バカヤロウは愛の言葉
軽妙なリズムで、ドアがノックされる。
コン、コン、ココン!
三回半。
これは、ちょっとクセのある叩き方。他の誰でもない、特定の人物だ。
このノックの後、ちゃんと室内から声が掛かるまで、この律儀な人物はただ黙って廊下で待っている。
(忠犬並みじゃないか)
そう思いつつ、研究室常駐の白衣の人は、にこやかに彼を迎え入れる。
「誰だ? 入れよ」
確かめるまでもなく、ドアの外にいるのが西野(にしの)周太(しゅうた)だというのは、分かっている。なのに、わざとそういう言い方をする癖があるのだ、この的場(まとば)真弥(しんや)という医師は。
「失礼しますッ」
この、いつまでたっても捨てられない几帳面さが、あまりにも周太らしくて、真弥先生は、腹を抱えて笑いたくなるほどおかしいのだ。
そしてそこがまた、愛しい。
だから、つい可愛さ余って、ちょっとしたイジワルなんぞしてみたくなる。でも、決して酷いことは出来ない。周太は、可哀相な位に我慢強いので、あんまり追い詰めると痛々しくて、真弥先生は見ていられなくなるのだ。
要するに、それが惚れた弱みなのかもしれない。
「こんにちわ、真弥先生」
ペコリと頭を下げる周太。その見た目にもはっきりと上下関係を示そうとする、折り目正しい態度が、また真弥先生の悪い癖をくすぐる。都合のいいことに、今日は土曜で、この研究室には真弥先生一人しかいない。
「お前、何してたんだ」
第一声から、不機嫌な声。苛(いじ)められているとも知らず、周太は無防備だ。
「えっ? 僕、何かしたでしょうか?」
周太の目が、大きく見開かれる。それは、黒目がちの、澄んだ、とてもいい目をしていた。
「俺んとこよりも先に、佐々木の所に顔を出しただろ」
「そ、それは。仕方ないですよー」
周太は、丸富製薬の営業マンである。主な取引相手は病院や医院である。
一方、真弥先生は、医師と言っても、ここ誠信学院大学医学部の研究室詰めで、余程のことがない限り業者との応対を行うことなどない。
言ってみれば、誠信学院大薬学部卒と言うだけで、真弥先生に目を付けられたからと言って、(本当は、先生の意図は別にあるのだが、周太はまだ知らない)附属病院出入りの製薬会社の新入社員でしかない周太が、真弥先生の所に一々挨拶に立ち寄る義理など、本当は無いのだ。
まして、病院の佐々木先生の所より先に真弥先生の元に、なんて、本来の目的を考えると、そこからずーっとかけ離れている。
大体、真弥先生が周太に突きつける言葉は、どうも不条理なことが多い。そこに何らかの意味があることくらい、4月からの付き合いで、そろそろ半年も経とうというのだから、気が付いてもよさそうなものだ。
だが、周太は気づかないし、真弥先生も決して悟らせようとはしない。
「お前、いそいそと佐々木のトコに通ってるようだけど、ひょっとして、あいつに気があるんじゃないだろうな」
突き放すように真弥先生は言って、泣きそうな顔の周太から「ぷんっ」と顔を背けた。
「そんなこと、ないですよー」
心細い声を出して否定する周太を、真弥先生は正面から見ようとはしない。だけど、しっかりと横目で、壁に掛かった鏡に映った周太の表情を余さず見つめている。
狡賢い真弥先生にかかっては、周太の言動など、何もかも計算済みなのだ。
ほら、やはり周太は真弥先生が自分を見ていないと思って、蕩(とろ)けそうに切ない表情をして、聞こえないようにそっとため息を落とした。自分から、何か言い出してくればいいのに。でも、周太は何も言えない。
元々、西野周太は、事実無根のことで佐々木先生とのことをからかわれても、ムキになって否定するようなタイプじゃない。まして相手が目上の真弥先生なら、言われるがままに黙ってしまっても仕方ないかもしれない。
でも、こんな風に口ごもって恨みがましい顔をしているのには、本当はもっと違う意味がある。
その理由というのを、あの頭のいい真弥先生が勘づかないはずがない。だからこそ、真弥先生は横目で周太の様子を観察しながら、なおさら苦笑がこみ上げる。
(ったく、単純で、可愛いヤツだよ。お前ってヤツは)
実際、周太は22歳にしては童顔だし、内面の素直さが前面に現れているような、パーフェクトな「好青年」だ。10人いれば、9人までがその評価に賛同するだろう。残った一人は、きっと素直になれないひねくれ者の、真弥先生に違いない。
とにかく、対人の第一印象が勝負の「営業マン」なるべくして生まれてきたような、だれにでも好印象を与える周太だった。
こんな周太は、あちこちで人気者だ。病院の看護婦さんたちの間でも、時々、周太の姿を見つけては嬌声が上がるほどだ。
けれど、周太自身がそれを望んだわけでもないし、それを喜んでいたわけでもない。
「なぁ、周太」
突然、真弥先生が振り返って、周太の暗い顔を覗き込んだ。
「っ!」
すぐ目の前に、真弥先生の男っぽい顔が迫っていた。周太の心臓はもうドキドキして、このストレスだけで、か弱い心臓に三年分位の負担をかけただろう。
「お前さー、本当に、佐々木と何でも無いって、言えるのか?」
息までが、顔にかかる。
(あ、今日の真弥先生のおやつは、病院前の洋菓子屋「南蛮堂」のレモンパイみたいだ)
オレンジキュラソーと爽やかなレモン果汁の香りを真弥先生の呼気に感じて、うっとりとしながら周太は呑気なことを考えていた。
(このまま、目を閉じたら真弥先生、どうするだろう)
だが、いくら周太といえどもそんなアホなことはしていられない。
しっかりと大きな瞳を見開いて、真弥先生の、日に焼けた精悍な顔にじっと見入った。
「一体、何があるっておっしゃりたいんですか」
可哀相なことに、周太にはそれだけを言うのが精一杯だった。これ以上真弥先生の顔が近づいて来たら、周太は、自分がどうにかなってしまうのではないかと心配になったのだ。
「そ、か。それなら、いいけど」
満足そうにニッと笑うと、またも唐突に真弥先生はぷいと周太の側からはなれた。
やっと、周太はホッとした。
こんな単純な周太の態度から、彼の切ない気持ちなんて、他人の目からみればバレバレだ。それがたとえ真弥先生でなくても、すぐに気づくだろう。なのに、周太本人は、絶対に誰にも知られていないと、固く信じきっている。その上、真弥先生に対しても、これから先も決して悟られまいと心に決めているのだ。
これは、ここまでくると、健気を通り越してちょっとおバカさんな状態なのだが、真弥先生は、実は周太のそんな周太の子供っぽい愚かさが、少し気に入っている。
真弥先生は、特にズバ抜けてハンサムというわけではない。それなりに見栄えはする方ではあるが、この人の魅力は、むしろその独特の雰囲気だ。
例えば、その声。仕種。表情。そして深い瞳。どれを取っても、他人を包み込もうとするような寛容さが感じられる。お仕着せの親切なんかを安売りするような人ではないけれど、決して優しくないわけじゃない。真弥先生は、人に知られない場所に「思いやり」とか「誠実さ」とかを持っていて、それらを、何気ない所でさりげなくみせたりなんかする人なのだ。
そんな真弥先生の魅力の全てを、どれくらいの人が気づいて、評価してくれているのか周太は知らない。だけど真弥先生は、そんな他人の評価を必要とせずに生きていくタイプだったし、周太には、自分だけが皆の知らない真弥先生の良さを知っていることで満足だった。
「座って待ってろ、周太」
立ち上がって、真弥先生はいつものように、周太のためにコーヒーを煎(い)れてくれる。周太は長い間、それが自分のためだとは気づかなかった。
先生が周太にコーヒーを出してくれる時、いつもぶっきらぼうな態度で、いかにも自分が飲むついでに出してやる、といった感じだった。けど、味はすごく良い。だから周太は、てっきり真弥先生が大のコーヒー党で、自分はあくまでもお相伴させてもらってるだけだ、と思っていた。
しかし、ある日。
「周太クンは、どうも特別みたいだねぇ」
真弥先生が「周太、周太」と呼び捨てにするため、この研究室では誰一人として、周太を一人前の営業マンとして扱ってくれない。でも、周太もこの気安さが、この立場の難しい場所を居心地の良いものにしていることを知っていた。
「特別、ですか?」
主任の占部教授の言葉に、周太はポカンとしていた。
「どういう意味でしょうか、教授?」
可愛い周太に、占部教授までが意地悪く笑った。
「的場君は、普段は自分のためにだってお茶の一杯も煎れない男だよ。インスタントコーヒーですら、面倒だっていうんだから。それを、君にはわざわざ自分から煎れてくれたんだろう?」
その時、幸い真弥先生は周太にコーヒーを出しただけで、席を立っていた。本人が居たら、絶対に許されない会話だったろう。
(真弥先生が、僕のために……)
それを知らされた時、周太は完全に敗北した。それまでは、自分の中に芽生え始めた感情を認めてはいけないと、必死で自分に言い聞かせていたのだ。だが、巧妙な真弥先生のテクニックの前に、周太は呆気ないほど自分との戦いに負けた。そして、認めざるをえなくなったのだ。
自分こと西野周太は、的場真弥医師が好きです、と。
「それにしても、お前と佐々木が何でもなくてよかった」
真弥先生は厭味なほど(いや、実際に厭味なのだが)、にこやかにその言葉を繰り返した。
もちろん真弥先生は、周太の心の動揺を計算の上での発言だ。自分の秘めた(どこが?)恋心が、よもやその当人に知られているとは、夢にも思わないおバカな周太は、真弥先生の厭味一つにも思い当たらず、きょとんとしている。
でも、もしかして、それって先生も僕のこと……。つまらないとは思いながらも、周太は淡い期待を消せずにいた。
しかし、真弥先生はそれすらも読んでいる。そして、わざわざ期待させておいて裏切るつもりなのだ。
「佐々木は、俺の物だ。お前に望みはないぞ」
「……」
その言葉が、真弥先生お得意の冗談だろうということくらいなら、さすがにおバカな周太だって分かる。だけどそれはまるで、おバカな自分が真弥先生のことをいくら想っても、「望みはない」と言われたような気がして、周太は堪らなく悲しくなった。
佐々木医師は、誠信学院大学医学部附属病院の小児科の先生で、周太にとっては大事な顧客の一人である。先生は、医学部時代に真弥先生の後輩で、同じ循環器系講座に所属していた。頭の回転が速く、真弥先生とも肩を並べて話が出来るほど、巧みな話術とセンスを持っている。だから、多分、真弥先生も佐々木先生とは、あんなに楽しそうに話をするんだろう。しかも、佐々木先生は、アイドル系の甘く端正な顔だちをした美青年だ。診察室は子供たちより、佐々木先生の顔見たさのお母さん達の方が目立つほどに。
そう言えば、周太が初めて真弥先生に会ったのも、佐々木先生の診察室だった。
真弥先生と同じくらいにお利口で、皆の目を引くルックスで……。なんだかこんな佐々木先生が、周太にはピカピカ光ったスターみたいに思えて、ちょっと気後れした。そんな先生に比べたら、自分はただの石ころでしかないと思う。
真弥先生のこんな冗談一つでも、佐々木先生ならどれほど見事に受け流すだろう。考えれば考えるほど、気が重くなる。周太はとうとう黙り込んでしまった。
が、これこそイジワルな真弥先生の狙いなのだ。この落ち込んで心細い顔をした周太が、真弥先生の一番のお気に入りなのだ。
あの大きな瞳を潤ませている、頼り無げな周太の横顔に、真弥先生は邪(よこし)まな喜びを見いだしている。
笑っている時や真剣になって話し込んでいる時の周太は、真弥先生にとってただ可愛いだけだが、こうやって弱い所を晒した周太の表情は、妙に色っぽい。これがなければ、真弥先生にしても、周太を単にからかって遊ぶだけの存在としか見なさないだろう。ま、今のところその待遇に大して違いはないようだが、真弥先生の胸の内は大いに違う。
実のところ今となっては、真弥先生は、周太が先生を想う以上に、周太を好きになっていた。周太が、未だ思いも寄らないことまで求めてしまいそうなほど、真弥先生は周太に想いを寄せていた。
故に、周太に対する冷たい態度には、真弥先生自身が、自分の気持ちにセーブをかける意味も……無いとは言えなくもない。
「あ、周太。それよりな……」
真弥先生の口調が変わって、周太は慌てて自分を取り戻した。
「はい?真弥先生」
「この前言ってた、来月の学会。お前も、申し込んでおいたぞ」
「え?」
「日程は、12日の金曜から、土、日。2泊3日だ。金曜の午後にこっちを発つ。用意しとけよ」
真弥先生は自分だけのペースで、どんどん話を進める。驚いて、口を開けたまま話を聞き入っていた周太だったが、ハッとして慌てて発言した。
「先生!その件ですが、僕はご一緒出来ません」
「何だ、不満でもあるのか?」
真弥先生は、ムッとしたというよりも、呆れ返っているように見えた。
「不満っていうんじゃなくて……。会社の方が、僕なんかを学会に行かせてなんてくれませんよ」
「なんで。学会のある京都に行きたいと言ったのは、お前だろうが」
周太は、困ったように肩を竦めた。真弥先生と旅行に行けなくなったからって、絶対に露骨に残念そうな顔や悲しそうな顔をしちゃいけない、と思った周太の、精一杯のそれが表現だった。でも、やはり真弥先生にはお見通しだ。
「お前が、行きたくないって言うなら、話は別だけどな」
「そんなこと、ないですッ!」
慌てた周太に、それ見たことかと、真弥先生は内心ほくそえむ。
「お前が関心を持ってるなら、申請を出してみることだ。確かお前の前任者は、うちの教授と出張したことがあるはずだぞ」
「そりゃ、橋本さんは、元々が研究畑の人でしたし……」
どうせ周太なんかに、真弥先生を言い負かすことなど出来るはずもなく、ただ口ごもるしかない。
「とにかく、前例があるんだ、お前に行く気さえありゃ、何にも問題は無いよ」
すっかり解決した気で得意満面の真弥先生は、カラカラと上機嫌で笑った。
「でも、真弥先生……」
「まだ言うか!」
上目遣いで自分を見る、この悩ましげな迷える子羊の頭を、真弥先生はポカリと軽く小突いた。
「出張がダメなら、いっそ有給取ってでも来い!経費は俺が負担してやる」
「いけませんッ!真弥先生に、そんなご迷惑掛けられません」
でも、この時の周太の気持ちは、言葉とは裏腹だ。当然だろう。大好きな真弥先生と、二人っきりで旅行に出る。これはもう、周太にとって天にも昇る心地の、幸せな奇跡のようだった。
真弥先生もまた、嬉しそうにしてくれる周太の姿を前にして、十分に幸せを味わっていた。旅先での若干の期待を込めて……。
コン、コン、ココン!
三回半。
これは、ちょっとクセのある叩き方。他の誰でもない、特定の人物だ。
このノックの後、ちゃんと室内から声が掛かるまで、この律儀な人物はただ黙って廊下で待っている。
(忠犬並みじゃないか)
そう思いつつ、研究室常駐の白衣の人は、にこやかに彼を迎え入れる。
「誰だ? 入れよ」
確かめるまでもなく、ドアの外にいるのが西野(にしの)周太(しゅうた)だというのは、分かっている。なのに、わざとそういう言い方をする癖があるのだ、この的場(まとば)真弥(しんや)という医師は。
「失礼しますッ」
この、いつまでたっても捨てられない几帳面さが、あまりにも周太らしくて、真弥先生は、腹を抱えて笑いたくなるほどおかしいのだ。
そしてそこがまた、愛しい。
だから、つい可愛さ余って、ちょっとしたイジワルなんぞしてみたくなる。でも、決して酷いことは出来ない。周太は、可哀相な位に我慢強いので、あんまり追い詰めると痛々しくて、真弥先生は見ていられなくなるのだ。
要するに、それが惚れた弱みなのかもしれない。
「こんにちわ、真弥先生」
ペコリと頭を下げる周太。その見た目にもはっきりと上下関係を示そうとする、折り目正しい態度が、また真弥先生の悪い癖をくすぐる。都合のいいことに、今日は土曜で、この研究室には真弥先生一人しかいない。
「お前、何してたんだ」
第一声から、不機嫌な声。苛(いじ)められているとも知らず、周太は無防備だ。
「えっ? 僕、何かしたでしょうか?」
周太の目が、大きく見開かれる。それは、黒目がちの、澄んだ、とてもいい目をしていた。
「俺んとこよりも先に、佐々木の所に顔を出しただろ」
「そ、それは。仕方ないですよー」
周太は、丸富製薬の営業マンである。主な取引相手は病院や医院である。
一方、真弥先生は、医師と言っても、ここ誠信学院大学医学部の研究室詰めで、余程のことがない限り業者との応対を行うことなどない。
言ってみれば、誠信学院大薬学部卒と言うだけで、真弥先生に目を付けられたからと言って、(本当は、先生の意図は別にあるのだが、周太はまだ知らない)附属病院出入りの製薬会社の新入社員でしかない周太が、真弥先生の所に一々挨拶に立ち寄る義理など、本当は無いのだ。
まして、病院の佐々木先生の所より先に真弥先生の元に、なんて、本来の目的を考えると、そこからずーっとかけ離れている。
大体、真弥先生が周太に突きつける言葉は、どうも不条理なことが多い。そこに何らかの意味があることくらい、4月からの付き合いで、そろそろ半年も経とうというのだから、気が付いてもよさそうなものだ。
だが、周太は気づかないし、真弥先生も決して悟らせようとはしない。
「お前、いそいそと佐々木のトコに通ってるようだけど、ひょっとして、あいつに気があるんじゃないだろうな」
突き放すように真弥先生は言って、泣きそうな顔の周太から「ぷんっ」と顔を背けた。
「そんなこと、ないですよー」
心細い声を出して否定する周太を、真弥先生は正面から見ようとはしない。だけど、しっかりと横目で、壁に掛かった鏡に映った周太の表情を余さず見つめている。
狡賢い真弥先生にかかっては、周太の言動など、何もかも計算済みなのだ。
ほら、やはり周太は真弥先生が自分を見ていないと思って、蕩(とろ)けそうに切ない表情をして、聞こえないようにそっとため息を落とした。自分から、何か言い出してくればいいのに。でも、周太は何も言えない。
元々、西野周太は、事実無根のことで佐々木先生とのことをからかわれても、ムキになって否定するようなタイプじゃない。まして相手が目上の真弥先生なら、言われるがままに黙ってしまっても仕方ないかもしれない。
でも、こんな風に口ごもって恨みがましい顔をしているのには、本当はもっと違う意味がある。
その理由というのを、あの頭のいい真弥先生が勘づかないはずがない。だからこそ、真弥先生は横目で周太の様子を観察しながら、なおさら苦笑がこみ上げる。
(ったく、単純で、可愛いヤツだよ。お前ってヤツは)
実際、周太は22歳にしては童顔だし、内面の素直さが前面に現れているような、パーフェクトな「好青年」だ。10人いれば、9人までがその評価に賛同するだろう。残った一人は、きっと素直になれないひねくれ者の、真弥先生に違いない。
とにかく、対人の第一印象が勝負の「営業マン」なるべくして生まれてきたような、だれにでも好印象を与える周太だった。
こんな周太は、あちこちで人気者だ。病院の看護婦さんたちの間でも、時々、周太の姿を見つけては嬌声が上がるほどだ。
けれど、周太自身がそれを望んだわけでもないし、それを喜んでいたわけでもない。
「なぁ、周太」
突然、真弥先生が振り返って、周太の暗い顔を覗き込んだ。
「っ!」
すぐ目の前に、真弥先生の男っぽい顔が迫っていた。周太の心臓はもうドキドキして、このストレスだけで、か弱い心臓に三年分位の負担をかけただろう。
「お前さー、本当に、佐々木と何でも無いって、言えるのか?」
息までが、顔にかかる。
(あ、今日の真弥先生のおやつは、病院前の洋菓子屋「南蛮堂」のレモンパイみたいだ)
オレンジキュラソーと爽やかなレモン果汁の香りを真弥先生の呼気に感じて、うっとりとしながら周太は呑気なことを考えていた。
(このまま、目を閉じたら真弥先生、どうするだろう)
だが、いくら周太といえどもそんなアホなことはしていられない。
しっかりと大きな瞳を見開いて、真弥先生の、日に焼けた精悍な顔にじっと見入った。
「一体、何があるっておっしゃりたいんですか」
可哀相なことに、周太にはそれだけを言うのが精一杯だった。これ以上真弥先生の顔が近づいて来たら、周太は、自分がどうにかなってしまうのではないかと心配になったのだ。
「そ、か。それなら、いいけど」
満足そうにニッと笑うと、またも唐突に真弥先生はぷいと周太の側からはなれた。
やっと、周太はホッとした。
こんな単純な周太の態度から、彼の切ない気持ちなんて、他人の目からみればバレバレだ。それがたとえ真弥先生でなくても、すぐに気づくだろう。なのに、周太本人は、絶対に誰にも知られていないと、固く信じきっている。その上、真弥先生に対しても、これから先も決して悟られまいと心に決めているのだ。
これは、ここまでくると、健気を通り越してちょっとおバカさんな状態なのだが、真弥先生は、実は周太のそんな周太の子供っぽい愚かさが、少し気に入っている。
真弥先生は、特にズバ抜けてハンサムというわけではない。それなりに見栄えはする方ではあるが、この人の魅力は、むしろその独特の雰囲気だ。
例えば、その声。仕種。表情。そして深い瞳。どれを取っても、他人を包み込もうとするような寛容さが感じられる。お仕着せの親切なんかを安売りするような人ではないけれど、決して優しくないわけじゃない。真弥先生は、人に知られない場所に「思いやり」とか「誠実さ」とかを持っていて、それらを、何気ない所でさりげなくみせたりなんかする人なのだ。
そんな真弥先生の魅力の全てを、どれくらいの人が気づいて、評価してくれているのか周太は知らない。だけど真弥先生は、そんな他人の評価を必要とせずに生きていくタイプだったし、周太には、自分だけが皆の知らない真弥先生の良さを知っていることで満足だった。
「座って待ってろ、周太」
立ち上がって、真弥先生はいつものように、周太のためにコーヒーを煎(い)れてくれる。周太は長い間、それが自分のためだとは気づかなかった。
先生が周太にコーヒーを出してくれる時、いつもぶっきらぼうな態度で、いかにも自分が飲むついでに出してやる、といった感じだった。けど、味はすごく良い。だから周太は、てっきり真弥先生が大のコーヒー党で、自分はあくまでもお相伴させてもらってるだけだ、と思っていた。
しかし、ある日。
「周太クンは、どうも特別みたいだねぇ」
真弥先生が「周太、周太」と呼び捨てにするため、この研究室では誰一人として、周太を一人前の営業マンとして扱ってくれない。でも、周太もこの気安さが、この立場の難しい場所を居心地の良いものにしていることを知っていた。
「特別、ですか?」
主任の占部教授の言葉に、周太はポカンとしていた。
「どういう意味でしょうか、教授?」
可愛い周太に、占部教授までが意地悪く笑った。
「的場君は、普段は自分のためにだってお茶の一杯も煎れない男だよ。インスタントコーヒーですら、面倒だっていうんだから。それを、君にはわざわざ自分から煎れてくれたんだろう?」
その時、幸い真弥先生は周太にコーヒーを出しただけで、席を立っていた。本人が居たら、絶対に許されない会話だったろう。
(真弥先生が、僕のために……)
それを知らされた時、周太は完全に敗北した。それまでは、自分の中に芽生え始めた感情を認めてはいけないと、必死で自分に言い聞かせていたのだ。だが、巧妙な真弥先生のテクニックの前に、周太は呆気ないほど自分との戦いに負けた。そして、認めざるをえなくなったのだ。
自分こと西野周太は、的場真弥医師が好きです、と。
「それにしても、お前と佐々木が何でもなくてよかった」
真弥先生は厭味なほど(いや、実際に厭味なのだが)、にこやかにその言葉を繰り返した。
もちろん真弥先生は、周太の心の動揺を計算の上での発言だ。自分の秘めた(どこが?)恋心が、よもやその当人に知られているとは、夢にも思わないおバカな周太は、真弥先生の厭味一つにも思い当たらず、きょとんとしている。
でも、もしかして、それって先生も僕のこと……。つまらないとは思いながらも、周太は淡い期待を消せずにいた。
しかし、真弥先生はそれすらも読んでいる。そして、わざわざ期待させておいて裏切るつもりなのだ。
「佐々木は、俺の物だ。お前に望みはないぞ」
「……」
その言葉が、真弥先生お得意の冗談だろうということくらいなら、さすがにおバカな周太だって分かる。だけどそれはまるで、おバカな自分が真弥先生のことをいくら想っても、「望みはない」と言われたような気がして、周太は堪らなく悲しくなった。
佐々木医師は、誠信学院大学医学部附属病院の小児科の先生で、周太にとっては大事な顧客の一人である。先生は、医学部時代に真弥先生の後輩で、同じ循環器系講座に所属していた。頭の回転が速く、真弥先生とも肩を並べて話が出来るほど、巧みな話術とセンスを持っている。だから、多分、真弥先生も佐々木先生とは、あんなに楽しそうに話をするんだろう。しかも、佐々木先生は、アイドル系の甘く端正な顔だちをした美青年だ。診察室は子供たちより、佐々木先生の顔見たさのお母さん達の方が目立つほどに。
そう言えば、周太が初めて真弥先生に会ったのも、佐々木先生の診察室だった。
真弥先生と同じくらいにお利口で、皆の目を引くルックスで……。なんだかこんな佐々木先生が、周太にはピカピカ光ったスターみたいに思えて、ちょっと気後れした。そんな先生に比べたら、自分はただの石ころでしかないと思う。
真弥先生のこんな冗談一つでも、佐々木先生ならどれほど見事に受け流すだろう。考えれば考えるほど、気が重くなる。周太はとうとう黙り込んでしまった。
が、これこそイジワルな真弥先生の狙いなのだ。この落ち込んで心細い顔をした周太が、真弥先生の一番のお気に入りなのだ。
あの大きな瞳を潤ませている、頼り無げな周太の横顔に、真弥先生は邪(よこし)まな喜びを見いだしている。
笑っている時や真剣になって話し込んでいる時の周太は、真弥先生にとってただ可愛いだけだが、こうやって弱い所を晒した周太の表情は、妙に色っぽい。これがなければ、真弥先生にしても、周太を単にからかって遊ぶだけの存在としか見なさないだろう。ま、今のところその待遇に大して違いはないようだが、真弥先生の胸の内は大いに違う。
実のところ今となっては、真弥先生は、周太が先生を想う以上に、周太を好きになっていた。周太が、未だ思いも寄らないことまで求めてしまいそうなほど、真弥先生は周太に想いを寄せていた。
故に、周太に対する冷たい態度には、真弥先生自身が、自分の気持ちにセーブをかける意味も……無いとは言えなくもない。
「あ、周太。それよりな……」
真弥先生の口調が変わって、周太は慌てて自分を取り戻した。
「はい?真弥先生」
「この前言ってた、来月の学会。お前も、申し込んでおいたぞ」
「え?」
「日程は、12日の金曜から、土、日。2泊3日だ。金曜の午後にこっちを発つ。用意しとけよ」
真弥先生は自分だけのペースで、どんどん話を進める。驚いて、口を開けたまま話を聞き入っていた周太だったが、ハッとして慌てて発言した。
「先生!その件ですが、僕はご一緒出来ません」
「何だ、不満でもあるのか?」
真弥先生は、ムッとしたというよりも、呆れ返っているように見えた。
「不満っていうんじゃなくて……。会社の方が、僕なんかを学会に行かせてなんてくれませんよ」
「なんで。学会のある京都に行きたいと言ったのは、お前だろうが」
周太は、困ったように肩を竦めた。真弥先生と旅行に行けなくなったからって、絶対に露骨に残念そうな顔や悲しそうな顔をしちゃいけない、と思った周太の、精一杯のそれが表現だった。でも、やはり真弥先生にはお見通しだ。
「お前が、行きたくないって言うなら、話は別だけどな」
「そんなこと、ないですッ!」
慌てた周太に、それ見たことかと、真弥先生は内心ほくそえむ。
「お前が関心を持ってるなら、申請を出してみることだ。確かお前の前任者は、うちの教授と出張したことがあるはずだぞ」
「そりゃ、橋本さんは、元々が研究畑の人でしたし……」
どうせ周太なんかに、真弥先生を言い負かすことなど出来るはずもなく、ただ口ごもるしかない。
「とにかく、前例があるんだ、お前に行く気さえありゃ、何にも問題は無いよ」
すっかり解決した気で得意満面の真弥先生は、カラカラと上機嫌で笑った。
「でも、真弥先生……」
「まだ言うか!」
上目遣いで自分を見る、この悩ましげな迷える子羊の頭を、真弥先生はポカリと軽く小突いた。
「出張がダメなら、いっそ有給取ってでも来い!経費は俺が負担してやる」
「いけませんッ!真弥先生に、そんなご迷惑掛けられません」
でも、この時の周太の気持ちは、言葉とは裏腹だ。当然だろう。大好きな真弥先生と、二人っきりで旅行に出る。これはもう、周太にとって天にも昇る心地の、幸せな奇跡のようだった。
真弥先生もまた、嬉しそうにしてくれる周太の姿を前にして、十分に幸せを味わっていた。旅先での若干の期待を込めて……。
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