村の郵便配達・2

 心配する中埜に抱きかかえられるようにして、いつもの座敷に移動した酒生だったが、座布団の上では不便だろうと、慌てて中埜が縁側から古いラタンの安楽椅子を運んできた。

「ありがとう。随分と楽です」

 ちょっと恥ずかしそうに笑う酒生に、中埜はホッとした様子でいつもと変わりない穏やかな笑顔を浮かべた。

「今日は、大人しくここで座っていて下さいね。俺が、夕飯の用意をしてきます」

 そう言ってキッチンに向かった中埜の背中を見つめながら、酒生はちょっとくすぐったそうに笑った。
 郵便配達員として接していた頃は、中埜は自分のことを「私」と言っていた。しかし、ある時から中埜は「俺」と言うようになった。その変化が、2人の関係を表しているようで、酒生は素直に嬉しかった。

「ん?この香りは…」

 しばらくは暮れていく山並みを眺めていた酒生だったが、中埜が居る台所の方から漂ってくる香ばしい香りに気付いた。
 それが、自分の大好きな、中埜がお得意の唐揚げだと気付いた。期待に胸を膨らませて待っていた酒生の前に、次々と美味しそうな夕飯が並んだ。

「さあ、揚げたての唐揚げですよ!」

 子供のように目を輝かせる酒生に、中埜は優しくほほ笑んだ。

「まだポテトサラダも、ミートボールもありますよ」
「私の好きなものばっかりですね」

 誰よりも自分のことを理解してくれている、酒生は中埜のことをそう思った。それが嬉しくて、幸せで、ずっと頬が緩みっぱなしだ。

「最近、気が付いたんですよ」
「?」

 酒生の無邪気な笑顔に、中埜がからかうように言った。

「昇一郎さんの好きなものって、子供が好きなものですよね。カレーとか、ハンバーグとか、コロッケとか」

 クスリと笑った中埜に、酒生は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにすました顔をして答えた。

「でも、一番好きなのは、中埜さんの作った唐揚げですよ」

 そして箸を伸ばして揚げたての唐揚げを摘まみ、熱さにハフハフ言いながら口にした。

「今度、昇一郎さん向けに『お子様ランチ』を作りましょうね」
「本当ですか!それは楽しみだな~」

 ウキウキとご機嫌になる酒生に、中埜は満足そうに何度も頷いた。

***

 美味しくて、楽しい夕食を終え、酒生と中埜は、いつもと同じく縁側に並び、大きくて丸い月を眺めた。

「あなたの怪我が、大したことなくて本当に良かったです」

 ホッとしたように中埜は言って、上海の黄酒である「石庫門」の20年物のお湯割りを味わった。

「本当ですね。骨折でもしていたら、と今でもゾッとします」

 捻挫のせいでアルコールを控えるように言われている酒生は、中埜が淹れた温かいジャスミンティーを飲んでいる。

「よく聞くんですよ。転倒して、骨折して、そのまま寝たきりになった高齢者っていう話。自分とは関係無いと思っていましたけど、そうでもないみたいで…。もう歳には勝てませんね」

 ちょっと寂しそうに笑った酒生を、中埜はしばらく黙って見つめていた。その目は相変わらず穏やかである一方で、どこか思い詰めたところがあった。

 開け放した縁側に並んだ2人の頬を、心地よい秋風が撫でていく。

「来週には、もう寒くて、こうやって夜に縁側で庭を眺めるなんて出来ないでしょうね」

 明るく言おうと努める酒生だが、どこか寂しさも拭えない。秋の訪れのせいなのか、感傷的な酒生を慰める方法を中埜は知らなかった。

「あの…、中埜さん?」
「なんですか、昇一郎さん?」

 酒生の、好きな人にしか見せない純真で美しい笑顔をキョトンとして見つめる中埜に、酒生はどこかモジモジした様子で言い出しかねているようだった

(もしかして…)

 中埜は、酒生が今夜、自分と同じ思いを抱いているのではないかと、一瞬胸が躍った。

「先ほどから…、言おうかどうしようか、迷ってはいたのですが…」

 言いあぐねる様子の酒生に、中埜はドキドキした。

「言って下さい。…なんでも、あなたの思うままに…」

 期待が高まり、望みを繋ぐ中埜は、真剣な表情になり、強い気持ちで酒生の目を見た。

「じゃあ、思い切って言いますね…」

 中埜は、ついに心待ちにしていた言葉が聞けるのではないかと、思わずゴクリと喉を鳴らした。

「あの~、黄酒は、お湯割りにするより、燗して、少しずつ飲むのがいいですよ」
「え?」

 中埜は、ポカンとした顔になり、そのまま酒生を見ていた。そんな中埜に、酒生も不思議そうな表情になり、2人はしばらく、少し間の抜けた表情で見つめ合った。

「ご、ごめんなさい。中埜さんが、お湯割りがお好きなら、それは個人の嗜好なので私がどうのこうの言うべきではないと思ったのですが…、つい…」

 慌てて言い訳する酒生に、またもや中埜は困った顔をするしかなかった。
 戸惑うような中埜に、酒生もどうしたらいいのか分からなくなり、俯いてしまう。

「ごめんなさい…。また私が中埜さんを不快にしたような気がします…」

 素直にそう言えるのは、酒生が中埜を信じているからだ。誰よりも心を開き、信頼しているからだ。還暦を過ぎてなお、これほどに純粋に誰かを愛することが出来るようになるとは、酒生自身、思いも寄らぬことだった。
 そんな無垢な心を捧げてくれる酒生を、中埜もまた愛しく思う。改めて中埜は酒生への想いが募る。

(もう逃げない)

 中埜はついに決意した。


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