村の郵便配達・2

 中埜は、月見村を変わらぬ郵便配達のルートを回っていた。

 いつものように最後は酒生教授の家だ。
 大きな門の前で、お馴染みの赤いスクーターを停めて、配達用の黒い皮のバッグから分厚い封筒を取り出した。
 退職後も、酒生のもとには論文や評論の依頼が来る。今回もその原稿のやり取りかもしれない。そんなことを考えながら門をくぐったが、普段とは何かが違った。

(あ、停まってる…)

 玄関の右手、広大な庭とは反対のほうに酒生家のガレージがある。とにかく敷地が広いので、車くらい、どこにでも停められる。だがちゃんと屋根付きの駐車スペースを確保してあるのは2台分だけだ。
 そこには、埃をかぶった古いスポーツカーで、もうかなり誰も乗っていないのが分かる車が置いてある。もう一台は、以前は酒生教授の姉である田町有美子が愛用し、今は譲り受けた酒生昇一郎が日常的に使っている軽自動車だ
 愛車があるということは、酒生が出掛けているはずはない。
 そう思いながら、今度は庭の方へ回った。いつもなら、中埜が立ち寄る時間になると、どこからともなく教授が顔を出して、「おや、中埜さん」と穏やかな笑顔で迎えてくれる。それが中埜にとって、何よりも幸せな、特別な時間だった。

 だが、今日は静寂だけがそこにあった。

「教授、お留守かな…」

 そう呟いて、中埜が庭から屋敷の中を覗こうとした時、庭に面した座敷の前にある雨戸が、半分だけ閉まっていることに気付いた。
 酒生が、毎朝起きてすぐに、この南に面した座敷の雨戸だけは全開するのが習慣だと中埜は知っていた。

(何か、あった?)

 不吉な予感に、中埜の胸がざわつく。

「酒生さん!…酒生さ~ん!」

 中埜は半分開いた雨戸の向こうのガラス戸に手をかけ、中埜は声を掛けた。ガラス戸は、鍵が掛かっていなかった。

「酒生さん!…昇一郎さん!」

 思い切って、縁側に身を乗り出し、座敷の奥に向かって大きな声を出すが、どれほど呼びかけても、何の反応もなかった。

(どうして…)

 ハッとして、中埜は慌てて靴を脱ぎ、縁側に上がり込もうとしたその時に、背後から声が掛かった。

「中埜さん?どうしたの?」

 聞き慣れた声に振り向くと、近所に住む酒生の姉の友人であるご婦人が、門のほうから大声で中埜を呼んだ。

「はい、何度もお声掛けしたのですけれど、お返事が無くて…。もし、室内で倒れてらしたらと思って…」

 心配そうな中埜に、ご婦人は目を見張りながらあたふたとした様子で話し掛けた。

「そうなのよ!今朝、一番に来た宅配業者が庭で倒れている昇一郎さんを見つけて、救急車を呼んでくれたのよ。大学病院に運ばれたらしくて、今、有美子さんから連絡があって、家の様子を見てきてくれないかって言われて、私もこうして来たんだけど…」
「何ですって!」

 中埜は、驚きと動揺で、それ以上声が出なかった。

「今朝は少し冷えていたから、体調でも崩されたのかしらね」

 ご婦人は、心配そうに続けた。その言葉を黙って聞いていた中埜は、思い詰めた表情で俯いていた。

「中埜さんのように親身になって見守りサービスをしてくれる人がいれば、私たちも安心だわ」

 真剣な表情の中埜が、心から酒生を心配しているのが分かり、ご婦人はホッとしたように微笑んだ。

「私も主人ももう年でしょう?いつ何時何があっても不思議じゃないと思うの。2人同時になんてことはあまりないかもしれないけれど、絶対にないとは言えないじゃない?だから…」

 いつまでも終わりそうにないご婦人のお喋りに、中埜は途中で「ありがとうございました」と丁重に口を挟み、冷静に配達をしてきた封書を縁側に置き、ガラス戸を閉めた。

「あとは、よろしくお願いします。私は、これで…」

 そう言うと、中埜は淡々とご婦人の隣を通り過ぎ、門をくぐると、外に停めた赤いスクーターに戻った。

「朝一番に宅配業者が来てくれなかったら、こうして中埜さんが来てくれるまで発見されなかったかもね」

 ぞっとしたようにご婦人が呟くと、知られないように中埜は眉間に皺を寄せた。

「失礼します」

 そこから、どうやって安全に本局まで戻ったのか、中埜はよく覚えていない。局内での仕事を片付け、中埜は同僚への挨拶もそこそこに、定時で職場を後にした。
 職場のすぐ近くのバス停から、いつも帰宅時に乗るのとは反対方向のバスに乗った中埜は、暗い表情のまま車窓の外をボンヤリと見ていた。
 外はもう薄暗い。
 この前までは、まだこの時間なら明るかったのに、これほど暗くなるとは、もう冬が近いのだな、と中埜は思った。

 以前、酒生家に何度目かに泊りに行った時に、他愛もない話をしたことを中埜はふと思い出した。
 このまま冬になったら、月見村は市の中心部に比べてグッと冷え込む。そうなる前に、いつも2人で食事をする座敷に掘り炬燵を設えて、一緒に鍋を食べようと約束していた。
 同じ炬燵に足を入れ、好きな人と鍋をつつくのは、どれほど体と心を温めるだろうと、中埜はずっと楽しみにしていた。

(昇一郎さん…、どうかご無事で…)


1/7ページ
スキ