村の郵便配達・2

 その日、中埜は、仕事を終えた夕方、真っ直ぐに大学病院に向かった。
 その大学病院は、中埜が定年前まで勤務していた大学の附属病院だ。定年までのエピソードなどを聞いていた中埜は、場所はよく分かっていた。

(昇一郎さん…どうかご無事で…)

 バスの中で、教授を失うことの恐怖に、中埜の心臓は締め付けられた。バス停で下車すると、すぐ傍の病院へと小走りに駆け付けた。
 飛び込むように病院のエントランスに入ると、中埜は、まず受付で酒生教授の名前を尋ねた。

「酒生昇一郎様ですね。5階の個室でございます」

 受付の女性に、丁寧な口調でそう告げられ、中埜は急いでエレベーターに乗った。5階のナースステーションでは名前の記入を求められた。なかなか酒生に行きつかないもどかしさに中埜は唇を噛んだ。

 ようやく「酒生昇一郎」とネームプレートが掲げられた個室まで辿り着いた中埜だったが、室内の様子に気付いて、その場に思わず立ち止まった。

 そこは、中埜が想像していたような、ひっそりとした病室とはかけ離れていた。酒生の個室の扉は開け放たれていて、部屋の中には、酒生教授を心配して集まった、多くの人々の姿があった。

 中埜も顔を知る、酒生の実姉の有美子の他に、年齢も様々な見慣れない男女が、酒生を囲んで、口々に声をかけている。

「酒生教授!大丈夫ですか?」
「いったいどうしてこんなことに?」
「ご迷惑かと思って、来たのは私たちだけですけど、教え子たちがみんな心配していましたよ!」

 誰もが酒生教授を心配し、思いやり、慰めようとしていた。

(そうか…)

 中埜は、拍子抜けしてしまった。
 ついつい中埜は、酒生昇一郎の事を限界集落の月見村で静かに暮らす孤独な人物だと思っていた。酒生が心を許す相手は、今は自分1人だと勝手に思い込んでいたのだ。
 だが実際の酒生は、こんなにも多くの人に愛され、慕われていたのだ。

 酒生もまた、普段の中埜と2人きりの時とは違う顔で、見舞客たちをにこやかに見回していた。
 コッソリ廊下から様子を伺う中埜から見て、酒生が少し緊張しているように見えるのは、慣れない入院という環境のせいなのか、それとも入院に至った「理由」によるものなのか、中埜は少し不安だった。

 いつものように明るく、穏やかな笑顔で話す酒生に、周囲の人たちの視線も温かい。

「皆さん、ありがとう。もう大丈夫です。ご心配をおかけして、申し訳ありません。ちょっと庭に出たところ、うっかり足を滑らせてしまっただけなので」
「教授は案外おっちょこちょいのところがありますからね」
「おいおい、失礼だぞ」
「でも、本当のことよね」

 明るく朗らかな笑い声が、廊下にまで聞こえた。

「ダメですよ、あまり騒いでは」

 急いで教育者らしく酒生が諭すが、親愛に満ちた雰囲気は壊れることがなかった。

「念のための検査が続くだけで、今のところどこも悪くないんですよ。心配しないでね」

 酒生の姉で、世話好きの田町有美子がそう声を掛けると、ホッとした空気が一同に広がる。

「いや、捻挫はしているので、少し痛いです」

 酒生教授が無邪気にそう言うと、また病室内は笑い声に満ちた。
 酒生を慕う人々との温かいやり取りに、中埜はふと、自分がここにいるのが場違いな気がした。

(俺は…)

 中埜は、自分が酒生の何なのか分からなくなった。家族でもない、同僚でもない、教え子でもない。
 自分は、ただの郵便配達員にすぎないのだ。

 そして、同時に中埜の心に別の感情が湧き上がってきた。

(私の…昇一郎さんなのに…)

 それは、嫉妬だった。
 酒生を自分1人の物にしたいと願う、暗い独占欲が、中埜の心を支配した。

(酒生さんを大切に思っているのは、俺だけじゃないんだ…)

 中埜は、自分が抱えた複雑な想いに、どうしたらいいか分からず、しばらくその場に立ち尽くしていた。けれど、すぐに何かを決めて、誰にも気づかれないように、来た道を戻った。
 個室の前からそっと離れ、1人静かにエレベーターに乗り込むと、その誰もいない空間に、中埜はホッと安堵した。

(よかった…昇一郎さんが無事で…。ただそれが分かっただけで充分だ…)

 中埜は、そう自分に言い聞かせ、病院を後にした。

***

 賑やかな見舞客たちが帰ると、酒生はベッドに横になりながら、窓の外をぼんやりと見ていた。
 検査中のため、外科での入院中とはいえ、差し入れに持って来てもらった果物や、プリンや、限定の和菓子などは、全て姉の有美子が回収してしまった。賞味期限が長い焼き菓子やアラレなどは、有美子が、自身の孫で酒生教授の甥孫が運転する車で、月見村の自宅にまで届けてくれるという。
 あまりテレビを見る習慣もなく、聴きたい音楽も無い酒生は、食事も制限され、オヤツも取り上げられて、本当にすることが無く、時間を持て余していた。

(中埜さん、来てくれなかった…)

 胸を締め付けるようなこの感情が、一体何なのか、酒生には分からなかった。
 今日は中埜が月見村に配達に来る日だ。自分が庭で倒れて病院に運ばれたことは、すでに知っているはずだった。けれど、中埜にも月見村以外に定時まで仕事があるのは理解している。
 今はもう、20時。
 面会時間終了だった。





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