村の郵便配達

 中埜が洗面から戻ると、酒生は台所にいた。1人で片付けものをさせているという後ろめたさに、中埜は慌てて布団が敷いてある部屋に戻って着替えた。

「すみません、任せっきりで…」

 そう声をかけて、中埜が台所に顔を出すのと、驚いた酒生が手にした切子のグラスを落としたのはほとんど同時だった。

「あ!」

 思わず中埜は声を上げるが、酒生は声も出せずにいた。
 美しい藍色のカットグラスは、床に落ちて砕けてしまった。

「大丈夫ですか!」

 急いで酒生に駆け寄り、中埜は彼の手を取った。酒生は思わぬ事態に、顔は青ざめ、手は震えて冷たくなっていた。

「ごめんなさい!大切なものなのに、本当に申し訳ありません」

 中埜は、それが酒生と『彼』との幸せな思い出の記念品だと知ってしまった以上、それを破壊してしまった自分に良心の呵責のようなものを感じた。自分の心の片隅で、『彼』への嫉妬がそうさせたような気がした。

 酒生はただ、何も言わずに茫然と立ち尽くしていた。
 不思議なことに、悲しみは無かった。『彼』との思い出が目の前で砕け散ったというのに、絶望感すら湧かなかった。単に、そこにあったものが壊れた、たったそれだけのことのように思えたのだ。
 そんな冷ややかな気持ちが、むしろ酒生にはショックだった。

「お怪我はありませんか?」

 気が付くと、中埜が酒生の足元にうずくまり、ガラスを拾おうとしていた。
 元の形を留めない過去の思い出を拾い集め、自分の目に触れないように片付けてくれるのが、中埜なのだと、酒生ははっきり認識することができた。

「掃除機はありますか?箒でかき集めるより、掃除機で吸い取ったほうが、ガラスの欠片が残らずに安心ですよ」

 気まずさゆえに落ち着きを失った中埜は、せわしなく動くが、しばらくして酒生の反応が無いことに気付いた。

「酒生、さん?」

 顔を上げて見ると、迷子の子供のように、為す術が見つからないという表情の酒生が息をひそめていた。

「…中埜さん…。私は…、私は、もう大丈夫です…」

 それだけを言って、酒生は目を潤ませた。
 それ以上何も言わなくても、中埜にも全てが分かった。
 ゆっくりと立ち上がり、ただ優しく、温かく、その腕で酒生を抱き留めた。

 とても静かに、人目をはばかるように酒生は泣いた。その背を、ぎこちない動きで中埜は何度も、何度も撫でた。互いに相手の体温を感じ、「生きている」ということを改めて思い出した。

 自分たちは、生きている。
 そして、それは「幸せになるために」生きているのだ。
 誰もが、幸せになっていい。幸せを希求することは全ての人類の権利なのだ。
 そんな小難しい言葉ではない。
 ただ、一緒に居たい。一緒にいるだけで、生きている意味がある。そんな、シンプルな気持ちだった。

 2人は、昨日と同じく、協力して家じゅうの雨戸を開けて回った。
 風も雨も止んだ朝、庭先から座敷にも陽が差し込み、あちこちが輝いているように思えた。

 2人は、炊き立ての白飯と、豆腐と葱のお味噌汁、そして鮭の塩焼きに、有り合わせで中埜が用意した具だくさんの和風オムレツを並べて、朝食を摂った。
 簡単な、けれど温かく、家庭的な、朝食だった。

 多くは望まない。ただ、それだけでいい。

 酒生と中埜の気持ちは、この1点で通じていた。

 食事を終え、後片付けをし、お茶を淹れると2人は座敷ではなく縁側に並んで腰を下ろした。
 いつもと同じく、古民家の広い縁側に並んでお茶を飲みながら、平和な時間を堪能する2人の間に言葉は必要では無かった。

 庭の常緑樹は、雨露で光っていて、眩いほどだ。
 世界がこれほど輝きを放ち、美しいものだと、2人は改めて理解した。

 しばらく、黙って庭を見ていた2人だったが、控えめな中埜が、ほんの少しはにかみながら口を開いた。

「私も、あと2年で定年退職です。定年後は、こんな静かな所で、のんびり暮らせたら幸せでしょうね」

 中埜に出来る、精一杯の告白だった。
 それを、口元だけで笑って、何も言わずにいた酒生だったが、お茶を飲み、遠くを見つめ、そして、庭に咲き乱れる白い彼岸花に目を止めながら、ポツリと言った。

「なら、ここに越してくるといいですよ」
「え?」

 驚いた中埜は、ほころんだ酒生の顔を覗き込んだ。その笑顔には慈愛が満ち、情感に訴える優雅さがあった。
 ちらりと送る流し目に、なんとも言えない余情があり、中埜はつい顔を赤らめてしまう。それを、またクスリと笑う酒生だ。
 それが「おとな」の余裕に思えて、中埜はますます恥ずかしくなった。これではまるで、教師に恋する中学生のようだ、と思う。

「人生の最後に、好きな人と暮らすのもいいものでしょう」

と、あまりにもサラリという酒生に、中埜は言い返すことができない。

「……。もう一度だけ、誰かを好きになってもいいですか?」

 一瞬、言い淀んでいた酒生が、ぽろりと口にした。そこには、これまでの孤独な過去を詰め込んだ、万感の想いがあり、それを中埜に受け止めて欲しいという、祈りにも似た期待があった。

「それが、人生最後の恋なら、きっと私が守ります」

 控えめな中埜には珍しく、きっぱりと言い切った。
 中埜の力強い言葉に、酒生はこれまで見せたことのない、満面の笑みを浮かべた。それが、酒生が幸せな証拠に思えて、中埜は衝動が抑えきれなかった。

「……」「……」

 そのままそっと抱き寄せ、縁側で触れるだけのキスをした。
 離れて目が合うと、2人は恥ずかしそうに、それでも幸福に包まれた笑顔を交わした。

「知っていますか?」

 中埜が嬉々として訊ねる。

「何ですか?」
「白い彼岸花の花言葉を…」

 今朝、スマホを充電中に、中埜が調べていたのは「天安門事件」と「白い彼岸花の花言葉」だった。

 白い彼岸花の花言葉は、「想うは、あなた一人」。

 これからは、互いがいるだけで、心穏やかな、いつまでも幸せに満ちた、明るい笑顔で生きていきたいと思う2人だった。




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