村の郵便配達

 中埜はまずお茶を、酒生の前と自分の前に置き、それからいくつかある小鉢を2人の間に置いた。
 配膳盆を脇に置いた酒生は、中埜と向き合うように座った。

「田舎の良い所だとは思うのですが、ご近所のご婦人方がお裾分けにとお惣菜を届けて下さるんですよ」

 そう言われて、中埜はこれらの小鉢に入った煮物などが、酒生のお手製ではないことを知った。

「ありがたい一方で、1人暮らしの年寄りには食べきれないほどあるんですよ」

 困ったように言う酒生だが、その表情は柔らかい。ご近所の温情が理解できない酒生ではないのだ。

「では、遠慮なくいただきます」

 中埜が素直にそう言うと、酒生も嬉しそうに微笑んだ。
 カボチャの煮物、筑前煮、おからの旨煮など、古典的な家庭料理ばかりがそこに並ぶ。確かに野菜が豊富で健康的なお料理ばかりだが、似たような味付けで代わり映えがしない。それをこう何品も持って来られては、1人暮らしで、街で美味しいものに食べ慣れている酒生には、少し手に余るだろう。

「中埜さんのお弁当は…愛妻弁当ですか?」

 チラリと中埜のお弁当箱の中身を確認して、酒生は訊ねた。

「いえ…自分で作りました。独り身なので…」

 ちょっと恥ずかしそうな中埜に、酒生は慌てた。

「これは失礼なことを言ってしまいましたね。自分のことを棚に上げて、余計なことを…」
「いえ…」

 気遣うような酒生に、中埜も遠慮がちに口を開いた。

「では、先生…あ、いや、酒生さんも、独身なのですか?」

 その問いに、イヤな顔一つせず、酒生は答えた。

「そうなんですよ。好きなことに夢中になっているうちに結婚という言葉を忘れてしまってね。気が付くとこの歳になっていました」

 軽口めいた酒生の言い分を、中埜は面白そうに聞いていた。

「私も似たようなものです」

 2人は顔を見合わせ、ニッコリと微笑み合った。

「似た者同士ですね、私たちは」

 酒生がそう言うと、中埜は楽しそうに頷いた。

 そのまま2人は、他愛のない話をしながら、昼食を共にした。

「酒生さんは、大学の教授だったんですか?」
「そうですよ。日本と中国の比較文学が専門です」

 酒生はカボチャを、中埜は筑前煮のこんにゃくを摘まみながら話を弾ませた。

「日本と中国…。それじゃあ漢文とか読まれるんですね」

 心から感心したように中埜は言った。

「若い時に中国へ留学して、しばらくは向こうの大学でも働いていましたから、古典だけでなく、現代中国語も話せますよ」

 決して偉そうではなく、ただ事実をそのままに伝える酒生だった。そんな実直な元・教授を、中埜も素直に受け容れる。

「へえ、すごいですね!」

 屈託のない中埜に、思わず酒生も破顔する。

「すごくはないですよ。中埜さんは、中国や中国の古典に興味はありますか?」
「いや、学生時代からよく分からなくて…。ただ、万里の長城には行ってみたいですね」

 子供のように目を輝かせて中埜が言うと、酒生も大きく頷いた。

「確かに、万里の長城は宇宙からも確認できる建造物と言われていますからね」
「らしいですね。宇宙から見るのはまだ無理でしょうし、せめて地上から見てみたいものです」

 中埜の万里の長城への思わぬ関心の高さに、つい酒生の口も軽くなる。

「長城は、本当に長いですからね。中国各地で見られるんですよ。だが、やはり一番人気があって、有名なのは、北京でしょうね」
「そうなんですね。じゃあ万里の長城を見学するなら、北京に行けばいいのですね」
「ええ。北京からバスも出ていますし、日本からの団体ツアーには、必ずと言っていいほど観光に組み込まれていますからね」

 ここでニッコリと自分を見て笑った酒生に、中埜は心底、この人とは気が合うな、と実感した。

「ああ。私が行くなら、団体旅行だろうから、心配はいりませんね。初めての海外旅行になるし」

 海外渡航の経験が無い中埜は、すこし照れ臭そうに言った。その素朴さが酒生も気に入った。

「ですが、団体旅行で行くのは、ほとんどが『八達嶺』というところで、いつも観光客でいっぱいの場所です。けれど私なら、『慕田峪』を推しますね」

 酒生は、観光客でいつも混雑している「八達嶺」ではなく、それよりも少し遠い「慕田峪」を勧めた。観光客が少ないだけでなく、起伏も穏やかで、遠くまで見通せる雄大な景色を、酒生は愛していた。

「それも、万里の長城なのですか?」
「そうですよ。『慕田峪長城』というのです。少し鄙びていますが、観光客も少なく、遠くまで続く長城の美しさは、『八達嶺』に劣るものではありません」

 脳裏に壮大な建造物を浮かべ、懐かしそうな酒生の表情は、まるで少年のように無邪気なものだった。

「では、ぜひその…『ぼ…』?」
「『慕田峪長城』です」
「その『慕田峪長城』に行ってみたいですね」

 2人は初対面だったにも関わらず、あっと言う間に打ち解け、まるで数年来の友人のようだった。

「できることなら、私がご案内しますよ」
「本当ですか!」

 すっかり意気投合した酒生教授と中埜配達員は、それ以降、週2回の配達の日は、酒生家で一緒に昼食を摂るのが習慣になっていった。






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