村の郵便配達
子供時代に使っていた部屋をリフォームした広い洋間に戻った酒生は、フッと溜息をひとつ落とし、ダブルベッドに腰を下ろした。
『彼』のことを他人に話したのは初めてだった。
長く『彼』への想いを胸に秘め、孤独に耐えて生きてきた。自分にはそんな生き方がふさわしいのだ、と言い聞かせてきた。
もう誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりするようなことはしたくなかった。人を愛することで、もうこれ以上何かを、誰かを失うことが怖かった。
けれど…。
中埜と出会い、親交を深めるうちに、忘れていた人と関わる温もりを思い出してしまった。話をすることで、食事を共にすることで、心の内が温かくなり、長年忘れていた安らぎを得ることが出来た。『彼』以外に、これほど酒生の心を慰めた存在は、長い間、無かった。
気が付くと、雨が止んで、外は静かになっていた。
***
綿を打ち直したばかりの、ふんわりした上等な客用布団に身を投げ出した中埜は、泣きつかれていた。
ひたすら、悲しかった。
孤独に身を沈め、ずっと1人で耐えてきた酒生昇一郎の生きざまが悲しかった。
心が通い合ったと思いつつ、何もできない自分が悲しかった。
好きになってはいけない人を、好きになってしまった自分が、悲しかった。
***
酒生も、中埜も、人を恋い慕うことがこれほど苦痛を伴うのだと、今、初めて知ったような気がした。
朝になるまで、ずっと考えを巡らせていた2人は、ほとんど眠れずにいた。
やがて、風だけでなく、雨音も止み、雨戸の隙間からも日が差し始めた。
体はだるさを感じていたが、中埜は起き上がった。
じっとしていられずに、そっと雨戸を開け、庭を眺めた。
広々とした庭は、雨上がりの露に濡れ、朝日を浴びてキラキラと輝き、荘厳さを感じさせた。
「あ…」
あれだけの暴風雨にさらされながら、繊細に見えた白い彼岸花が、健気にもまだ咲き誇っていた。
その、儚げでありながら、凛とした様子が、酒生に重なり、中埜はまた胸をかきむしられるような気持ちになる。見返りはいらない。ただ、好きだと思う人を、大事だと思える人を守りたい、支えたい、優しくしたい、それだけなのに…。
その時、スマホの通知音がした。
中埜は慌ててスマホを取り出し確認した。それは着信音ではなく、間もなくバッテリーの残量がなくなるという知らせだった。昨夜は、スマホを充電するのを忘れて寝てしまったのだ。
中埜は持ってきたリュックの中から充電器を取り出し、慣れた様子で座敷の隅で充電を始める。配達時に、この座敷で昼食を摂る時に、時々充電させてもらうことがあったのだ。
充電中、スマホを手にしたついでに、中埜はふと思いついて、あることを検索した。
***
明け方に少しうつらうつらした酒生は、ゆっくりと目を開けた。部屋はリフォームしたが、天井はそのままで、照明だけを変えた。見慣れた格子天井の木目に、ぼんやりと子供の頃を思い出す。
何の苦労も、不安も無かった。特別に勉強が出来たわけでもなく、目立つような子供では無かった。見た目は、幼い頃から可愛らしいと褒められたが、中学くらいになると、中性的な魅力というより、どっちつかずと言った方が当てはまった。結局、これといった特技も無く、平凡な子供だった。
そんな自分でも、『彼』と出会い、深く知り合い、幸せという感情を実感することが出来た。それで、この人生は充分だと、酒生は自分に言い聞かせた。
多くを望んではいけない。多くを望めば、それを失う時の悲しみを伴うのだ。
今さら、温もりを求め、それを手放すことが、酒生には怖かった。
***
スマホで幾つかを検索していた中埜は、ボンヤリと庭の白い彼岸花を見つめていた。
「『想うは、あなたひとり』…」
今の中埜にとって、大切な人だと想い、慕うのは酒生昇一郎ただ1人だった。しかし、その酒生が、長年想ってきた相手は、『彼』ひとりだ。
想っても、想っても、この気持ちは届かないのだ、と中埜は受け入れようとした。
気が付くと、中埜の頬には涙が伝わっていた。
***
そっと座敷を覗いた酒生は、縁側に座り込み、庭を見つめながら頬を濡らしている中埜に気付き、何も言えなくなった。
ほんの小さな灯火を見つけた気がした。けれど、それは少しの風で消えてしまうほど、弱く、儚い。
その温もりを信じてもいいのだろうか。
ふと酒生は思った。
何かに、誰かに甘えて生きていくことが許されるのだろうか。
恐らくは、自分のために泣いてくれている中埜を想い、酒生は黙って彼の横顔を見つめていた。
***
「おはようございます」
何事も無かったかのように、酒生は声を掛けた。
「え、あ、あの~。おはようございます。勝手に雨戸を開けてしまいました」
見れば、中埜はまだパジャマ姿で、すでに着替え、洗面を終えた酒生とは対照的な姿だった。
それに気付いた中埜は、慌てて立ち上がり持参した洗面道具を手にして言った。
「すみません、顔を洗って来ますね」
「ごゆっくり…」
穏やかな笑顔で中埜を見送り、酒生は座卓の上を片付け始めた。
『彼』のことを他人に話したのは初めてだった。
長く『彼』への想いを胸に秘め、孤独に耐えて生きてきた。自分にはそんな生き方がふさわしいのだ、と言い聞かせてきた。
もう誰かを傷つけたり、自分が傷ついたりするようなことはしたくなかった。人を愛することで、もうこれ以上何かを、誰かを失うことが怖かった。
けれど…。
中埜と出会い、親交を深めるうちに、忘れていた人と関わる温もりを思い出してしまった。話をすることで、食事を共にすることで、心の内が温かくなり、長年忘れていた安らぎを得ることが出来た。『彼』以外に、これほど酒生の心を慰めた存在は、長い間、無かった。
気が付くと、雨が止んで、外は静かになっていた。
***
綿を打ち直したばかりの、ふんわりした上等な客用布団に身を投げ出した中埜は、泣きつかれていた。
ひたすら、悲しかった。
孤独に身を沈め、ずっと1人で耐えてきた酒生昇一郎の生きざまが悲しかった。
心が通い合ったと思いつつ、何もできない自分が悲しかった。
好きになってはいけない人を、好きになってしまった自分が、悲しかった。
***
酒生も、中埜も、人を恋い慕うことがこれほど苦痛を伴うのだと、今、初めて知ったような気がした。
朝になるまで、ずっと考えを巡らせていた2人は、ほとんど眠れずにいた。
やがて、風だけでなく、雨音も止み、雨戸の隙間からも日が差し始めた。
体はだるさを感じていたが、中埜は起き上がった。
じっとしていられずに、そっと雨戸を開け、庭を眺めた。
広々とした庭は、雨上がりの露に濡れ、朝日を浴びてキラキラと輝き、荘厳さを感じさせた。
「あ…」
あれだけの暴風雨にさらされながら、繊細に見えた白い彼岸花が、健気にもまだ咲き誇っていた。
その、儚げでありながら、凛とした様子が、酒生に重なり、中埜はまた胸をかきむしられるような気持ちになる。見返りはいらない。ただ、好きだと思う人を、大事だと思える人を守りたい、支えたい、優しくしたい、それだけなのに…。
その時、スマホの通知音がした。
中埜は慌ててスマホを取り出し確認した。それは着信音ではなく、間もなくバッテリーの残量がなくなるという知らせだった。昨夜は、スマホを充電するのを忘れて寝てしまったのだ。
中埜は持ってきたリュックの中から充電器を取り出し、慣れた様子で座敷の隅で充電を始める。配達時に、この座敷で昼食を摂る時に、時々充電させてもらうことがあったのだ。
充電中、スマホを手にしたついでに、中埜はふと思いついて、あることを検索した。
***
明け方に少しうつらうつらした酒生は、ゆっくりと目を開けた。部屋はリフォームしたが、天井はそのままで、照明だけを変えた。見慣れた格子天井の木目に、ぼんやりと子供の頃を思い出す。
何の苦労も、不安も無かった。特別に勉強が出来たわけでもなく、目立つような子供では無かった。見た目は、幼い頃から可愛らしいと褒められたが、中学くらいになると、中性的な魅力というより、どっちつかずと言った方が当てはまった。結局、これといった特技も無く、平凡な子供だった。
そんな自分でも、『彼』と出会い、深く知り合い、幸せという感情を実感することが出来た。それで、この人生は充分だと、酒生は自分に言い聞かせた。
多くを望んではいけない。多くを望めば、それを失う時の悲しみを伴うのだ。
今さら、温もりを求め、それを手放すことが、酒生には怖かった。
***
スマホで幾つかを検索していた中埜は、ボンヤリと庭の白い彼岸花を見つめていた。
「『想うは、あなたひとり』…」
今の中埜にとって、大切な人だと想い、慕うのは酒生昇一郎ただ1人だった。しかし、その酒生が、長年想ってきた相手は、『彼』ひとりだ。
想っても、想っても、この気持ちは届かないのだ、と中埜は受け入れようとした。
気が付くと、中埜の頬には涙が伝わっていた。
***
そっと座敷を覗いた酒生は、縁側に座り込み、庭を見つめながら頬を濡らしている中埜に気付き、何も言えなくなった。
ほんの小さな灯火を見つけた気がした。けれど、それは少しの風で消えてしまうほど、弱く、儚い。
その温もりを信じてもいいのだろうか。
ふと酒生は思った。
何かに、誰かに甘えて生きていくことが許されるのだろうか。
恐らくは、自分のために泣いてくれている中埜を想い、酒生は黙って彼の横顔を見つめていた。
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「おはようございます」
何事も無かったかのように、酒生は声を掛けた。
「え、あ、あの~。おはようございます。勝手に雨戸を開けてしまいました」
見れば、中埜はまだパジャマ姿で、すでに着替え、洗面を終えた酒生とは対照的な姿だった。
それに気付いた中埜は、慌てて立ち上がり持参した洗面道具を手にして言った。
「すみません、顔を洗って来ますね」
「ごゆっくり…」
穏やかな笑顔で中埜を見送り、酒生は座卓の上を片付け始めた。
