村の郵便配達・2

(中埜さんに、会いたい)

 今朝は、いつも通りに中埜が配達に来る日だと分かっていた。それだけで嬉しくて、雨戸を開け、そのまま気分が良くて浮かれたように庭に出た。1歩、2歩と踏み出した次の瞬間、気が付くと庭の灰色の砂岩の飛び石が目の前にあった。

(あれ?)

 酒生は、朝露に湿った飛び石の端に生えていた苔を踏み、うっかり滑って転倒したのだった。
 そうと理解するのに、しばらくかかった。やっと自分が転倒したのだと気付いた酒生は、同時に痛みを覚えた。
 痛みに動けずにいた時、真っ先に浮かんだのが中埜の顔だった。中埜が配達に来た時、もし自分が倒れていたら…、そんな想像に酒生は慌てる。
 最初に中埜に見つけて欲しいという気持ちと、こんな老いぼれた自分を中埜に見られるのが恥ずかしいという気持ちが混じり合い、大いに動揺した。
 その後、たまたま朝一番に配達に来た宅配業者の青年に発見され、素早く通報してくれた。やがて救急車で運ばれた時も、痛みとショックで朦朧とした意識の中で

(私が留守にしていたら、中埜さんは昼食のお弁当をどこで、誰と食べるのだろう)

と、ずっと案じていた。

(中埜さんに、傍に居て欲しい…)

 酒生は、自分の中のこの感情に、改めて真剣に向き合った。
 これまで、酒生は人生の多くを「彼」との思い出と共に生きてきた。もう二度と、人を愛することはないと決めていたし、愛を求めることもしなかった。
 けれど、中埜という存在が、静かに、そして確実に、酒生の心に灯りをともしてくれた。中埜との温かい会話、穏やかな時間、そして何よりも、彼の隣にいるだけで満たされていく心…。

(ああ…、そうか…)

 全てを悟った酒生は、もう中埜が居ないこれからの人生など考えられないのだと思った。

「愛しているんだよ。中埜幸志…」

 酒生は、窓の外の月に向かって小さく呟いた。なぜか、中埜もまた、同じ月を見ているような気がしたのだ。

 「もう二度と、人を好きにならない」と、固く閉ざしていた酒生の心の扉を、ある日突然、中埜が優しくノックしてくれたのだ。そのノックは、酒生の心を揺り動かし、再び愛を求める気持ちを芽生えさせた。
 何もかも諦めて、1人孤独に生きていく覚悟をしていた酒生だった。けれど、今ではもう控えめで穏やかな笑顔の中埜に見守られていなければ、生きてはいけないとさえ思う。
 この優しい温もりを、決して手放したくないと、酒生昇一郎は心に強く念じた。

***

 翌日は検査続きで、酒生教授は疲れ切っていた。
 外科的なレントゲンや外傷のチェックに始まり、入院した「ついで」だからと、あれこれと検査を追加された。
 結果的には捻挫以外に特に異常はなく、もう一晩泊まった翌日の午後には退院できることになった。

 木曜の朝に転倒した酒生だったが、金曜日は検査三昧で、土曜の午前中に最後の検査を終え、午後には退院の手続きを済ませた。
 土曜日で休みだからと、実姉と甥孫が迎えに来てくれた。
 左足の捻挫の湿布も張り替えてもらい、酒生は頼もしい姉と甥孫に付き添われて、無事に退院した。
 3人で昼食を共にした後、念のために市内の自宅に泊まれと迫る姉・有美子に対し、酒生は月見村の自宅に帰ると言って聞かなかった。
 弟の頑固さを知る有美子は、仕方なく孫息子・優哉に、弟・昇一郎を月見村に送るよう申し付けた。

「叔父さん、本当に1人で大丈夫なの?」

 月見村の大きな古民家の前で、甥孫の田町優哉は黒いミニバンを停めた。優哉からみて、酒生教授は「大叔父」にあたるが、若々しい酒生の事を「叔父」と呼んでいた。  
 優哉は祖母の有美子に似て、世話好きな所のある、親切で優しい大学生だ。

「大丈夫。心配はいらないよ」

 車を降りると、ひょこひょこと左足の痛みを庇いながら酒生教授は玄関に向かった。有美子やご近所の活躍で、戸締りなどや、片付けは済んでいた。

「良かったら、僕、泊まっていくよ」

 入院中の荷物を玄関の中まで運んでくれる、思いやりの深い甥孫の言葉に、一瞬、頬を緩めた酒生だったが、すぐに真面目な顔になって言った。

「たかが捻挫だ。甘やかされて、急に年寄りの気分になりたくない」
「ははは、確かに。叔父さんに急に老け込まれちゃ、こっちも困るよ」

 教養高く、若見えする大叔父がお気に入りの優哉は、そんな冗談を言って、若者らしい明るく元気な笑い声をあげた。

「また今度、改めて遊びに来てくれたらいいよ」

 母親が待っているからと、急ぐ優哉を見送って、酒生は1人で玄関を入った。
 そこには、おそらくは姉が郵便受けから取り出してくれたのであろう、幾つかの郵便物が置いてあった。自分が入院した日も、中埜がいつもと変わらず、きちんと郵便配達をしてくれた証拠だった。
 そんな中埜の誠実さに、胸が震える思いの酒生だった。

(すぐに、会いたい)

 そんな気持ちが抑えきれず、中埜に電話しようと慌ててスマホを取り出した酒生の顔が、そこにあったメールの文面に、パッと明るく輝いた。

《退院されたと聞きました。今からご自宅に向かいます》

 我慢できないように、「ふふふ」っと、無邪気な笑いが酒生からこぼれる。
 実は昨日の夜、入院患者に許された夕食後の自由時間に、酒生は足を引きずりながらオープンスペースまで出向き、やっと中埜に電話をしたのだ。
 体の心配はいらないこと。明日の午後退院すること。そして、すぐに会いたいことを告げた。
 中埜は、相変わらず穏やかで優しく、退院したら必ず会いに行くと約束してくれたのだった。






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