要望や質問などの対応に追われていた。
「石(シー)くん!こちらの方が、お泊りのホテルに問題があるそうなの。ホテルのフロントに交渉して差し上げて」
「はい!」
オフィス名物の美人社長自らのご指名に、受付前のソファーで休んでいた石一海(シー・イーハイ)は慌てて立ち上がった。
「実は、ホテルの部屋がエレベータに近くて、昨夜はうるさくて寝られなかったんです」
そんなことならば、朝一番にフロントに言えば、今頃は部屋を替えてもらって、今夜は安心して寝られることになっていただろうに、と内心で一海は不思議に思うが、これが「日本人」なのだと、最近はよく分かってきた。まず第一に、中国語に自信が無くコミュニケーションが苦手であること、そして次に、これがいかにも日本らしいのだが、苦情を申し立てて相手と揉めるのがイヤなのだ。中国だけでなく、自分の主張を通すことが正しいと思っている国が多い中、日本人の内向性、よく言えば奥ゆかしさが、こうやって後手後手になって面倒をよそに押し付けることになる。
「オ部屋を、替えるように言えばイイですカ?ゴ希望は、ありマスカ?」
ほとんど日本語に不自由はなのだが、まだまだチームの郎主任や他の上司たちに比べれば、一海の日本語には中国語訛が消えない。
「ええっと…」
困惑したような顔をして、日本人のゲストは周囲を見回した。
「あ!君!」
呼び止められたのは、パーティー会場からビュッフェの料理を皿いっぱいに盛って戻った、石一海の先輩である百瀬茉莎実だった。
「はい?ああ、長浜さま、でしたっけ?」
以前、中国企業との契約関係で訪中した際に、アテンドした百瀬を覚えていて、声を掛けたのだった。
「その節は、どうも」
「こちらこそ、どうも」
また、中国語に翻訳できないような日本語で長浜と呼ばれたゲストと百瀬は、日本人らしい挨拶を交わした。
「ちょっと、お願いしたいんですけど、いいですか?」
長浜氏は、一海を無視するかのように、同じ内容を百瀬に依頼し始めた。百瀬はチラリと一海の様子を見て、すぐに察した。こういうことは、何度も見ているし、経験もしている。
「シーくん、怎様?(どうなの?)」
百瀬は長浜氏に聞こえないよう、小声でしかも注意深く中国で一海に囁いた。
〈部屋を替えるように、ホテルに電話するだけなんです。だから、希望があればホテルに伝えるからと、聞いたんですけど〉
一海の説明に、百瀬は納得したように頷いた。
「では、長浜さま、うちの石一海がホテルに電話しますので、ホテル側に伝えるご希望などありませんか?」
一海と同じことを丁寧な、ネイティブの日本語で聞きなおしただけだったが、長浜氏はニコニコして答えた。
「できれば、今と同じフロアがいいです」
その言葉に、百瀬が目配せをすると、一海もすぐにホテルに電話をし、長浜氏の希望を伝えた。
「彼に任せておけば、私が交渉するより確かです。ご安心ください」
全く理解できない中国語で為される電話での交渉を、不安そうに見つめる長浜氏に、百瀬はニッコリとして言った。
「等一下!(ちょっと待って)」
電話を一旦保留にし、一海は長浜氏ではなく、百瀬に声を掛ける。
「公園側と街側の部屋が、アリそうデス」
弱気な一海に、百瀬はさっと視線で指示を送る。すると慌てて、一海も長浜氏に切り替える。
「ドチラが、ご希望デスカ?」
言葉の意味は伝わっているだろうに、長浜氏は通訳を求めるように百瀬を見た。
「朝は、窓から見える公園側の緑がキレイですし、夜景は街側の方がキレイですよ」
百瀬はアドバイスだけを与えて、長浜氏に選択を促した。
「じゃあ、公園側で」
長浜氏が答えると、一海と百瀬は顔を見合わせ頷いた。すぐに、一海がホテル側に伝える。
電話を続けながら、一海はウンウンと頷き、手の甲にボールペンでメモを取り始めた。
「長浜サマ、お部屋の変更は出来マシタ」
そう言って、一海はさっとポケットからメモ帳を取り出し、さらさらと見やすい日本語で必要なことを書いた。そして、もう1枚には中国語で書きだす。
「今のオ部屋1812号室から、1827号室へ替わりマス。お戻りにナッタら、フロントにコチラをお見せくだサイ。一番下にあるのは、私の携帯番号デス。何かアリましたら、ご連絡くだサイ」
「ありがとうございます。石(せき)さん、ですか。ご丁寧にすみません」
ようやく長浜氏は、石一海が仕事が出来るということを認めたらしく、笑顔で礼を言った。
「百瀬さんも、ありがとうございました」
「いいえ、私は何も。全部、シーくんのやったことです」
百瀬も笑顔で応え、長浜氏は安心したようにパーティー会場へと戻って行った。
「謝(ありがと)。百瀬先輩がいなかったら、ヤバかったヨ」
一海は、ガッカリとした表情で自信無さげにそう言った。
「何言ってるの!シーくんの日本語は上手だし、手配も私なんかよりずっと丁寧で、的確じゃない。日本人の悪いトコだよ、同じ日本人しか信用しませんって態度」
本人である石一海よりも、百瀬の方が怒ったように言い放った。
「せっかくの料理も冷めちゃったじゃん!シーくん、早く食べよ!」
そういうと、百瀬と一海はソファに並んで、一流ホテルのビュッフェ料理を味わい始めた。
「ローストビーフ、ウマいね」
嬉しそうに一海が言うと、
「こっちのエビのカクテルも好き~」
と、百瀬も満足げに頷き、2人は仲良く、美味しそうに食べていた。
「何を、しているんです?」
その時、上の方から、芯まで凍りそうな冷ややかな声がした。
思わず手を止めた2人は、恐るおそるその相手を見上げた。間違うはずが無かった。この誰よりも冷ややかな声は、チームの主任・郎威軍の声だった。
「パーティー会場とは言え、仕事中ですよ」
「でも、加瀬部長が食べていいって…」
思わず百瀬が口答えをする。その名に、ついつい郎主任の美しい柳眉が寄せられた。
「またですか…、あの人は」
上司である加瀬部長までも叱りつける勢いで、郎主任はパーティー会場へと身を翻した。その姿すら美貌ゆえの優雅さに見え、百瀬と石一海はしばらく見とれていた。
ようやく我に返って、百瀬は残りの料理を食べ始めた、
「…可以吃嗎?(食べていいのかな?)」
一海は心配そうに手を止めて言った。
「気にしない、気にしない」
有能で自他共に厳しい郎主任は、上層部からも一目置かれ、部下たちからは恐れられている。郎主任の前では、自分たちが無能に見えるからだ。
しかし、日本人でありながら、現地採用の契約社員でしかない百瀬は、それほど主任に怯えてないように一海には見えた。
「百瀬先輩是…太奇妙了(百瀬先輩って、スゴイっすよね)」
「哈?你什么意思?(はあ?なにが?)」
気弱な笑みを浮かべながら、ポツンと呟く石一海に、百瀬は不思議そうに聞き返した。
〈さっきのクライアントにも、失礼にならないように対応してたし、郎主任のことだって怖がってない〉
自己嫌悪に陥ったように、一海は俯いてしまった。
〈何言ってんの!さっきの事は、石くんだけでもちゃんと対応できた。足りないとしたら、経験だけよ。石くんは、賢いし、優秀だし、もっと自信を持ちなよ!〉
百瀬は、一生懸命励まそうとしたが、一海の耳には届いていないようだった。
〈郎主任のことだって…。私だって怒られたくないから、仕事中はビクビクしてるわよ。でも、怒られたって私は所詮、契約社員だもの。辞めたらそれまで。それに…、思ってるより、郎主任って人間的で優しい人のような気がする〉
「ええ!?」
思わず、一海は日本語で叫んでいた。郎主任はアンドロイドだと思っている石一海にとって、人間的で優しい人だと評する百瀬が信じられなかった。
「郎主任が優しい?ダイジョウブですか、百瀬先輩」
一海は、本気で心配そうに聞きただそうとした。その時だった。
「誰が優しいって?」
声を掛けられ、2人は驚いて振り向いた。そこには、コーヒーを手にした加瀬部長が居た。
「!加瀬部長!ビュッフェにデザート出てるんですか?」
「もちろん♪」
部長の返事に、百瀬は慌ててパーティー会場に戻って行った。追加で出されたケーキなどのデザートを、何としても手に入れるつもりだ。
その結果、日本語しか通じない部長と2人取り残されてしまい、石一海はまた自信を無くした顔をした。
「どないした、シーくん?」
日本語だけでも自信が無いのに、加瀬部長は関西地方の方言を使うため、さらに難しい。大体のニュアンスは分かるし、慣れてきたおかげでクライアントとの対応時にも活かされているが、苦手意識はそう簡単には払拭できないのだ。
「クライアントに、ウマく対応できなくて…」
俯いたまま話す部下に、部長は困ったように眺めることしかできなかった。
「う~ん、シーくんは優秀やと思うで。けど、まだ若いし、経験も足りひん。そやから、日本人のクライアントの気持ちが汲めへんとこもある」
まさに、そこだった。どれほど日本語が上達しても、それだけではない何かが自分に足りないと、一海は自覚していた。
「ホンマ、まだ分からへんと思うけど、経験しかないねん。百瀬が器用にこなしてるのは、同じ日本人やから。郎主任が有能なのは、経験を積んでるからや。だてにアンドロイドやってんちゃうで」
そう言われて、石一海は不思議そうに加瀬部長を見た。
「つまり、経験的に、日本人の感情を理解できひんなら、最初から仕事に感情を持ち込まへんってことにしてるんや」
「え!主任ほどの人でも?」
郎主任ほど優秀な人でも、日本人の感情が理解できないのかと、一海は驚いた。
そんな若くて生真面目な石一海の純粋さに、加瀬部長は微笑ましく思った。
「経験が、一人一人の仕事のやり方っていうものを決めていく。シーくんのやり方は、これから見つけていくんやで」
声優部長と揶揄されるほどの優しい美声で、加瀬部長は部下に言って聞かせた。
「心配ない。シーくんが、今の郎主任の年になったら、同じかそれ以上に仕事が出来るようになってるで」
そう言って、部長はポンと一海の肩を叩いた。
「ありがとうございマス」
部長に励まされ、石一海は少し元気になって、無邪気な笑顔になった。
(お、意外にカワイイやん)
オタク青年とレッテルを張っていた石一海の笑顔が、花が綻んだような可憐さなのに気付き、口には出さずとも、上司はニヤリと下心のある顔をした。
「ここに居ましたか」
その時、突然に聞き覚えのある氷の声がした。
「あ、郎主任」
石一海が振り返ってその美しい姿を認める一方、部長は何故か気まずそうに顔も上げられなかった。
「あちらで、お話があります」
有無を言わせぬ厳しい口調で、郎主任が加瀬部長に言った。その冷酷な響きに、ゾッとした気持ちで見守る一海だった。
「ほ、ほな、シーくん、頑張って…」
まるで引きずられるようにして、そのまま部長は主任に連れ去られて行った。
(どっちかと言うと、部長の方が頑張る必要がある気がする…)
不思議な思いで2人の上司を見送ると、一海は1人取り残された。
(経験、か…)
大学を卒業して、すぐに外資系のこの会社に入社できたのは幸運だった。好きな日本語も活かせるし、さらに学ぶことも出来る。先輩たちは優しいし、仕事はまるで「万事通(何でも屋)」のようで、多岐に渡って忙しく、まだまだ満足のいく結果ばかりではないが、やりがいがあって嫌いでは無い。
「你(君)…」
不意に声を掛けられ、一海は驚いて顔を上げた。
そこに居たのは、ファッション雑誌から抜き出たようなスタイリッシュな紳士だった。長身の美丈夫である郎威軍主任よりも、さらに上背があるように見える。だが、モデル風の華奢な印象の郎主任と違い、スポーツで鍛えたような、肩幅も広く、胸板も厚い存在感のある堂々とした体躯の持ち主だった。
(格好いい人だな~)
あまりの見た目の良さに、一海は返事も忘れて、ぼんやりと相手を見詰めた。
「君、サクラ・オフィスの人かな」
「あ、は、はい!」
石一海は、慌てて椅子から飛び上がって答えた。
「は、ボク、サクラ・オフィスの石一海デス」
見上げるように顔を見ると、顔立ちもまた整っている。
一海が知っている美形と言えば、中性的で左右対称の造形美の郎威軍主任だが、この紳士は、もっと目鼻立ちがはっきりとした男らしい凛々しい顔だ。浅黒く日焼けした肌がワイルドに見えるが、涼し気な目元や、理知的な口元などに気品が溢れている。
(「偉丈夫」って、こういう感じの人かなあ)
すでに憧れの眼差しで、一海は紳士を見詰めていた。
「なら、悪いが、額田社長を呼んできてくれないか」
「はい!」
オフィスの社長を名指しされ、石一海は驚いて返事をすると、急いで会場内に飛び込んだ。
「おい、君!」
紳士の掛けた声も聞こえない様子で、一海は姿を消した。
「なんだ、名前も聞いてもらえないのか」
取り残された紳士は、思わずそう呟いて苦笑した。
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