村の郵便配達

「1989年6月。私たちは、強制的に出国することになりました」

 酒生の硬い声に、中埜はハッとした。2人の関係がバレて、日本へ強制送還されたのかと思ったからだ。

「混乱の中、領事館や大学の留学生担当から勧告が出て、私たちは他の日本人留学生や駐在員家族と共にバスに乗せられ、空港へ運ばれ、そのまま帰国しました」

 中埜は、それが何なのかピンと来なかった。が、それを察した酒生が、ちょっと皮肉っぽく唇を歪めて端的に説明した。

「天安門事件ですよ」

 1989年6月。民主化を求めた学生たちが天安門広場に集まり、ハンストなどの抗議活動を行った。それらを政府は武力制圧しようとしたため、全面衝突となった。北京市内には戒厳令が発動され、不安と動乱が街中に広がった。市外からは軍隊が戦車と共に入城し、武器を持たない学生たちと衝突した。
 実際、その頃には学生の主導から、政府に不満を持つ若い一般人を多く巻き込んでいたが、政府は学生たちの暴動としか認めず、結果的に軍隊による暴動制圧によって、天安門広場は解放された。その時の混乱による死傷者や行方不明者の数は、現在でも正確には分かっていない。

 中埜も、天安門事件は覚えていた。連日テレビや新聞で取り上げられていたし、今でも戦車の前にたった1人で立ちはだかる若者の姿は目に焼き付いている。

「あの時…、北京に…」

 中埜にとって、天安門事件は画面の向こうの世界の出来事だという認識だった。それが、酒生の言葉に、急にあのクーデターが現実味を帯びて感じられた。

「無事に帰国したものの、私たちには行き場も無く、困り果てていた時に、手を差し伸べてくれたのは姉でした。姉は、決して私たちの関係を認めてはいませんでしたが、いつでも私の味方ではありました。姉が用意してくれた学生用のアパートの1室に私たちは落ち着きました」

 酒生の姉には、中埜も会ったことがある。酒生家に来ていた田町有美子が、近所の友人宅に立ち寄っていたところへ、中埜が配達に行ったのだ。しっかりした、それでいて人の良さそうな、感じの良い女性だった。確かに彼女なら、テキパキと急に帰国する弟たちの下宿先くらい手配できただろう。

「それでも、『彼』 の気持ちは取り戻せませんでした…」

 酒生は項垂れて、中埜の方を見ようともせず、かすれた声で言った。

「生き急いだ『彼』は、ある日下宿を飛び出し、そのまま帰ってきませんでした」

 それが、酒生と『彼』との永遠の別れだった。

「『彼』を愛したことで、幸せも、喜びも知りました。けれど、そのために家族を失い、故郷を失い、そして最終的には『彼』自身をも失ってしまった…」

 ゆっくりと顔を上げ、酒生は手にした切子のグラスを見つめた。

「美しい切子細工でしょう?江戸切子でも、薩摩切子でもありません。中国大連のガラス工場の直売店で買ったのです。『彼』一緒に、大連へ旅行に行った時に、地元の人に案内されて工場見学に行ったのです。その時の記念にと、グラスを2個買いました。…もっとも幸せだった時の思い出です」

 その時を思い出したのか、酒生は純真な笑みを浮かべた。その顔に、先程アルバムで見た、『彼』と共に屈託なく笑う若い頃の酒生を、中埜は見た気がした。幸せに満ち足りて、何の不安も知らず、未来を信じる、輝くような笑顔だった。
 そんな無邪気な若い酒生を、確かに中埜は愛しいと思った。

 中埜のそんな気持ちを知ってか知らずか、酒生は振り絞るように言った。

「これ以上、何も失いたくない…そう痛感しました。だから…」

 酒生は真っ直ぐに中埜を見つめ、真剣な顔をして言った。

「だから、もう誰も好きにならないと決めたのです」

 酒生の言葉に、中埜は突き放されたような気がした。何か言おうとして言葉にならない。慰めも、励ましも、癒しさえも必要としない酒生の冷ややかな態度に、中埜はどうしてよいか分からず、ただ取り残されたように途方に暮れるだけだった。

「さあ、今夜はもう遅い。そこに布団も敷いてありますし、好きな時に横になって下さい。私はそろそろ2階の自分の寝室に引き上げます」

 そう言って立ち上がる酒生は、疲れ切っていた。

「ここは、そのままにしておいてください、明日の朝、片付けましょう。じゃあ、おやすみなさい、中埜さん」

 次に、いつもと変わらぬ温厚な表情でそう言って、中埜には何も言わせず、そのまま座敷を出て、2階の自室へと上がっていった。
 遠ざかる足音に、中埜は急に胸が締め付けられるような気がした。

 若く、純粋で、美しい酒生青年の孤独を思い、中埜は切ない。明るい未来を夢見ていた無邪気な青年に、世の中は、家族は、友人はどれほど冷酷な態度で追い詰めて行ったのか…。

〈もう誰も好きにならない〉

 そう言い切った酒生の孤立した生き方に、中埜は同情以上のものを感じていた。

(酒生教授が、好きだ…。あの人は、1人で寂しく生きていくべき人じゃない。誰かに愛され、大切にされる価値のある人だ…。あの人が好きなのに…、俺は、無力だ…)

 そのまま中埜は座卓に伏し、声を押さえて号泣した。



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