村の郵便配達

 気が付くと、雨が強まってきた。

「これは、かなりの大雨になりそうですね。お月見は絶望的だな」

 酒生は急いで立ち上がり、雨戸を閉め始めた。中埜もすぐにそれを手伝う。2階の雨戸は、今日は閉めっぱなしだったというので、1階の座敷の前以外の雨戸も、2人して閉めて回った。そのせいで、中埜はこの酒生家の間取りのほとんどを把握することになった。
 いつもの広々とした座敷は客間で、襖で隔てられた隣の居間と合わせれば、そこそこの人数が集まれる大広間になる。
 南にある庭を望む大広間とは反対側には仏間や家人の私室が並び、浴室、洗面所、台所へと続いている。

「中埜さんには、いつもの座敷の隣に布団を敷きますね」

 そう言われて、改めて今夜はここに泊まるのだと、中埜は自覚した。

「これで、まだ夕方にもならないのに、すっかり部屋が暗くなってしまった」

 珍しく愚痴をこぼしながら、酒生は電灯を点け、座敷に戻って座り直した。

「すっかりお客様に手伝わせてしまって、申し訳ありませんでした。さあ、飲み直しましょう」

 掛けられた声に振り返った中埜は、酒生の手に茶色く丸い壺が収まっているのを見た。

「中国の老酒ですよ。10年物で、なかなかいいものです」
「『紹興酒』ですか?」

 ちょっと高級な中華料理店で見かける大きな壺を思い出し、中埜は訊ねた。

「残念ながら『紹興』産ではないので、『紹興酒』とは呼べないのですが、これはこれで味わいがありますよ」

 再び2人は向かい合い、酒杯を交わす。

「これは、中国では『黄酒』と呼ばれていましてね。その中で最も有名なのが『紹興酒』なのです。日本では、産地に関係無く『黄酒』を『紹興酒』と呼ぶようですが」
「ホワンジュー、ですか」

 ピンとこない顔をした中埜に、酒生は柔和に微笑んだ。

「黄色い酒、と書きます。コクがあって、香りも良いんですよ」

 そう言って、壺を開けた酒生は、小さな玉杓子のようなもので黄酒を汲み、ショットグラスのようなものに注いだ。

「まずは、このままひと口」

 試すように言う酒生に従い、中埜はおそるおそるグラスを口に運んだ。
 ふわりと溢れるような香りに、中埜は目を見張った。これほど豊潤で上品なお酒の香りを知らなかった。
 チラリと酒生のほうを伺い見ると、彼はただにこやかに頷いていた。それは中埜の反応を理解しているようで、言葉が無くても気持ちが通じるようで、中埜は感激した。
 期待を込めてひと口含んだ。

「わあ~」

 中埜は、思わず声を上げた。確かに、アルコール度数は高い。だが、それ以上に、深いコクや甘味、香りなど全てが予想を超えていて、「黄酒」がこれほど熟成され、洗練された飲み物とは、中埜はこれまで知らなかった。

「いかがです?」

 待ち切れないように酒生が声を掛ける。すぐに目を輝かせた中埜が答えた。

「こんな『紹興酒』いや、『ホワンジュー』は初めてです。とても良い香りで、コクと旨味、それと軽やかな甘味がふんわりとして、とても美味しいです」

 興奮気味に、少し早口になっている中埜に、酒生もすっかり相好を崩している。

「お口にあって、良かったです。中埜さんは、中国との相性が良さそうですね」

 酒生にそのように言われて、中埜は少し赤くなった。だが、ここまでの飲酒のせいで目立たずに済んだ。

 午後いっぱい、美味しい食べ物や飲み物に囲まれ、酒生の中国の写真や思い出話で盛り上がった。

「そう言えば、シャンパンも日本では発泡ワインを適当に『シャンパン』と呼びますが、本当はフランスのシャンパーニュ地方のものだけが『シャンパン』と名乗れるのでしたね。『紹興酒』もそれと同じなんですね」
「中埜さんは、博識なのですね。一緒にお話していて、飽きることがありません」

 酒生に褒められ、またも中埜は頬を赤らめてしまう。もともと内気なところがある中埜だが、長く配達の仕事をし、多くの接客をこなすことで、雑学が蓄積されたのだ。
 それに、一緒に話していて楽しいのは自分も同じだ、と中埜は心の中で呟いた。なぜだか、それを口に出来ない。

「おや、こんな時間に誰が?」

 座卓の隅においてあった、酒生のスマホが鳴った。

「ああ、下の…」

 酒生は、ためらう素振りも無く、すぐにその電話に出た。

「ああ、どうも。ええ、ええ。すごい雨ですよね。ええ、ああ、そうなんですか。はい、はい…」

 聞くともなしに聞こえてくる内容に、中埜は酒生の電話の相手が、この月見村の住人だと察した。

「ああ、それは困りますね。でも、今夜は大丈夫です。出掛ける用事もありませんし」

 そこまで言って、酒生はチラリと中埜に視線を送り、二ッと笑った。

「はい、では、お知らせありがとう。ええ、また今度うちにも遊びに来て下さい。はい、じゃあ、また」

 通話を切った酒生は、少し困ったように笑った。

「大雨洪水警報が出て、公共のバスが止まったそうですよ。今夜は、自家用車も出さないように、との地域のお知らせでした」
「そういえば、雨音が大きくなりましたね」

 雨戸の向こうの、叩きつけるような大きな雨音に、2人はそっと耳をすませた。





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